チャプター26 ― 大吹雪の姫。
学園の大きな正門が目の前にそびえていた。
威風堂々とした佇まい、完璧に手入れされた緑、咲き誇る桜、王国ヴォルタの歴史に名を刻んだ戦士たちの像に囲まれている。
空気はほんのり春の香りに満ちていたが、どこか異様な気配が漂っていた。
「ああ、もしかして今まさに、エスターに振られる八人目の求婚者の番ってやつ?」
— 僕はにやりと笑いながら、人々の注目する群衆を眺めて言った。
エスターはすぐに顔を赤らめ、憤慨した目で僕をにらむ。
「バカ…!」
— と、彼女は呟く。
怒りと半ば楽しさが混ざった声だった。
しかし、僕たちが近づくと、女性の声が鋭く響き渡り、誰かを叱りつけるその権威ある声は、群衆のざわめきを瞬時に黙らせた。
ヴァイオレットは眉をひそめ、興味深そうに耳を傾ける。
「な、何…?」
— 彼女は小さく呟いた。
エスターは混乱した目で僕に振り向く。
「エンジェル…私…わからない…」
エリーは僕の隣で深いため息をつき、皮肉っぽい微笑みを浮かべた。
「ああ…これは大騒ぎになりそうだわ。」
僕はうなずき、歩を速めた。
そして、目の前に驚くべき光景が広がった。
ヘレナ。
僕の養姉であり、エリーの実姉。
学園の天才少女。
整った学園服を完璧に着こなし、曲線美を際立たせた姿。
怒りで瞳が光る。
そして彼女のしっかりした手には、先ほど僕が打った一撃でまだ痛みに震えるイヴァンが、首元を掴まれ、無力に体を揺らされていた。
「さあ、貴族様!」
— その声は鋭く、まるで刃のように突き刺さる —
「一年生の天才に恥をかかされて、どういう気分か教えてくれないか?!なあ?!」
イヴァンは怯え、顔を真っ赤にして震える。
口を開こうとした瞬間、ヘレナはさらに声を荒げた。
「恥を知れ、このクズが!もしエンジェルに怪我をさせたら、頭の中の全てを飲み込ませてやるからな、わかったか!」
イヴァンがまた口を開こうとするが、ヘレナはさらに声を張り上げて遮る。
「黙れ、下等!勝手に口を開くんじゃない!」
周囲の生徒たちはざわめき、一部はヘレナをなだめようとした。
しかし、彼女はイヴァンを放さない。
その握力は揺るがず、圧倒的だった。
「よく聞け、」
— 彼女はイヴァンの周りを歩きながら、一歩一歩が校庭に響く —
「もしもう一度エンジェルに手を出すなら、私に逆らうつもりなら、貴様の高慢な心の欠片を全て引き裂いてやる!」
イヴァンは青ざめ、反撃する力もなく、群衆は恐怖と、ヘレナの権威に圧倒されながら彼を見つめていた。
「そして、これで終わると思うか?」
— ヘレナは声を轟かせ、空気を震わせる —
「いいや!お前がその傲慢さを抑えない限り、絶対に放さない!私の手の中で震えていろ!」
エリーは眉をひそめる。
「まじで…しばらくは離さないつもりね。」
「ははは…これは壮絶なことになりそうだ」
— 僕は笑いをこらえつつ、状況を注意深く見守った。
ヴァイオレットは拳を握り、心配と苛立ちで目を輝かせる。
「エンジェルくん…何とかして…このままだと殺されちゃう!」
「落ち着け、ヴァイオレット」
— 僕は冷静に答え、楽しみながら — 「彼女はやるべきことを完全にわかってる。イヴァンに忘れられない教訓を与えたいだけだ。」
エスターは手を腰に当て、怒りを滲ませる。
「バカ…」
— 彼女はヘレナを見ながら呟いた —
「信じられない…どうしてあんなに恐ろしいの…」
ヘレナは全く緩まず、イヴァンは首を掴まれたまま、恐怖が増すばかり。群衆のざわめきが大きくなり、生徒たちは小声で囁く。
「わあ…ヘレナだ…信じられない…」
「すごすぎる…」 — 別の生徒が息を呑む。
僕はただ黙って見守る。
ヘレナが十分だと判断するまで、交渉や妥協の余地はないと、よくわかっていた。
「よし、」
— 最後に僕は微笑みながら呟く —
「これは長くなりそうだ…本当に長くなる…」
ヴァイオレット、エスター、エリーは互いに不安そうに視線を交わす。
僕は知っていた。結末は一つだけ。ヘレナは決してイヴァンを放さない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
群衆の喧騒がまだ熱を帯びている中、反対側に冷たい存在が現れた。
中庭の並木道が開く先――そこに立つ者を、空気は一瞬で凍らせるかのようだった。
皆が動きを止める。
まるで凍てつく風が吹き抜けたかのように。
彼女はゆっくりと、一歩一歩を踏みしめながら進む。
威厳に満ち、全ての視線がその沈黙にひれ伏す。
高身長――一八〇センチ――姿勢はまっすぐで、まさに王族のような立ち姿。
学園服は身体にぴったりと沿い、均整の取れた豊かな曲線美を際立たせている。
黄金色の髪は太陽に輝き、二つに分けられた長い髪がふくらはぎまで滑らかに流れる。
そよ風にわずかに揺れるその髪。
顔は凍てつく美しさで、青い瞳は吹雪の結晶のように澄んでいる。
そのレイピアを地面に叩きつける――カランッ――鮮明で、決定的な音。
「通路を開けなさい。」 — 低く、命令的な声で彼女は言う
生徒たちは瞬時に従い、道を空ける。
ヘレナでさえ、まだイヴァンを掴んでいる手を一瞬止め、驚きを見せた。
顔を赤くして怒るその表情は、ブランシュを見上げた瞬間、さらに強張った。
「誰が…」
— ヘレナは歯を食いしばり、声を震わせて始める。
若き女は氷のような瞳を向け、微動だにせず繰り返した。
「ヘレナ。離しなさい。」
ヘレナは拳を握り締める。
影が長く伸び、イヴァンの首元を握る指が白くなる。
頭を上げ、挑戦的な目で応戦する。
「絶対に離さない。」
— 彼女は吐き捨てる —
「彼は受けるべき罰を全部受けるべきだ。」
王女ブランシュ――囁きが走る。
「ブランシュ・デ・エーテル王女だ!」――軽く顎を上げ、その不服従を確認するかのように。
そして、流れるように、ほとんど機械的な動きでヘレナに近づく。
レイピアは軽く弧を描き、決意を示す。
そして正確に、無駄な力なく、ヘレナを地面に押さえつける。
衝撃に群衆は息を呑む。
一部は息を止める。
ヘレナは罵声を上げ、必死に抵抗するが、ブランシュの支点は完璧で、力は計算されている。
数秒後、ヘレナに反撃の余地はなくなる。
抗い、敗北を悟った彼女は渋々起き上がる。目には怒りの余熱がまだ残っている。
ブランシュはゆっくり立ち上がり、ラピエールをヘレナから離すことなく、イヴァンを自分の方に引き寄せ、上から冷ややかに観察する。
イヴァンは葉のように震え、腹部の傷がまだ痛み、顔色は蒼白だ。
ブランシュは鼻先まで近づき、その存在はまさに冬そのものだ。
「貴様。」
— その声は氷の刃のように測られた言葉 —
「よく見ろ。もしもう一度エンジェルくんの髪一本に触れようものなら、私が相手だ。覚悟しろ。」
イヴァンはどもり、弁明しようとするが、言葉は途切れる。
「黙りなさい。」
— ブランシュは鋭く遮る —
「立て。声を発するな。謙虚さを学べ。
さもなくば、残りの人生を臆病者として赤面して過ごすことになる。」
群衆はざわめき、息を呑む。
「殺される…」
「あれがエーテル王女…」
「信じられない…」
ヴァイオレットとエスターは、俺とエリーの隣で視線を交わし、尊敬と畏怖を浮かべているのが分かった。
ヘレナは地面に伏せたまま、怒りを露わにし、なおも口を閉ざしている。
イヴァンは恐怖に押しつぶされ、唇を震わせたまま、一言も発さなかった。
ブランシュは一歩後退し、なおも支配的な眼差しでヘレナを見据える。
「限度を超えたな、ヘレナ。」
— 声は凍てつくが冷静 —
「怒りは理解する。だが、無防備な相手を公式手続き外で打つのは許されない。」
ヘレナは手を床に戻し、荒い呼吸で顔を上げる。
挑戦的だが、少し抑制されている。
「…アイツ、エンジェルに…触れたの!」 — 彼女は息を吐く。
「そしてお前は報いようとしたのだな。」
— ブランシュは冷たく答える —
「だが、こうではない。ここでは。」
遠くから教師が慎重に近づき、監視員たちが群衆の間を縫って位置を取る。
場は公式な緊張に包まれる――規律、処罰、報告書――生の怒りでは制御できない秩序が降りてきた。
ブランシュはついに僕たちの方を向く。
その存在感が空気を一掃する。
声は落ち着くが、なお厳しい。
「エンジェルくん。」
— 軽く頷き —
「警護に近くいろ。」
僕の隣でヴァイオレットが硬直し、指を僕の手に絡める。
エリーは満足げに低く唸りつつも警戒し、エスターは輝く瞳でイヴァンを見守る。
ブランシュは最後にイヴァンに言葉をかける。
「下がりなさい、貴族の子。
プライドが整うまでは、二度と口を開いてはなりません。」
イヴァンは倒れそうになり、まだ震える。
ヘレナは立ち上がり、一瞬だけ彼を睨むが、わずかに息をつき一歩下がる。
中庭のざわめきはゆっくりと薄れ、散りゆく声が静かな囁きへと変わっていく。
私の力を、ヘレナの激しさを、そしてエンジェルの“運命”を語り合う声が遠ざかるにつれ、冷たい電流のような余韻だけが辺りに残った。
王立ヴォルタ学園の中庭は、ようやく静寂を取り戻しつつあった。
――ここでは、王権も階級も、容赦なく迅速に振り下ろされる。誰もが、その事実を胸に刻んだだろう。
中庭はほとんど空になった。
秋風が大通りの桜並木を揺らし、金色の石畳にふわりと花びらを散らす。
だが私は――ブランシュ・デ・エーテルは――その場に立ち続けていた。
私が作り出した“円”の中心で、エリー、ヴァイオレット、エスターと共に去っていくエンジェルの後ろ姿を、ただ静かに見つめて。
張りつめていた氷の仮面が、ふっと揺らぐ。
普段は微動だにしない私の唇が、わずかに、ほんのわずかに緩んだ。
体温を帯びた紅が、頬にゆっくりと差してくる。
私は、ほとんど自分にしか聞こえない声で呟いた。
「――あぁ……エンジェルくん……私の愛しき天才……」
手袋越しに、石畳へ叩きつけたばかりのレイピアの柄をそっとなでる。
冷え切っていたはずの氷色の瞳に、淡い光が宿る。
長いまつげをゆっくり伏せ、静かに息を吐いた。
「いつも……どんな時でも静かで、澄んでいて……
誰に称えられても、誰に恐れられても、決して驕らない。
まるで――玉座を持たぬ王。」
私は顎を少し上げ、再び彼の消えていった方角へ視線を向ける。
もう誰も近づこうとはしない。
ここに立つ私は、誰にとっても“触れてはならない氷”だ。
そこへ、エーテル直属の衛兵が一歩近づく。
「ブランシュ殿下、ご指示は――」
私は手を上げ、わずかに振った。
「――静かに。」
衛兵は即座に頭を垂れ、音もなく下がる。
秋風が強まり、白銀のマントが舞う。
露わになった脚線と、真珠のような光沢を放つ王家のロングブーツがちらりと覗く。
私は動かない。
だが瞳の奥では、嵐が巻き起こっていた。
激しく、冷たく、そして……限りなく熱を帯びた“執愛”の嵐が。
「……誰もわかっていない。」
囁くように言葉が漏れる。
「彼が何者なのか。
彼が何を背負い、何を成すのか……
そして――」
私は小さく笑う。凍てつく息が、白い光となって揺れた。
「――私だけは、それを知っている。」
視線は鋼のように鋭くなる。
だが、口元の微笑みは残ったまま。
母のように優しく、恋人のように深く、そして狂気めいて静か。
「守るわ。たとえ彼に疎まれようと。
私の顔を忘れられていようと。
構わない。
エンジェルくんは……護られるべき“光”。」
私は胸もと――心臓の真上に手を置いた。
「これは弱い恋じゃない。儚い夢でもない。
――これは誓い。」
心の内で、氷の刃のように研ぎ澄まされた言葉が渦巻く。
エンジェルを侮辱する者は沈黙させる。
彼を傷つける者は排除する。
たとえ“神”であっても、彼を裁くなら――斬り伏せる。
揺らぎなく。
迷いなく。
私は彼の消えた門の方へ、最後の視線を送る。
「……進みなさい、エンジェルくん。
光のまま、自由に。」
吐息がひとつ。
その最後の囁きには、氷と慈愛が溶け合っていた。
「必要なら――この世界ごと凍らせてみせる。」
私はゆっくりと背を向けた。
マントが大きな波を描いて揺れる。
誰ひとり、私を直視できない。
私は、ブランシュ・デ・エーテル。
氷の王女。
そして――
エンジェルを守るためなら、世界そのものを敵に回す女である。




