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『天使と紫の炎』  作者: Bro_Be_Like_83
第3部 — 賑わう王都の中の天使。
20/47

チャプター15 ― ささやかなひとときとピザ。

 橋を渡っていると、夕暮れの光が首都全体を金色に染め上げていた。

 鼻をくすぐるのは、塩の匂い、温まった石畳、それに市場から流れてくる香辛料の香り。


 にぎわう川岸へとたどり着いたその時――

 ヴァイオレットがぴたりと足を止め、赤煉瓦の外壁を持つ小さな店を指さした。


「見て、あそこ!」

 滅多に見せないほどの弾んだ声だった。

「ビギー・ピザズ! ここではすごく人気のお店なの。とにかく一切れが大きくて、味もいろいろあるのよ。チーズ、野菜、肉……他国風のレシピまで!」


 俺は首をかしげた。


「……ピザ?」

 ゆっくりとその単語を繰り返す。

「それは……何だ?」


 ヴァイオレットが固まった。

 わずかに、笑みがしぼむ。


「え……知らないの?」


 俺は首を横に振った。


「聞いたこともない」


 すると、彼女の表情が変わった。驚きではなく――深い哀しみだった。

 一瞬視線をそらし、そしてゆっくりと俺の首元へ。

 清潔な包帯が巻かれたそこを見つめ、彼女は何も言わずに理解したように目を細めた。


「……ひどい経験、してきたんだね」

 かすれるほどの優しい声だった。


 俺は何も言えなかった。


 そのときだ。

 ヴァイオレットが一歩踏み出し、俺の手――手袋越しの指先を強く握った。

 細いくせに、驚くほどしっかりした力だった。少し震えている。


「聞いて、エンジェルくん……」

「あなたがどんな過去を持っていても。どこから来ても。

 もう、一人じゃない。

 それに……その……私は……ずっとあなたのそばにいる。ずっと」


 あまりにも真っすぐな言葉に、一瞬だけ息が詰まった。

 胸が妙にうるさく跳ねる。でも、何も返せなかった。


 ――その空気を壊したのは、あいつだった。


「いやぁ〜、いいねぇこれ!」

 大声で笑いながら、エリーが俺たちの横へ割り込んだ。

「橋の上で愛の告白だなんて、ロマンチックだねぇ!」


 ヴァイオレットの目が氷のように冷えた。


「エリー。言葉を選んだほうがいいわよ」


「おっと、怖い怖い。でもさ、ロマンスを指摘したくらいで処刑されるの?」


「ロマンスなんて、ない」

 吐き捨てるような冷たい声だった。


 俺はため息をついた。


「エリー、やめてくれ」


 だが、兄はさらに笑い出す。


「やだね〜。ほら、どこまで彼女がキレるのか見たいし?」


 ヴァイオレットは目を閉じ、深呼吸して怒りを押し込めると――


「くだらないことを言ってないで、行くわよ。奢るから」


「……君が?」

 エリーが目を丸くする。


 ヴァイオレットはうなずき、そして、俺にだけ向けるような控えめな瞳で言った。


「特にエンジェルくんのために。

 あなた、人生で一度くらいはピザを食べておくべきだもの」


 その視線に、俺は少し戸惑う。


「別に……無理しなくていい」


「無理なんてしてない」

 まっすぐな声だった。

「これは……私の約束よ」


 エリーが両手を上げる。


「よーし、じゃあタダ飯は断れないな。どうせ僕はいつも三本目の車輪だし?」


「あなたは最初からそうだったでしょ」

 ヴァイオレットは淡々と言った。


 エリーは爆笑し、俺たちは店の入口へ向かった。


 扉を開けた瞬間、香ばしい生地の匂い、溶けたチーズ、刻んだハーブの香りが混ざり合い、ふわりと鼻を包み込む。

 俺は思わず立ち止まって、その陌生の香りを深く吸い込んだ。


 ヴァイオレットが振り返り、やわらかな微笑みを浮かべる。

 ――まるで、俺に「世界はこんなに温かいんだよ」と教えたいかのように。


 そして、ゆっくりとカウンターへ近づいていく――。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 カウンターの前に立つと、店内のざわめきが心地よく耳に入ってきた。

 漂うのは、焼きたての生地と濃厚なチーズ、そして新鮮なハーブの香り。

 客たちの楽しげな声が混ざり合い、まるで温かな渦の中にいるようだった。


 そのとき――

 ひとりの若い女性が、軽やかな足取りでこちらへやってきた。


 茶色の髪を上品にまとめ、澄んだ青い瞳が印象的だ。

 整った体つきに、黒いエプロン。

 胸元の名札には、**「ダフネー」**と刻まれている。


「いらっしゃいませ――」


 俺たちの姿を確認した瞬間、

 ヴァイオレットが目を大きく見開き、息を呑んだ。


「……ダフネー?!」


 すると、店員の女性も同じように目を丸くし――小さく悲鳴を上げそうになる。


「ヴァイオレット?! 本当に?!

 五つの月に誓って……まさか、あなたが来るなんて!」


 二人はしばらく見つめ合い、そして抑えきれない嬉しさのまま、そっと手を取り合った。


「しーっ……!」

 ヴァイオレットは声を潜める。

「今は内緒。私は身を隠してるの」


「なるほどね〜……」

 ダフネはにんまりと笑った。

「お嬢様が“庶民ごっこ”してるわけだ?」


 ヴァイオレットはむっとし、唇をとがらせる。


「ごっこじゃないわ。

 私は……人混みに溶け込んでるだけ」


「溶け込む? その上等なドレスと絹の手袋で?」

 ダフネーはくすっと笑う。


「やっと言ってくれる人が来た!」

 エリーが嬉しそうに割り込んだ。


 ヴァイオレットは即座に兄を射抜くように睨む。


「エリー。次、妙なことを言ったら、一切れ丸ごと飲み込ませるわよ。耳まで」


 ダフネーはその様子に喉を鳴らして笑った。


「相変わらず辛辣で……そこが好きだけどね」


 そう言いながら、自然と俺の方へ視線を向けた――

 その瞬間、彼女の動きが完全に止まった。


「……っ?!」


 目を見開き、息を呑み、震えるほどの熱い眼差しを向けてくる。


「な、なに……この顔……?!」


 俺は眉をひそめる。


「……何か問題でも?」


「問題? 違うわよ!

 これは……天から舞い降りた天使様……?!」

 胸に手を当て、恍惚とした表情を浮かべる。


「いや、天使じゃない」

 淡々と答える。


「嘘でしょ……見てよ、あの肌。


真っ白っていうより、日に焼けた白……

どこか小麦色が混じった、落ち着いた色なのに、不思議と濁りがない。


 藤色を帯びた紫の瞳に、菫色のきらめき……

 その奥には紫苑色の気品と、

 紺紫の深い影まで宿しているなんて……!


 長い銀髪、静かな雰囲気……

 これは天使以外の何なのよ?!」


「俺はただの――エンジェルだ」


 ダフネーは一瞬固まり、そしてヴァイオレットの方へ勢いよく振り返る。


「名前まで“エンジェル”?!

 あなた、この子……

 人間を虜にするために生み出された存在なの?!」


 ヴァイオレットの肩がぴくっと震える。

 拳を握りしめ、低い声で呟いた。


「……ダフネー。

 彼は、お客様。

 ……おもちゃじゃないの」


「ごめん、ごめん。

 でも、無理もないでしょ?

 だって――こんなに綺麗なんだもの」


 ダフネーは素直に笑い、エリーの肩に手を置いた。


「でも今日だけで褒められすぎてるみたいね?」


「そうとも」

 エリーが肩をすくめる。

「僕のかわいい弟は、問題を引き寄せる才能があるんだ」


「弟……?!」

 ダフネーが驚き、俺とエリーを見比べる。


「似てないでしょ?」とエリー。


「表情が豊かだからね」


 俺はぼそっと言った。


「……それは微妙に失礼じゃない?!」

 エリーが笑う。


 ダフネーは仕切り直すように咳ばらいをし、注文用のメモを握り直した。


「よし、じゃあ仕事に戻るわ。

 ヴァイオレットに追い出される前にね」

 そしてにっこり笑う。

「それで、ご注文は?」


「四種のチーズのピザを三つ」

 ヴァイオレットが迷いなく答えた。


「お飲み物は?」


「アイスティーを三つ」


 エリーが手を挙げる。


「僕はペパロニのピザをもう一つ追加で。

 簡単な男だからね。肉、チーズ、幸福」


「了解。

 四種三つ、ペパロニ一つ、アイスティー三つ……」

 ダフネーはくるりとペンを回し、ウインクする。

「そして、エンジェルくんへの熱い視線一回。サービスよ」


「だ、ダフネーぇ!!」

 ヴァイオレットは悲鳴を上げる。


「ごめんごめん、やめるってば!」

 ケラケラ笑いながら言い、続ける。

「でもね、ヴァイオレット。

 あなた、怒った顔より、笑った顔の方がずっと素敵よ」


 最後に俺たちへシンプルな一礼。


「すぐにお持ちします、旅のお三方」


 そう言い残し、厨房へ軽やかに戻っていった。


 ヴァイオレットは真っ赤になり、腕を組んでプイと顔をそらす。


「……嫌い。あの子」


「むしろ好きなんじゃ?」

 エリーがからかう。


 返事はなかったが、その殺意に満ちた瞳がすべてを物語っていた。


 俺はふと窓の外を見る。

 夕暮れの光が街を金と琥珀に染め、川面を輝かせている。

 ガラスに映る景色の中で――

 ヴァイオレットがこちらを見つめていた。

 静かに。

 長く。

 まるで、このささやかな時間こそが、誰よりも大切だと言わんばかりに。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


しばらくして、俺たちは店の隅の落ち着いた席に着いた。

 大きな窓際で、夕暮れの光が差し込み、テーブルを黄金色とオレンジ色に染めている。


 俺は窓側に座った――やっぱり景色を見るのが好きだった。

 ガラス越しに川を渡る橋が見える。石造りのアーチと鉄の街灯。

 その向こうには、威厳ある中心街の建物群。

 ハウスマン調のものもあれば、現代的な高層ビルもある。ガラスと鋼でできた塔が、空を突き刺すようにそびえる。

 二つの時代が調和して共存しているような、完璧なコントラストだった。


 ヴァイオレットは俺の右隣に座る。

 少し近すぎるかもしれない。

 仕草は繊細だが、呼吸がわずかに揺れているのが分かる――何かを隠そうとしているようだった。


 そして、エリーはその正面に座り、肘をついて、すでに悪戯を仕掛ける気満々の表情をしていた。


「うわ、この眺め……」

 にやりと笑いながら、エリーが言う。

「まるで街全体が弟を驚かせようとしてるみたいだな」


 俺は眉をひそめる。


「ただの景色だよ、兄さん」


 ヴァイオレットは窓の外から顔を上げ、夕陽に輝く瞳を俺に向ける。

 宝石のように煌めいている。


「ちがう……」

 小さく、でも確かな声で呟いた。

「素敵……でも、一番美しいのは街じゃないの」


 エリーは豪快に笑う。


「おお、なるほどな。早速、褒め言葉をデザート前にぶっ込むパターンか?

 この後は告白タイムか?」


「エリー!」

 ヴァイオレットの頬がピンクに染まる。

「何を言ってるのよ!」


「いや、俺は的確だぞ」

 テーブルに身を乗り出しながらエリー。

「さっきからずっと、彼を食べちゃいそうな目で見てるじゃないか」


 ヴァイオレットは思わず身を起こし、慌てて視線を窓の外に逸らす。


「何を言ってるの? 橋を見てるだけよ」


「……その橋、もう“エンジェル”って名前にしちゃうか?」

 エリー、爆笑。


 俺はため息をつき、手袋をした手を頬に当てる。


「いつまで続けるつもりだ?」


「こんな光景を見せてくれるなら、まだまだやるぜ」

 エリー、涼しい顔で。


 ヴァイオレットは歯を噛みしめるが、思わず小さく笑ってしまった。


「……あなた、ほんとに……むかつく」


「わかってる。でも、こうやって食事が賑やかになるだろ?」


 俺は再び窓の外に視線を戻す。

 金色に輝く水面、ゆっくりと進む小舟、遠くにそびえる中心街の塔。

 まるで雲をも貫こうとしているかのようだ。


 ヴァイオレットはまだ俺を見つめる。

 その視線は――必死に隠そうとする憧れに燃えていた。


「考え事してるみたいね」

 ふと、彼女の柔らかい声が耳に届く。


「眺めているだけ。」


「……それ、綺麗だと思う?」


 少し間を置く。


「うん……調和してる」


 彼女は目を伏せ、微笑む。


「調和……あなたの目みたい」


 エリーが大笑い。


「やばい、これで決まりだな。ヴァイオレット、完全にやられたな」


「やられたって?! ゲームじゃないわよ!」

 ヴァイオレット、必死に反論。


「じゃあ、どうして心臓に矢でも打たれたみたいに赤いの?」


「そ、それは……夕陽のせいよ!」


 俺は少し目を上げる。


「太陽は窓の向こう側だぞ」


 ヴァイオレット、固まる。唇がかすかに開くが、言葉は出ない。


 エリーは笑いをこらえきれず、ほとんど泣きそうになっていた。


「頼むよ、兄ちゃん。こうやって正してくれ、最高だ!」


「エリー、口を慎め」

 ヴァイオレット、氷のような声。


 俺は少し顔を向ける。


「緊張してるみたいだな?」


「ち、違うわ! ぜんぜん! ただ……暑いだけ。そう、暑いのよ!」


 俺は少し首を傾げる。


「ふーん……いや、外はせいぜい二十度くらいだぞ?」


 エリー、テーブルを叩き、勝ち誇ったように。


「おいおい、エンジェル、意地悪だな。可哀想なヴァイオレット、必死で格好つけてるのに」


「私はいつでも格好いいわ!」

 ヴァイオレット、即答、頬はさらに真っ赤。


「震えてるせいでテーブルまで揺れるぞ」

 エリー、笑いながら。


「……ちっ」

 俺は手で口元を隠し、微笑む。


「こうやって二人を見るのも、面白いな」


 ヴァイオレット、俺の冷静な口調に驚いて振り向く。


「お、おもしろい?」


「そう。生きてるみたいに見える」


 その一言で、彼女はほとんどとろけそうになり、瞳は輝き、呼吸はゆっくりになった。

 心の中の炎は、誰にも止められない。


「生きて……エンジェルくんのおかげ」

 小さく、かすかに呟く。


「何か言ったか?」


「な、何も!」

 慌てて否定。


 エリーは椅子に寄りかかり、腕を組み、ため息をついて笑う。


「ふむ、次回もこの調子なら、もっと付き合わないとな。王国のコメディ全部より面白いぞ」


 ヴァイオレットは彼を睨みつけ、窓の外に視線をそらして微笑みを隠す。


 俺は黙ったまま、街を眺め続けた。

 水面に反射する光、遠くの笑い声、そして窓ガラスに映るヴァイオレット――

 まだ直接見つめられない星のように、輝いていた。

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