チャプター27 ― 天文学と吹雪。
天文学教室へ続く廊下は、しんと静まり返っていた。
夕暮れの橙色の光がステンドグラスを透かし、床にはまるで太陽が描いた星座のような模様が浮かび上がっている。
エルフ――そう呼ばれる資格があるのは、この耳だけだろう。
そんなことを思いながら、僕――エンジェルは教室の扉を開けた。
粉の残り香、古い紙の匂い、磨かれた金属の香気。
いつもの空気が胸に広がる。
天井のドームには小さな光晶石が散りばめられていて、まるで既に星空の下にいるようだった。
僕はいつもの席――一番後ろ、右側、窓際へ腰を下ろした。
ここからは中庭も、庭園も、その向こうの丘陵までも見渡せる。
夕陽に照らされた教室が淡い金色に染まり、僕は小さく息を吐く。
――やっと……静けさだ。
先生はまだ来ていない。
数人の生徒は小声で話し、ほかは早くもノートを開いている。
僕は手帳とペンを取り出し、教室中央の大望遠鏡へとちらりと目を向けた。
まるで動かない番人だ。
その時――。
ガラッ、と扉が勢いよく開いた。
「ちょ、ちょっと!?」
顔を上げると、エスターが駆け込んでくる。
足取りは早く、瞳は燃えるよう。
一瞬で教室を見渡すと――僕の右隣の空席に目が止まった。
「……うそ。まさか……」
彼女は目を閉じ、深く息を吸い、そして噛みしめるように吐いた。
「……はいはい。つまりさ――あなたが“私の席”を取ったってわけね?」
僕は片眉を上げる。
「君の席? 先に来た人のものじゃなかった?」
エスターは腕を組み、むくれた顔を作る。
「そ、そりゃあ……そうなんだけど! でもね? 私だって窓際が好きなの!」
「じゃあ今日は、窓際じゃなくて“僕の隣”だ。ほら、ほとんど同じだろ?」
彼女は睨むように僕を見るが、すぐに小さく笑った。
「……はぁ。ホント、ずるいんだから。」
カバンを置き、僕の隣に座ると、彼女は肩を落としながらもどこか満足げだった。
横目で見ると、金色の髪が肩にさらりと落ち、緑の瞳が光を受けて宝石のように輝いていた。
「ねぇ、エンジェル。この授業、好きなんでしょ?」
「一番好きだよ。」
「だろうね。星を見るとか、静かに夢見るとか、みんなが考えもしないことを考えるとか……それっぽいもん。」
「褒めてる?」
「んー……ううん。わりと本気で。そういうとこ、いいと思う。」
少しの沈黙。
外では風が桜の枝を揺らし、一筋の光が僕たちの机を横切った。
エスターは窓の外を見つめながら呟く。
「ねぇ、エンジェル……星って、本当に未来を教えてくれると思う?」
僕も視線を空へ向ける。
「教えてはくれない。でも……夢なら映してくれる。
夢って、未来の半分みたいなものだろ?」
彼女はしばし黙り、そして小さく照れて言う。
「……やっぱりあなた、変なこと言うね。でも……好きだよ、そういうの。」
僕はくすりと笑う。
「変でも、嘘じゃないよ。」
その時、再び扉が開き、先生が大きな星図を抱えて入ってきた。
エスターは僕に寄りながら、ひそひそ声で言う。
「……ふふ。やっぱり悪くないね、ここ。」
僕は窓の外の空を見つめたまま答える。
「言っただろ。窓際には……一番いい景色がある。」
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天文学教室に満ちていた生徒たちのささやきが、
その瞬間――扉が激しく開かれたことで、凍りついた。
冷気が一筋、室内を駆け抜ける。
夕方の光さえも、その存在に押し留められたように揺らぎを止める。
彼女が、入ってきた。
エーテル王国の王女――ブランシュ。
三年生。
ルナが建国した王国、その第五王女リリスの娘。
ただ視線を向けただけで炎すら凍りつく――そんな噂も、今なら信じられた。
彼女は背が高く、しなやかで、銀の刺繍が施された学院制服を纏い、
その完璧な体躯にぴたりと沿う。
均整の取れた曲線を控えめに、しかし圧倒的な気品で描き出す装い。
そしてその髪――黄金色の長い髪。
ふくらはぎに触れるほどの長さで、左右対称に分けられ、
揺らぎのない滑らかさを保ったまま、わずかな風にたゆたう。
顔立ちは氷のような美しさ。
その青い瞳は、吹雪の結晶のように澄んでいた。
教師が敬意を示し、軽く会釈する。
「ブランシュさま。
本日の授業にご出席を?」
「ええ、先生。
王家の星座の研究には、特に興味がありますので。」
その声は柔らかく、しかし水晶の刃のように冷ややか。
彼女がゆっくりと通路を進むたび、
生徒たちは一斉に背筋を伸ばし、頭を垂れる。
畏れと憧憬のさざめきが、彼女の名を潜ませて揺れる。
俺も他の生徒にならって軽く頭を下げた。
だが――彼女が俺の横を通り過ぎた、その瞬間。
その視線が、俺に向いた。氷雪のような青い瞳が、わずかに変化する。
そこに、微かな熱が灯った。
凍った世界に、一粒の火種。
彼女は立ち止まった。
教室が沈黙に飲まれる。
そして、静かに告げた。
「顔を上げてください。続けて。」
しかし彼女の心だけは、ここにはなかった。
彼女の表情に、微細な笑みが生まれる。
「……ああ。見つけた。
この若いエルフ……その紫の瞳。
あの光――まるで空気そのものが彼に跪くよう……。
エンジェルくん。
私の、光。」
最前列の席に座ったものの、
窓ガラスに映る視線は、ずっとこちらを探していた。
冷たいはずなのに――俺に向けられたそれだけは、熱い。
エスターが肘でつついてきた。
「ねえ……エンジェル……なんでプリンセスが、こっち見てるの?」
俺は眉をひそめる。
「こっち?いや、外じゃないか。」
「外を見るっていうなら……外って、あんたのことなんだけど。」
視線をそらすが、否定できなかった。
ブランシュは相変わらず無表情。
だが、その氷の下で――思考は渦を巻いていた。
「……どうしてこんなに静かで、揺らがないの……
この存在感……この輝き……。
間違いない。
私が守るべきは、彼。
何があっても、どんな代償を払っても。
彼はまだ知らない。
でも……知るわ。教えてあげる。
必ず。」
教師の声が戻る。星の配置や王家に伝わる伝承の解説。
ブランシュは完璧な筆致でノートを取る。
しかし瞳は、何度も、何度も窓へ。
そのたびに、俺と視線がぶつかる。
エスターがまた囁く。
「……あの人、あんたのこと氷漬けにする気じゃない?」
「いや、本当に俺から見てるわけじゃないから……」
「はいはい、私はエーテルの女王ね。」
思わず笑ってしまった。
その瞬間――
ブランシュが完全にこちらを向いた。
わずか一瞬の、視線の交差。
表情は変わらない。
けれど、その唇がほんの少し震えた。
その笑みは――
あまりに無垢で、あまりに危険だった。
「誰にも……絶対に渡さない。」
教師が気づいて声をかける。
「ブランシュさま、具合でも?」
「ええ、問題ありません、先生。
ただ……とても眩しい星を眺めていただけです。」
そして、俺を見る。
凍えるように。
優しく。
恐ろしく。
天文学の授業は、まだ始まったばかりだというのに――
俺はすでに、今日が厄介な一日になりそうだと悟っていた。




