チャプター15 ― ささやかなひとときとピザ。
橋を渡っていると、夕暮れの光が首都全体を金色に染め上げていた。
鼻をくすぐるのは、塩の匂い、温まった石畳、それに市場から流れてくる香辛料の香り。
にぎわう川岸へとたどり着いたその時――
ヴァイオレットがぴたりと足を止め、赤煉瓦の外壁を持つ小さな店を指さした。
「見て、あそこ!」
滅多に見せないほどの弾んだ声だった。
「ビギー・ピザズ! ここではすごく人気のお店なの。とにかく一切れが大きくて、味もいろいろあるのよ。チーズ、野菜、肉……他国風のレシピまで!」
俺は首をかしげた。
「……ピザ?」
ゆっくりとその単語を繰り返す。
「それは……何だ?」
ヴァイオレットが固まった。
わずかに、笑みがしぼむ。
「え……知らないの?」
俺は首を横に振った。
「聞いたこともない」
すると、彼女の表情が変わった。驚きではなく――深い哀しみだった。
一瞬視線をそらし、そしてゆっくりと俺の首元へ。
清潔な包帯が巻かれたそこを見つめ、彼女は何も言わずに理解したように目を細めた。
「……ひどい経験、してきたんだね」
かすれるほどの優しい声だった。
俺は何も言えなかった。
そのときだ。
ヴァイオレットが一歩踏み出し、俺の手――手袋越しの指先を強く握った。
細いくせに、驚くほどしっかりした力だった。少し震えている。
「聞いて、エンジェルくん……」
「あなたがどんな過去を持っていても。どこから来ても。
もう、一人じゃない。
それに……その……私は……ずっとあなたのそばにいる。ずっと」
あまりにも真っすぐな言葉に、一瞬だけ息が詰まった。
胸が妙にうるさく跳ねる。でも、何も返せなかった。
――その空気を壊したのは、あいつだった。
「いやぁ〜、いいねぇこれ!」
大声で笑いながら、エリーが俺たちの横へ割り込んだ。
「橋の上で愛の告白だなんて、ロマンチックだねぇ!」
ヴァイオレットの目が氷のように冷えた。
「エリー。言葉を選んだほうがいいわよ」
「おっと、怖い怖い。でもさ、ロマンスを指摘したくらいで処刑されるの?」
「ロマンスなんて、ない」
吐き捨てるような冷たい声だった。
俺はため息をついた。
「エリー、やめてくれ」
だが、兄はさらに笑い出す。
「やだね〜。ほら、どこまで彼女がキレるのか見たいし?」
ヴァイオレットは目を閉じ、深呼吸して怒りを押し込めると――
「くだらないことを言ってないで、行くわよ。奢るから」
「……君が?」
エリーが目を丸くする。
ヴァイオレットはうなずき、そして、俺にだけ向けるような控えめな瞳で言った。
「特にエンジェルくんのために。
あなた、人生で一度くらいはピザを食べておくべきだもの」
その視線に、俺は少し戸惑う。
「別に……無理しなくていい」
「無理なんてしてない」
まっすぐな声だった。
「これは……私の約束よ」
エリーが両手を上げる。
「よーし、じゃあタダ飯は断れないな。どうせ僕はいつも三本目の車輪だし?」
「あなたは最初からそうだったでしょ」
ヴァイオレットは淡々と言った。
エリーは爆笑し、俺たちは店の入口へ向かった。
扉を開けた瞬間、香ばしい生地の匂い、溶けたチーズ、刻んだハーブの香りが混ざり合い、ふわりと鼻を包み込む。
俺は思わず立ち止まって、その陌生の香りを深く吸い込んだ。
ヴァイオレットが振り返り、やわらかな微笑みを浮かべる。
――まるで、俺に「世界はこんなに温かいんだよ」と教えたいかのように。
そして、ゆっくりとカウンターへ近づいていく――。
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カウンターの前に立つと、店内のざわめきが心地よく耳に入ってきた。
漂うのは、焼きたての生地と濃厚なチーズ、そして新鮮なハーブの香り。
客たちの楽しげな声が混ざり合い、まるで温かな渦の中にいるようだった。
そのとき――
ひとりの若い女性が、軽やかな足取りでこちらへやってきた。
茶色の髪を上品にまとめ、澄んだ青い瞳が印象的だ。
整った体つきに、黒いエプロン。
胸元の名札には、**「ダフネー」**と刻まれている。
「いらっしゃいませ――」
俺たちの姿を確認した瞬間、
ヴァイオレットが目を大きく見開き、息を呑んだ。
「……ダフネー?!」
すると、店員の女性も同じように目を丸くし――小さく悲鳴を上げそうになる。
「ヴァイオレット?! 本当に?!
五つの月に誓って……まさか、あなたが来るなんて!」
二人はしばらく見つめ合い、そして抑えきれない嬉しさのまま、そっと手を取り合った。
「しーっ……!」
ヴァイオレットは声を潜める。
「今は内緒。私は身を隠してるの」
「なるほどね〜……」
ダフネはにんまりと笑った。
「お嬢様が“庶民ごっこ”してるわけだ?」
ヴァイオレットはむっとし、唇をとがらせる。
「ごっこじゃないわ。
私は……人混みに溶け込んでるだけ」
「溶け込む? その上等なドレスと絹の手袋で?」
ダフネーはくすっと笑う。
「やっと言ってくれる人が来た!」
エリーが嬉しそうに割り込んだ。
ヴァイオレットは即座に兄を射抜くように睨む。
「エリー。次、妙なことを言ったら、一切れ丸ごと飲み込ませるわよ。耳まで」
ダフネーはその様子に喉を鳴らして笑った。
「相変わらず辛辣で……そこが好きだけどね」
そう言いながら、自然と俺の方へ視線を向けた――
その瞬間、彼女の動きが完全に止まった。
「……っ?!」
目を見開き、息を呑み、震えるほどの熱い眼差しを向けてくる。
「な、なに……この顔……?!」
俺は眉をひそめる。
「……何か問題でも?」
「問題? 違うわよ!
これは……天から舞い降りた天使様……?!」
胸に手を当て、恍惚とした表情を浮かべる。
「いや、天使じゃない」
淡々と答える。
「嘘でしょ……見てよ、あの肌。
真っ白っていうより、日に焼けた白……
どこか小麦色が混じった、落ち着いた色なのに、不思議と濁りがない。
藤色を帯びた紫の瞳に、菫色のきらめき……
その奥には紫苑色の気品と、
紺紫の深い影まで宿しているなんて……!
長い銀髪、静かな雰囲気……
これは天使以外の何なのよ?!」
「俺はただの――エンジェルだ」
ダフネーは一瞬固まり、そしてヴァイオレットの方へ勢いよく振り返る。
「名前まで“エンジェル”?!
あなた、この子……
人間を虜にするために生み出された存在なの?!」
ヴァイオレットの肩がぴくっと震える。
拳を握りしめ、低い声で呟いた。
「……ダフネー。
彼は、お客様。
……おもちゃじゃないの」
「ごめん、ごめん。
でも、無理もないでしょ?
だって――こんなに綺麗なんだもの」
ダフネーは素直に笑い、エリーの肩に手を置いた。
「でも今日だけで褒められすぎてるみたいね?」
「そうとも」
エリーが肩をすくめる。
「僕のかわいい弟は、問題を引き寄せる才能があるんだ」
「弟……?!」
ダフネーが驚き、俺とエリーを見比べる。
「似てないでしょ?」とエリー。
「表情が豊かだからね」
俺はぼそっと言った。
「……それは微妙に失礼じゃない?!」
エリーが笑う。
ダフネーは仕切り直すように咳ばらいをし、注文用のメモを握り直した。
「よし、じゃあ仕事に戻るわ。
ヴァイオレットに追い出される前にね」
そしてにっこり笑う。
「それで、ご注文は?」
「四種のチーズのピザを三つ」
ヴァイオレットが迷いなく答えた。
「お飲み物は?」
「アイスティーを三つ」
エリーが手を挙げる。
「僕はペパロニのピザをもう一つ追加で。
簡単な男だからね。肉、チーズ、幸福」
「了解。
四種三つ、ペパロニ一つ、アイスティー三つ……」
ダフネーはくるりとペンを回し、ウインクする。
「そして、エンジェルくんへの熱い視線一回。サービスよ」
「だ、ダフネーぇ!!」
ヴァイオレットは悲鳴を上げる。
「ごめんごめん、やめるってば!」
ケラケラ笑いながら言い、続ける。
「でもね、ヴァイオレット。
あなた、怒った顔より、笑った顔の方がずっと素敵よ」
最後に俺たちへシンプルな一礼。
「すぐにお持ちします、旅のお三方」
そう言い残し、厨房へ軽やかに戻っていった。
ヴァイオレットは真っ赤になり、腕を組んでプイと顔をそらす。
「……嫌い。あの子」
「むしろ好きなんじゃ?」
エリーがからかう。
返事はなかったが、その殺意に満ちた瞳がすべてを物語っていた。
俺はふと窓の外を見る。
夕暮れの光が街を金と琥珀に染め、川面を輝かせている。
ガラスに映る景色の中で――
ヴァイオレットがこちらを見つめていた。
静かに。
長く。
まるで、このささやかな時間こそが、誰よりも大切だと言わんばかりに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
しばらくして、俺たちは店の隅の落ち着いた席に着いた。
大きな窓際で、夕暮れの光が差し込み、テーブルを黄金色とオレンジ色に染めている。
俺は窓側に座った――やっぱり景色を見るのが好きだった。
ガラス越しに川を渡る橋が見える。石造りのアーチと鉄の街灯。
その向こうには、威厳ある中心街の建物群。
ハウスマン調のものもあれば、現代的な高層ビルもある。ガラスと鋼でできた塔が、空を突き刺すようにそびえる。
二つの時代が調和して共存しているような、完璧なコントラストだった。
ヴァイオレットは俺の右隣に座る。
少し近すぎるかもしれない。
仕草は繊細だが、呼吸がわずかに揺れているのが分かる――何かを隠そうとしているようだった。
そして、エリーはその正面に座り、肘をついて、すでに悪戯を仕掛ける気満々の表情をしていた。
「うわ、この眺め……」
にやりと笑いながら、エリーが言う。
「まるで街全体が弟を驚かせようとしてるみたいだな」
俺は眉をひそめる。
「ただの景色だよ、兄さん」
ヴァイオレットは窓の外から顔を上げ、夕陽に輝く瞳を俺に向ける。
宝石のように煌めいている。
「ちがう……」
小さく、でも確かな声で呟いた。
「素敵……でも、一番美しいのは街じゃないの」
エリーは豪快に笑う。
「おお、なるほどな。早速、褒め言葉をデザート前にぶっ込むパターンか?
この後は告白タイムか?」
「エリー!」
ヴァイオレットの頬がピンクに染まる。
「何を言ってるのよ!」
「いや、俺は的確だぞ」
テーブルに身を乗り出しながらエリー。
「さっきからずっと、彼を食べちゃいそうな目で見てるじゃないか」
ヴァイオレットは思わず身を起こし、慌てて視線を窓の外に逸らす。
「何を言ってるの? 橋を見てるだけよ」
「……その橋、もう“エンジェル”って名前にしちゃうか?」
エリー、爆笑。
俺はため息をつき、手袋をした手を頬に当てる。
「いつまで続けるつもりだ?」
「こんな光景を見せてくれるなら、まだまだやるぜ」
エリー、涼しい顔で。
ヴァイオレットは歯を噛みしめるが、思わず小さく笑ってしまった。
「……あなた、ほんとに……むかつく」
「わかってる。でも、こうやって食事が賑やかになるだろ?」
俺は再び窓の外に視線を戻す。
金色に輝く水面、ゆっくりと進む小舟、遠くにそびえる中心街の塔。
まるで雲をも貫こうとしているかのようだ。
ヴァイオレットはまだ俺を見つめる。
その視線は――必死に隠そうとする憧れに燃えていた。
「考え事してるみたいね」
ふと、彼女の柔らかい声が耳に届く。
「眺めているだけ。」
「……それ、綺麗だと思う?」
少し間を置く。
「うん……調和してる」
彼女は目を伏せ、微笑む。
「調和……あなたの目みたい」
エリーが大笑い。
「やばい、これで決まりだな。ヴァイオレット、完全にやられたな」
「やられたって?! ゲームじゃないわよ!」
ヴァイオレット、必死に反論。
「じゃあ、どうして心臓に矢でも打たれたみたいに赤いの?」
「そ、それは……夕陽のせいよ!」
俺は少し目を上げる。
「太陽は窓の向こう側だぞ」
ヴァイオレット、固まる。唇がかすかに開くが、言葉は出ない。
エリーは笑いをこらえきれず、ほとんど泣きそうになっていた。
「頼むよ、兄ちゃん。こうやって正してくれ、最高だ!」
「エリー、口を慎め」
ヴァイオレット、氷のような声。
俺は少し顔を向ける。
「緊張してるみたいだな?」
「ち、違うわ! ぜんぜん! ただ……暑いだけ。そう、暑いのよ!」
俺は少し首を傾げる。
「ふーん……いや、外はせいぜい二十度くらいだぞ?」
エリー、テーブルを叩き、勝ち誇ったように。
「おいおい、エンジェル、意地悪だな。可哀想なヴァイオレット、必死で格好つけてるのに」
「私はいつでも格好いいわ!」
ヴァイオレット、即答、頬はさらに真っ赤。
「震えてるせいでテーブルまで揺れるぞ」
エリー、笑いながら。
「……ちっ」
俺は手で口元を隠し、微笑む。
「こうやって二人を見るのも、面白いな」
ヴァイオレット、俺の冷静な口調に驚いて振り向く。
「お、おもしろい?」
「そう。生きてるみたいに見える」
その一言で、彼女はほとんどとろけそうになり、瞳は輝き、呼吸はゆっくりになった。
心の中の炎は、誰にも止められない。
「生きて……エンジェルくんのおかげ」
小さく、かすかに呟く。
「何か言ったか?」
「な、何も!」
慌てて否定。
エリーは椅子に寄りかかり、腕を組み、ため息をついて笑う。
「ふむ、次回もこの調子なら、もっと付き合わないとな。王国のコメディ全部より面白いぞ」
ヴァイオレットは彼を睨みつけ、窓の外に視線をそらして微笑みを隠す。
俺は黙ったまま、街を眺め続けた。
水面に反射する光、遠くの笑い声、そして窓ガラスに映るヴァイオレット――
まだ直接見つめられない星のように、輝いていた。




