チャプター27.1 ― 吹雪が少しずつ温まる散歩。
教室のベルが鳴り、柔らかくも澄んだ音が響いた。
教授の声は、閉じられるノートのざわめきの中にかき消される。
生徒たちは荷物を片付け始め、何人かはまだ、ブランシュ・デ・エーテル姫が一年生の授業に現れたことについてささやきあっていた。
天文学のノートを閉じ、窓の方へ目をやった。
午後の空は金色と淡い青に染まり、学院の桜並木の上に広がっている。小さくため息をついた。
「やっと…少し静かになる。」
鞄に手をかけたその瞬間、影がすっと近づいてきた。
溶けかけの雪のような、ひんやりとした気配が私を包んだ。
目を上げると――そこにいた。
ブランシュ。
私の目の前に立っている。
その金色の髪は完璧に対称に整えられ、私の腕すれすれまで届く。水晶のように青い瞳が、容赦ない強さで私を見つめる。
その制服は隙のない仕立てで、曲線美を余すところなく際立たせていた。思わず身震いする。
「……ブランシュさま……?」私は少し戸惑いながら、声を漏らした。
彼女はすぐには答えなかった。視線がゆっくり私の顔をなぞり、瞳を覗き込む。その頬が赤くなる――最初はわずかに、やがて少しずつ。淡い、予期せぬ温もりが彼女の蒼白な頬を染める。
「……あのね」やっと、落ち着いた柔らかい声で――「よければ、一緒に歩いてくれませんか?」
私は一瞬、固まる。
「一緒に……歩くの?」
彼女は頷き、背筋を伸ばして凛と立つが、指先だけがわずかに震えている。
「ええ。特別なことではない。ただの散歩です。授業は終わったし…少し話したくて。」
周囲の生徒たちも動きを緩め、その場に見入る。
一年生の生徒に歩み寄る姫――!?
私は少し照れくさそうに、手を後ろに回した。
「えっと……いいけど、長くは歩けない。十五分後に別の授業があるから。」
彼女は頭をわずかに傾け、かすかな微笑を浮かべる。
「数分で十分よ。」
一歩早く歩き、私を少し置き去りにしながら、軽やかに髪の房を耳にかける。
背後から熱い視線を感じるが、気にしないことにした。
二人で教室を出る。階段を静かに下る。
風が長い髪をそっと揺らし、午後の黄金の光が肌に柔らかく反射する。
「で……」私は口を開いた。氷を溶かすように――
「天文学に興味があるのか?」
彼女は顔をこちらに向け、表情は穏やかで、まるで厳粛さを帯びている。
「ええ。星は決して嘘をつかない。世界が崩れても、光を放ち続ける。」
少し間を置く。
「エンジェルくん、君は……よく見るのか?」
「たまに。静かな場所を見つけられた時だけ。」
私は少し笑う。
「星はね、ここで何が起ころうと変わらない唯一のものだ。」
彼女は黙って頷く。
その青い瞳は、冷たくも優しく私を捉える。
「まさに、私もそう思うわ。」
再び沈黙が訪れる。
彼女は低めの声で続ける。
「エンジェルくん……君は、自分がどれほど特別か、まだわかっていないでしょう?」
私は立ち止まる。
「…え?」
彼女も立ち止まり、わずかにこちらを向く。
頬は紅潮しているが、視線は鋭く澄んでいる。
「答える必要はない。ただ、覚えていてほしいの。」
風が吹き、肩まで届く髪がそよぐ。
二人きり。天文塔と庭園の間、並木道の下で。
私は数秒じっと見つめてから、目をそらした。
「……こういうことを言うと、ちょっと怖いかな。」
彼女は初めて、わずかに微笑む。
「かもしれない。でも、本心よ。」
静寂。遠くでベルの音が響き、授業再開を告げる。
私は一歩下がる。
「そろそろ行かないと。」
彼女は静かに頷く。
「わかりました。」
だが背を向けると、柔らかく低い声が耳元に届いた。
「エンジェルくん...…一緒に歩いてくれてありがとう。」
私は軽く振り返り、微笑を浮かべる。
「どういたしまして、姫。」
彼女はしばし目を伏せ、そっと呟く。
「…ブランシュさんと呼んで。」
私は一瞬、固まるが、黙って頷いた。
次の授業へ向かう途中も、彼女の視線を感じる――氷と炎、少し解き明かすには怖い謎めいたものを帯びている。
太陽は学院の銀色の塔の背後に少し昇り、石畳に黄金の光を投げかける。
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陽光は学院の銀塔の背後からゆっくりと昇り、石畳に淡い金色を落としていた。
ブランシュはひとり歩いていた。
歩幅は変わらず静かで、わずかに伏せた横顔には微かな影。
風が制服の裾を揺らし、床をかすめるほど長い金髪をふわりと持ち上げる。
その表情は氷のように無機質――けれど、その深い蒼の瞳の奥では、確かに嵐が渦巻いていた。
エンジェルくん。
その名が胸の奥で祈りのように、灼けつくように響く。
彼の視線――静かで、誠実で、どこか遠い。
そして、控えめな、あの淡い微笑み。
胸を突き抜けた、あの静かな閃光。
――気づいてくれたの……?
足取りは乱れない。エーテル王家の姫として当然の、あまりに完璧な歩み。
だが、その完璧さの裏側で、張りつめた氷がわずかにひび割れる。
抑え込んできたはずの、古い感情が目を覚ます。
それは喜びに近い、柔らかな熱。
ふふ……あの目。あの紫。あの声音。あの話し方……ん、ふふ。
胸がわずかに跳ね、手袋越しの指が柄に触れて強張る――すぐに力を抜いたけれど。
落ち着け、ブランシュ。
気にしていないかもしれない。
ただの年上の生徒。
王女のひとり……。
そう言い聞かせても、胸の奥では温かさがふくらむばかり。
忘れたわけじゃない。
――確信している。
あの少年は……。
紫の瞳の、小さなエルフ。
闇に呑まれそうになった私に、手を伸ばしてくれた子。
ブランシュの足取りがわずかに緩む。
視線が、澄んだ空へと吸い寄せられる。
鮮明な光景は浮かばない。ただ、心が覚えている。
恐怖。恥。涙。
――そして、差し伸べられた小さな手。
細くて、震えていて。
なのに強かった。
あの闇の中で唯一の光。
そっと目を閉じる。呼吸がゆっくりと整っていく。
あのとき救ってくれたのは、私。
エーテルの娘であり、ルナの血を継ぎ、氷嵐の未来を背負う私を。
救ってくれたのは――彼。
そして今、彼は目の前にいる。
忘れていたはずの記憶に、確かな形が戻っていく。
――気づいた? 私の目が、あなたを覚えていること。
表情は石像のように整っている。
けれど、その心臓だけが、痛みすら帯びた優しさで脈打つ。
数歩進み、吐息のような声で名を呼んだ。
「……エンジェルくん。」
唇から零れ落ちたそれは、禁忌の秘密のように淡く、熱かった。
探していたの。無意識のまま。
そして今、見つけた。
……もう、離さない。
ふわりと微笑む。
甘くて、けれどどこか危うい、ブランシュだけの微笑。
覚えていなくても構わない。
私は、あの日からずっと……あなたを見つめてきたの。
大きな噴水の前で足を止めた。
陽光を受けて揺れる水面に、風が彼女の黄金の髪を波のように揺らす。
――紫の瞳の小さなエルフ。
私の恩人。
胸に手を当て、鼓動の熱を確かめる。
ひやりとした制服の布越しに、震えが伝わる。
そして誰も聞かないほどの声量で、氷の息を漏らした。
「……あぁ。やっと見つけたわ、エンジェルくん。もう二度と……逃がさない。」
振り返り、歩き出す。
その足音には王女の威厳が宿り、
その影には――
静かにすべてを焼き尽くすほどの、狂おしい崇拝が潜んでいた。




