チャプター22 ― 自尊心を傷つけられた貴族。
翌朝、太陽がようやく昇り始めた頃、私たちはヴォルタ王立アカデミーの大きな門の前に立っていた。
風は穏やかで、桜の甘い香りを運んでくる。
淡いピンクの花びらがゆっくりと舞い、石畳や威厳ある英雄像の上に静かに降り積もった。
右手には、一人の戦士が剣を空に掲げ、挑戦的な表情で立っている。
左手には、厳しい視線の魔法使いが入口を見守るかのように佇んでいた。
通りは完全に左右対称で、整然と剪定された樹木と花壇が並ぶ。
でも、私…エンジェル…は全く気にしていなかった。
手をポケットに突っ込み、静かに歩きながら、隣で話すエリーとヴァイオレットの声に耳を傾けた。
「今日、抜き打ちテストとかあると思う?」
不安げな顔でエリーが聞く。
「毎朝そう言ってるじゃない、エリー。」
ヴァイオレットは紫と白の制服を整えながら、ため息をついた。
「でもいつか当たるんだ!」
誇らしげに彼は答える。
「その日が来たら、おそらく世界の終わりね。」
ヴァイオレットは皮肉な笑みを浮かべる。
私は小さく笑った。
「二人とも、毎回口喧嘩ばかりで、挨拶代わりなのかと思うよ。」
エリーは不満そうにふくれた。
「俺?俺は喧嘩なんかしない!相手がいつも挑発してくるんだ!」
「私?」
ヴァイオレットは眉を上げる。
「昨日化学室で『火事だ!』って叫んだの、誰か思い出す?」
「あれは実験だ!」
エリーが抗議する。
「ふーん。で、三面の壁と先生を紫に塗り替えたのがその実験ってわけか。」
私は笑いながら付け加えた。
ヴァイオレットは指で口元を覆い、くすくす笑う。
「ほらね?エンジェルくんも馬鹿げてると思ってる。」
「エンジェルは優しすぎて、面と向かって言えないんだよ。」
エリーがふくれた顔で返す。
私は二人の小競り合いを眺めながら笑った。
こういう朝は、すべてのことを忘れさせてくれる。
誰かの視線や、私の名前を囁く声、昨日見たあの奇妙なシルエットさえも。
ヴァイオレットが突然、他の像より大きな銀の鎧を着た女性の像を見上げた。
「あれ…リザンドル将軍よね?」
「そう。」
私は無関心に答える。
ヴォルタ軍を率いた初の女性で、単身でテリアントロープの侵略を阻止したと伝えられる。
「歴史に詳しいの?」
驚いた様子でエリーが尋ねる。
「少しだけ。」
私は肩をすくめる。
「でも像にはあまり興味ない。いつも同じ話しかしてないから。」
ヴァイオレットは、理由を探るような視線で私を見る。
「同じ話?」
「英雄たちの犠牲、勝利、栄光の理想…でも失ったものや、石像になる前に感じた感情のことは誰も語らない。」
ヴァイオレットは数秒間黙って、私の顔を見つめる。
「まるで本当に知っているかのようね。」
私は目をそらし、微笑むふりをした。
「少し理解しすぎているだけかも。」
エリーは両手を空に上げる。
「また“朝の哲学モード”に戻ったな、エンジェル。」
「放っておいて、たまには正しいことも言うんだから。」
ヴァイオレットは静かに言う。
「“たまに”?!」
エリーは憤慨したふりをする。
「俺はいつも真面目すぎると言うんだ!」
私は微笑む。
「エリー、たまには真面目になったら?」
「ありえない!」
彼は指を差す。
「みんなが真面目になったら、誰がヴァイオレットを笑わせるんだ?」
ヴァイオレットは視線をそらし、頬を赤らめた。
「エリーのせいで笑ってるわけじゃない…」
「じゃあ誰のせい?」
「……」
一瞬、私の方を見ると、すぐに我に返る。
「自分自身のおかげ!」
誇らしげに言い放つ。
エリーは笑い出す。
「もちろんだ、プリンセス・ヴァイオレット、もちろん。」
私たちはついにアカデミーの大門をくぐった。
朝の光が金とガラスの敷石に反射する。
学生たちが話し、鳥がさえずる。すべては平穏に見えた。
しかし、心の奥には不思議な感覚が残った。
今日の一日…
きっと違う。
静けさが完璧すぎるとき、嵐の前触れであることが多い…そして、今回はまさにそれだった。
大門をくぐるや否や、異様な光景が目に入った。
黒い制服の男子たちが群れを作り、正門の前に集まっている。
まるで習慣的な現象のように、集団を成していた。
私は眉を上げた。
「…またか。」
ヴァイオレットはため息をつき、すでに呆れた様子。
「そう…またね。今週七度目よ。」
エリーは笑い出す。
「エスター・デ・セレスティア…伝説そのものだ。氷の心、天使の顔。そして拒絶率100%。」
私は苦笑する。
「かわいそうに、もう同情するよ。」
群衆の中心に、エスターは背筋を伸ばして立つ。
長く少しカールした金髪が朝日に輝き、青い瞳は冷たく澄んでいる。
その前に、一人の背の高い男が進み出る。
名前はイヴァン・デ・ルイネス。
整えられた金髪、整った制服、完璧な手袋。
彼のすべてから、練習し準備してきた自信が伝わってくる。
「エスター・デ・セレスティア!」
彼の声は大きく、群衆の全員に届く。
ざわめきが広がる。
「私は…初めてこう言うわけじゃないけど、誰も君に真剣に言ったことはない。初めて見た日から、君が特別だとわかっていた。君の佇まい、優雅さ、視線…ヴォルタにふさわしい女性だ。そして、私、ルイネス家のイヴァンは、心と全てを捧げたい。」
一瞬の沈黙。鳥の声も止まるほど。
エリーは小声で呟く。
「まるで王の前で求婚してるみたいだ…」
「そして断られるんだ、同じ尊厳で。」
私は冷静に返す。
エスターは微動だにせず、ただ冷たく澄んだ視線を送る。
「言葉はありがたいですが、関心ありません。」
彼女の声は平坦で正確。反論の余地はない。
イヴァンは誇りを傷つけられたように、ぎこちなく微笑む。
「君は率直だ…いいことだ。しかし、私の意図がわからなかったのか。真剣だ、エスター。私は—」
彼が一歩近づこうとした瞬間、エスターは鋭く一歩後ろに下がる。
「理解済みです。すでに答えました。」
声はさらに冷たく、鋭さを増す。
しかしイヴァンは諦めず、手をエスターの手に絡めたまま、群衆の中で立ち尽くす。
彼女は静かに耐え、手を握り返すこともせず、微動だにしない。
ヴァイオレットは隣で眉をひそめる。
「やばい…このままだと危険かも。エンジェルくん、君は—」
「…エンジェルくん?」
しかし、私はすでに姿を消していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕はすでにイヴァンの背後に立っていた。
地面に伸びる僕の影は細長く、冷たく、まるで不吉な前触れのようだった。
イヴァンがエスターに拳を振り下ろそうとした瞬間、
僕の手が彼の手首を掴んだ。
「高貴な男っていうのは……女を殴らないんじゃなかったっけ?」
僕の声は……おかしかった。
自分でも分かるほどに。
震えて、歪んで、どこか異界から響くような低い響きを帯びていた。
イヴァンが驚いたように目を見開く。
腕を引こうとするが、僕はわずかに力を込めた。
「離せ。」
彼は歯を食いしばり、さらに引こうとする。
骨がわずかに軋む音が、僕の手の中で伝わった。
周囲から小さなどよめきが起こる。
「聞こえなかったのか。……離せ。」
僕が冷たく言うと、
イヴァンはついにエスターの手を放した。
僕はゆっくりと、イヴァンの手首を解放した。
彼は勢いよく振り返り、怒りに染まった震える手を僕に向ける。
「よくも……よくも俺を脅したな! 貴様、誰に向かって――!」
僕は肩をすくめた。
「いや、それがさ……実はそんなに難しい話じゃなくて――」
「皮肉だ! 馬鹿者!」
「ああ。」
僕はわざとらしく困った顔をしてみせた。
「ごめん。貴族って、言葉をそのまま受け取られるの嫌うんだよな。」
後ろの方で誰かが吹き出した。
一人の生徒が僕を指差す。
「あっ……一年の紫眼エルフじゃん!」
イヴァンが固まった。
信じられないという顔で僕を見つめる。
「な……お前が? お前が一年のガキだと?」
僕は大袈裟に目を見開いて言った。
「違う違う。俺は代々続く漁師なんだ。四十年以上。」
周囲で笑いが爆発する。
「ほら、聞こえなかったのか? さっき言われてただろ?」
イヴァンの顔は真っ赤になり、
今にも湯気が出そうだった。
「もういい! 貴様に決闘を申し込む!! 今この場でだ!!」
僕はため息混じりに言う。
「え、決闘? じゃあついでに釣り勝負でもする?」
だがイヴァンはすでに剣を抜いていた。
研ぎ澄まされた、貴族らしい美しい刃。
空気が一気に張り詰める。
その瞬間、ヴァイオレットが飛び出した。
素早く僕らの間に入り、すでにレイピアを構えていた。
「やめて! イヴァン、いい加減にして!」
「どけ、ヴァイオレット! こいつは俺を侮辱した! 貴族への敬意を叩き込んでやる!」
「相手は一年よ! 本気でやる気?!」
周囲からざわめきが広がる。
僕はそっと手を上げた。
「いいよ、ヴァイオレット。」
彼女は振り返り、震えた声で言う。
「エンジェルくん……やめてよ。まさか受けるつもりじゃ――」
僕は柔らかく笑った。
「ただの訓練みたいなものだよ。貴族様がストレス発散したいって言うなら、付き合うだけ。」
イヴァンは勝ち誇ったように剣を握りしめた。
「では明日の朝、訓練場で――!」
「いや。」
僕は冷たく遮った。
「今日だ。正午。」
その言葉とともに、空気がさらに重くなる。
ヴァイオレットが一歩近づき、声を震わせる。
「エンジェルくん……本気なの……?」
僕は彼女を見なかった。
視線の先には、唇を吊り上げるイヴァンだけがいた。
「正午だ。ここにいる全員、証人になれ。」
僕は身を翻し、その場を離れた。
胸の奥は、不思議なほどに静かだった。
背後から、ヴァイオレットの深いため息と、
エリーの小さなつぶやきが聞こえた。
「あの金髪、終わったな……。」
たぶん、その通りだ。
でも、そのときの僕の頭にあったのはただひとつ。
―貴族ってやつは、弦の張り具合ってものを知らないらしい。
下手に触れば、簡単に“震える”ってことを……。




