チャプター10 — 柔らかな微笑み、秘めたる想い。
僕たちはついに学園の寮――いや、正確には「アカデミー用のアパートメント」の扉をくぐった。
広く、清潔で、すべてが整っている。
まるで新しい空気が漂う場所だった。
左側には明るくて近代的なキッチン。木目のカウンターが並び、まるで展示用のように完璧だった。
中央のリビングは大きな窓があり、ヴォルタの街の活気ある景色が広がっている。
夕陽が差し込み、部屋全体を温かく照らしていた。
「悪くないな…」
僕はそう呟き、ドアのそばにカバンを置いた。
エリーはすでに荷物を部屋の隅にまとめながら、楽しそうに僕を見た。
「そんな言い方するなよ。まるで永遠にここに住むみたいじゃないか。でもまあ、寮よりはマシだろ?」
僕は軽く頷いた。
「間違いない。少なくとも、五十人の生徒に夜中叩き起こされることはない」
僕たちは部屋を見て回った。
シドの部屋はすでに整えられていたが、今日の僕の部屋は違う。
それはエリーが去年、一年目に使っていた部屋だった。
小さな木製の机と棚があり、装備を置くには十分な広さだった。
エリーは少し笑って言った。
「つまり、僕の去年の部屋を引き継ぐってわけだな」
僕は呆れたように目を上げながらも、少しだけ笑った。
「お前の輝かしい一年は終わった。今度は僕の番だ」
「へぇ、そうかい。でも忘れるなよ、弟。ここは“共有スペース”でもあるんだ」
そう言って、エリーは荷物を下ろした。
僕は自分の荷物をベッドに置き、ゆっくりと整えた。
その一つ一つの動作が、僕がヴォルタに来てからどれほど成長したかを思い出させる。
ここでは、すべてが違う。
エリーは笑いながら言った。
「よし、とりあえず荷物を片づけよう。じゃないと、すぐ戦場になるぞ」
僕は静かに頷いた。
久しぶりに、“自分の居場所”を感じていた。
新しい日々が、今始まったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
太陽が高く昇る頃、僕たちはヴォルタ学園の巨大な門の前に立っていた。
灰色の石造りの壁は、まるで王国の歴史そのものを映すように堂々としている。
鉄製の大きな門はゆっくりと開き、その奥には広大な中庭が広がっていた。
すでに授業が始まって一ヶ月が経っている。
僕が石畳を踏みしめた瞬間、空気が変わった。
誰も声を出さない。ただ、周囲の視線が一斉に僕へと集まった。
男子たちは僕を見るなり、目を逸らし、ある者は顔を伏せた。
まるで、僕の目を直視することさえ恐れているように。
「見たか?」
エリーが小声で笑う。
「哀れだな…」
僕は肩をすくめ、無言のまま門の奥を見据えた。
女子たちは違った。
彼女たちは息を呑み、顔を赤らめ、囁き合っていた。
「あの人…すごい…」
「髪が…真っ白…瞳は…ヴァイオレット…きれいすぎる…」
「まるで天使みたい…」
僕はただ、冷静な微笑を浮かべた。
その反応にも、羨望にも、何も感じなかった。
僕は人を惹きつけるためにここへ来たわけじゃない。
強くなるため、学ぶために来た。ただそれだけだった。
エリーが肩を軽く叩く。
「さすがだな。お前、もうこの学園の“スター”だぞ」
「…彼らが勝手にそう思うだけだ」
僕は淡々と答え、歩き続けた。
学園の広い中庭は騒がしく、あちこちで声が飛び交っている。
その時だった――群衆の向こうから、一つの影が現れた。
ヴォルタ王国の第二王女、ヴァイオレット・ヴォルタ。
彼女は紫と黒の制服を身にまとい、優雅に歩いていた。
その姿が現れた瞬間、男子生徒たちは一斉に彼女のもとへ殺到した。
歓声、拍手、憧れの眼差し。
だがヴァイオレットは一切反応を見せなかった。
その氷のような瞳は、周囲の熱狂をただ冷たく見下ろすだけ。
「まったく…子供たちね」
心の中でそう呟きながら、彼女はほんの少し微笑んだ。
だが次の瞬間、その瞳が僕を捉えた。
青く、わずかに紫を帯びた瞳が、ふっと柔らかく揺れる。
その笑みは――温かく、そして強く。
僕は動かなかった。ただ、歩き続けた。
彼女の視線も、その笑みも、振り返らないまま。
隣のエリーが息を呑み、呆れたように叫ぶ。
「エンジェル…!お前…今の、王女だぞ!?」
「知ってるよ。でも関係ない」
僕は淡々と答え、歩調を崩さなかった。
ヴァイオレットの微笑は揺らがなかった。
むしろその瞳は、僕の無関心さに何かを感じ取ったかのように輝きを増していた。
エリーがぼそりと呟く。
「はぁ…王女の笑顔を無視する奴なんて、初めて見たぞ」
僕は苦笑を浮かべた。
彼女の笑みも視線も、僕には関係ない――はずだった。
だが、その微笑はなぜか、心のどこかに残って離れなかった。
「…まあいい」
僕は静かに呟き、学園の門をくぐった。
ヴァイオレットは背を向ける僕を見つめながら、静かに微笑んでいた。
その笑顔は穏やかで、確信に満ちていた。
まるで――いつか僕がその意味を理解する日を、最初から知っていたかのように。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日々は流れ、授業と訓練に追われる生活が始まった。
だが、ひとつだけ変わらないことがあった。
ヴァイオレット・ヴォルタ。
彼女はまるで僕に取り憑かれたかのように、いつも僕を目で追っていた。
廊下でも、中庭でも、食堂でも。
そしてある夕方、僕が大量のノートと書類を抱えて校舎を出ようとしたとき――。
ドンッ。
誰かとぶつかった。
「あっ…!」
高く澄んだ声。振り向くと、彼女がいた。
ヴァイオレット。
白銀の髪が肩から流れ落ち、透き通る瞳がまっすぐ僕を射抜く。
その表情には、わざとらしくない“偶然”が漂っていた。
「ご、ごめんなさい…!」
彼女の手からノートが落ち、床に散らばる。
僕は黙って膝をつき、手早く拾い集めた。
指先が何度も触れ合う――だが、僕は表情を変えなかった。
「ありがとう」
彼女は小さく微笑み、柔らかく息を吐いた。
僕は静かに頷き、自分の荷物を持ち直した。
「…じゃあ、また明日ね」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「ああ……」
僕は短く答え、振り向くことなく歩き出した。
背中に彼女の視線を感じながらも、ただ前を向いて。
(まったく…しつこい王女だな…)
心の中でそう呟き、校舎を後にした。
だがその笑顔は、なぜか頭から離れなかった。
冷たくあろうとすればするほど、その温かさが残響のように胸に響いていた。
もしかしたら――
この先、彼女の笑みが僕の運命を少しずつ変えていくのかもしれない。




