チャプター29 ― 特にダメなインターン。
ようやくビギー・ピザズの前に到着した。
だが――その瞬間、胸の奥に微かな違和感が走る。
理由ははっきりしない。けれど、街全体に漂う“何か”がある。
微妙で、重く、しかし今のところ敵意はない……それでも、確実に僕の本能を刺激する、不穏な気配だった。
僕は仲間たちの方を振り返る。
「みんな……窓際の席を確保しておいてくれ。あと、ヤギのチーズとはちみつのピザを頼んでくれると助かる。」
ヴァイオレットはすぐに察し、瞳を輝かせて頷いた。
「分かったわ、エンジェルくん。私が手配するね……何か感じてるんでしょう?」
隣に立つブランシュは、わずかに眉をひそめ、鋭く冷たい視線で周囲を見渡す。まるで、僕と同じ“気配”を探っているかのように。
(……私も感じる。この街を乱す何か……油断できない。彼のためにも。)
少し後ろにいたエスターは腕を組み、ため息をついた。
「はあ……本当に、エンジェル?まだ入ってもいないのに、もう謎のヒーロー気取り?拍手でもしてほしいわけ?」
「そんなに文句言うなよ、エスター。」僕は肩をすくめる。
「君には、僕が感じてるものが分からないだけだ。」
エリーは、我慢できずにくすりと笑う。
「出たよ、我らが英雄様。ピザを食べる前から“神秘アラート”全開か!」
「ええ、」エスターも鼻で笑う。「トッピングが期待通りじゃなかったら、きっと倒れるわね。」
ヴァイオレットは身を乗り出し、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、エンジェルくん。」
「……ありがとう。」
僕は短くそう返しながらも、視線はなお空気の揺らぎを追っていた。
ブランシュは何も言わず、ただ意味深な、守るような視線を僕に向ける。
(私の後ろにいて、エンジェル……全部見ている。何より、あなたを。)
エリーは、エスターが腕を組んで不機嫌そうにしているのを見て大笑いした。
「いやあ、エンジェル。光栄だぞ?セレスティアの姫が君のために不機嫌なんて!」
「バカ。」エスターは呆れたように目を逸らす。
「あいつのためじゃないわ。ただ……あの、よく分からない感じが気に入らないだけ。」
僕はそのやり取りに苦笑しながら首を振り、皆がピザ屋の中へ入っていくのを見送った。
そして一人、街にそびえる高い塔の方へと視線を向ける。
――彷徨う危険の存在を、はっきりと意識しながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
数瞬後、俺は紫色の塔の真下に立っていた。
高さはおよそ百五十メートル。
脚に爆発性のマナを集中させ、一気に踏み切る。
次の瞬間、俺の身体は空を切り裂き、塔の外周に設けられた手すりへと到達した。
――そして今、
地上から百メートル以上の高さ。
紫の大塔の手すりの上に、俺は立っている。
足元には常に爆発性マナを巡らせ、バランスを保ち、万が一落下しても衝撃を相殺できる状態だ。
眼下を見ると、フードを被った男が一人。
両手に抱えているのは――明らかに異常なアーティファクトだった。
複雑な球体。
無数の歯車、精巧な機構、絡み合う内部構造……
しかも、明らかに“使用説明書”のような刻印が施されているが、その文字は、おそらく本人にしか理解できない類のものだ。
(……はあ。)
頭の中で、思わず毒づく。
(クソ……なんて間抜けなんだ。)
(街を破壊しようとしてるくせに、このクソアーティファクトの起動方法すら分かってないとか。)
(新人か? それともただの素人か?)
(前日にしか勉強しない怠け者の学生そのものだな。問題の半分も理解してないタイプだ。)
俺はしばらく観察する。
男は球体を回し、裏返し、歯車を合わせようと必死だが……何も起こらない。
指先が微かに震えている。
苛立ちが、はっきりと伝わってきた。
「……くそ……」
男は小さく呟く。
「どうやって……合うんだ……? なんでだ……」
俺は静かにため息をついた。
(本気か?)
(マジで?)
(こんな奴のせいで街ごと吹き飛ばされるとか、冗談じゃない。)
男は首を傾げ、刻印や紋様を一つ一つ睨みつける。
まるで、球体が自分に答えを教えてくれるとでも思っているかのように。
「……なんで動かないんだ?」
「合わせるだけ……だろ……?」
「……くそ……」
(はあ……)
俺は心の中で首を振り、意識を切り替える。
(落ち着け、エンジェル。)
(ただ一歩、静かに近づくだけだ。)
(こいつは、自分が何にやられたのかすら分からない。)
男は球体を持ち上げ、苛立ちの声を上げる。
「クソッ! なんで動かねぇんだよ!!」
俺はわずかに身を乗り出し、歯車に視線を集中させる。
(……やれやれ、初心者が。)
(もう一秒でも触ったら、“本当の問題”を教えてやる。)
その時、歯車の一つに刻まれた小さな文字が目に入った。
俺は、内心で笑う。
(ああ……なるほど。)
(これか。)
(パニックにならなきゃ、バカでも分かるだろ。)
男は完全に自分の世界に入り込み、意味不明な指示を独り言のように呟き続けている。
まだ、俺がすぐ背後――数センチの距離にいることにも気づいていない。
「なんで……こう……いや……クソッ!」
拳を握る。
いつでも動ける。
(正直……)
(この無能のせいで、街を守るために空中で自爆とかになったら……)
(今日一日、人生最悪の日になるな。)
俺は音もなく、その場に留まる。
不器用な動き一つ一つを見逃さず――
致命的なミスを犯す、その瞬間を待ちながら。
俺は少しだけ身を乗り出し、姿をさらさない程度に声を届かせる。
あまりにも迷子すぎて、脳みそが軋む音まで聞こえてきそうだ。
だから言葉はあえて単純に、落ち着いて選ぶ。
まるで子どもに棚の組み立て方を教えるみたいに。
「 よく聞け。落ち着いてな。
一番大きい歯車を、時計回りに三クリックだ。」
男は驚いたように顔を上げ、俺を見る。
それから小さく頷き、震える手で言われた通りに動かした。
「 次だ。
一番小さい歯車を、反時計回りに六クリック。」
「 は? 六……はん、反……?」
男は戸惑いながらも、素直に従う。
「いち……に……さん……よん……ご……ろく。……よし」
思わず小さく笑いそうになるのを堪え、今度は少しだけ声を強める。
「いいか。
今度は球体の頂点にあるボタンを、三秒間押し続けろ。焦るな。
それで……紫に点滅し始めたら、地面に思いきり投げろ。
置くな。投げるんだ。
それでカウントダウンが始まる。一時間だ。
あとは全力で逃げろ。」
男は完全に感動した顔で俺を見つめる。
まるで星の秘密を教えられた老賢者を見るかのように――本気で。
「 す、すげぇ……
ありがとう、マジで。
あんた、命の恩人だ。
誰か知らないけど……本当にありがとう。」
にこにこしながら、危うく俺の背中を叩きそうになる。
(……叩く気か? 俺を?)
眉をひそめる。
「なあ、せめて名前だけでも教えてくれよ。
男はもう完全に気が緩んでいる。」
正直、名乗る気はない。
だから、投げやりに答える。
「 ……親切な通行人、でいい。」
男は心から嬉しそうに笑い、再び球体へと向き直る。
内部の小さな文字盤が、淡い紫から、次第に強く点滅し始めた。
「おお……!
本当に動いた!
一時間……完璧だ……
よし、じゃあ……今、投げるんだな?」
男は後ろに下がり、勢いをつけて――
予想以上の力で球体を投げ放った。
球体は手すりに当たり、金属屋根を跳ね、
やがて低い振動音を立てながら静止する。
一瞬、静寂。
男は宝物を見るような目でそれを見つめている。
――だが、次の瞬間。
男がこちらを振り返る。
目を見開き、息を呑み、叫ぶ。
「 ……お前!?
お前が……俺がすぐ爆発させるのを邪魔したのか!?」
表情が一変する。
崇拝は消え、疑念と怒りが浮かび上がる。
男は短剣を抜く。
動きはぎこちない。
……プロじゃない。
「誰だ、お前。
なんで助けた?
近衛か? 民兵か?
それとも……どこの回し者だ!?」
俺は両手を上げ、わざとらしく肩をすくめる。
—「 落ち着け。
事故で街を吹き飛ばすのを止めただけだ。
お前、相当マヌケに見えたし……
俺はバカな真似が嫌いなんだ。」
男は神経質に笑い、構え直す。
足を開き、刃を突き出す。
「俺の仕事を邪魔した代償は払ってもらうぞ。
声は強がっているが、空回りしている。」
俺はため息をつき、鼻で笑う。
「本気か?
ここだぞ。百メートル上空。
すぐ横に街を吹き飛ばす球体がある。
少しは考えたか?
それとも写真映え狙いか。」
歯を食いしばる男。
怒りの裏に、はっきりとした迷いがある。
愚かではない。ただ、焦っているだけだ。
命令に従うタイプ。予定外に弱い。
「……いい。
やるしかない。
だが覚えておけ。俺は退かない。」
「同じだ。
でもまず、その刃を下ろせ。
話をしよう。
それと……
本気でイキるなら、せめて歯車くらい一人で合わせられるようになれ。
俺のピザ休憩を無駄にするな。」
男は唸るが、動かない。
世界の縁。
塔の最上部。
向かい合う二人。
街を吹き飛ばそうとした素人と、
取扱説明をしてやったエルフ。
……あまりにバカバカしくて、内心で笑ってしまう。
だが、次の一秒で全てが変わる可能性もある。
「 さあ、話せ。
誰に雇われた。
なんでそれを持ってる。
場合によっては……
街を壊さずに済む道もある。」
男は唸り、唇を噛み、
低い声で語り始める。
依頼人。報酬。
歪んだヴォルタへの憎しみ。
俺は聞きながら考える。
どうやってこの球体を無力化するか。
……そして、どうやって温かいピザを取り戻すか。
――次の瞬間。
男が咆哮し、突進してくる。
刃を振り上げ、床を蹴る音が響く。
風が塔を切り裂き、金属が空を裂く。
俺は空を仰ぎ、ため息。
「 ……マジで。
今日は平和に過ごしたいだけなんだが。」
男が届く前に、
左手を背後へ伸ばす。
白い光。
吐息のような音。
――大太刀が顕現する。
長く、細く、異様な存在感。
紫の塔の光を反射し、刃が激しく煌めく。
衝突。
一切表情を変えず、俺はその刃を受け止める。
金属音が響き、衝撃で男は数メートル弾き飛ばされる。
「 ……まだ立ってるのか。
素人にしては上出来だ。」
男は歯を食いしばり、再び突っ込んでくる。
斬撃、突き、フェイント。
必死だ。
俺はすべて捌く。
無駄のない動き。
正確で、静かで、どこか優雅。
「 やめとけ。
勇気はあるが……完全に力不足だ。」
「黙れぇぇ!!」
跳躍。
上段からの一撃。
――悪手。
俺は一歩ずれて、刃先で腕をかすめる。
バランスを崩し、短剣が指から滑り落ちる。
武器は虚空へ。
光の中へ消えていった。
俺は動かず、大太刀を肩に乗せる。
風が髪を揺らす。
男は壁際で喘ぎ、丸腰。
「……終わりだ。」
右手を伸ばし、
一瞬でアーティファクトを奪い取る。
抵抗は無意味。
装置は俺の掌で微かに震え、
歯車は、さっき教えた通りに噛み合っている。
俺はそれを見て、男を見る。
「皮肉だな。
ちゃんと俺の言うことは聞いたのに。
……頭が足りなかった。」
男は歯を鳴らすが、もう動けない。
風が唸る。
マントと白髪が舞う。
俺は装置を指で回す。
「さて。
誰からこれを渡されたか、話してもらおう。
階段で降りるか……
特急ルートか。
選ばせてやる。」
男の目が凍りつく。
静寂。
風の音。
掌の中で、歯車が規則正しく刻む音。
その時――
背後から、不意に音が響いた。
パチ……
パチ……
パチ……




