チャプター8 — 久々の温もりに包まれて。
僕――エンジェル――は、心臓の早鐘を打つのを感じながら、その場の入り口を踏み越えた。
だが、目に飛び込んできた光景に、僕はその場で凍りついた。
目の前でアンジェリーナが、腰と胸の両方から僕の体を支えていた。
視線は無意識に自分の身体へ落ちる。
乾いた血に覆われた肌、刻まれた傷跡の一つひとつが、この場所で味わった暴力と恐怖、そして苦痛を呼び起こす。
「エンジェルくん…」
震えた声だが、確かな強さが宿っていた。
言葉を発しようとしても声は出ない。
混乱の中、彼女に抱きかかえられるその安心だけが、かろうじて僕を支えていた。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
その瞬間、アンジェリーナの抱擁の温もりが、ほんのわずかに心を落ち着かせる。
後ろを振り返ると、ステラ、ローザ、オーレリア、ルナ、クララ、そしてミアが立っていた。
皆、疲労と敬愛が入り混じった奇妙な表情を浮かべ、僕の体を見つめ、そっと支え、触れながら、心配と静かな献身を瞳に宿している。
胸の奥が重くなって――それでも、どこか安らいでいた。
言葉は出ない。ただアンジェリーナの手を握り、その体温に身を委ねる。
「エンジェルくん…大丈夫?」
ステラがかすかな声で問う。
かろうじて視線を向け、弱くうなずく。
世界はこの瞬間へと縮まり、彼女たちの存在と声だけが僕を包んでいた。
血にまみれ、疲れ果てた体でありながら、愛する者たち、守るべき者たちに囲まれている――それを実感する。
「ここにいるよ…」
ローザが肩にそっと手を置き、ささやいた。
胸に温かい熱が流れ、恐怖も痛みも死の影も、今はもう傍にはない。
久しぶりに、孤独ではないことを思い出した。
「ありがとう…」
声にならない声が漏れる。
アンジェリーナと視線が交わる。
その瞬間、身体を震わせるほどの感情が貫いた。
沈黙が続き、風のざわめきと呼吸だけがそれを破る。
深く息を吸い、アンジェリーナに支えられながら体を起こす。
少女たち一人ひとりを見つめると、言葉がなくても理解できた――これからの試練を共に超えるのだと。
石を踏む足音が響く。視界の奥に、険しい表情をしたエリーが見えた。
だが、どんな時も安心させてくれたあの微笑みが、その微笑みは、彼の顔に確かにあった。
「エンジェル!」
駆け寄りながら叫ぶ。
「大丈夫か? 何があった?」
喉が乾き、唇が震える。
「僕…僕は…」
言葉がつまる。
「落ち着け、リトルエンジェル…」
膝をつき、目を合わせながら言う。
「生きている。それだけで十分なんだ」
アンジェリーナが僕の手を握り直す。
彼女の静かな力がじわりと染み渡り、弱くうなずく。
エリーは周囲を見渡し、少女たちと混乱した状況を確かめた。
「ここで…みんな、何をしている?」
驚きと感嘆の混じった声。
「見つけたの…私が見つけたの…」
アンジェリーナは僕を抱きしめたまま言う。
「こんなに血が…放っておけなかった」
「そうだ!」
ステラが続く。
「助けずにはいられなかった。エンジェルを救ったのは私たち全員。」
エリーは眉を寄せ、やさしく微笑む。
「なるほど…君たちは本当に素晴らしい。七人揃って彼を守ったんだな。」
「エリー…」
ルナが震える声でつぶやく。
「ただ、無事か確かめたかっただけ…」
「そして君はすごい、エンジェル…」
エリーが肩に手を置く。
「こんな状態でも立っている。…本当に感動的だ」
「ふぅ…」
顔が赤くなり、疲れで反論もできず、ただ息を吐く。
「急がないと」
エリーの目が鋭くなる。
「よくやった。でも今すぐここを離れる必要がある」
「同感…」
アンジェリーナが手を握り直す。
「でも…一人で歩かせられない」
「絶対ダメだ!!」
ローザが叫ぶ。
「もう一度触れようものなら……ぶった斬る!」
「君たち…全員、狂ってる…」
苦笑しつつ、小さく微笑む。
エリーはため息をつき、安堵と呆れをにじませて頭を振った。
「さて…準備はいいか? 前へ進むぞ。油断するな」
人の温もりと力を感じ、恐怖と疲労を抱えながらも前へ進む覚悟が生まれる。
僕は、もう一人ではない。
「一緒だ」
エリーの声には希望が宿っていた。
この悪夢を、本当に乗り越えられる気がした。
僕は彼の隣を歩く。
一歩ごとに体は重いが、家に帰る思いが知らぬ力を与えてくれる。
静かな道。
砂利の音と、揺れる木々の風だけが響いた。
体はまだ痛い。
傷は地獄の記憶を呼び起こす。
それでも心の奥には、かすかな光が差し込んでいた。
ついに家の前にたどり着く。
胸の鼓動が高鳴る。
扉をくぐるたび、僕は――少しずつ自分に戻っていく。
エリーが肩に手を置き、共に歩むことを思い出させる。
二人で静かにノックした。
扉はほぼ即座に開き、母が瞳を見開いたまま言葉を失い、強く抱きしめてきた。
温かさに包まれ、膝が折れそうになる。
「ああ、エンジェル! 神様…エンジェル…」
震える声で抱きしめ続ける。
喉が詰まり、言葉は出ない。
ただ腕を回し、胸の鼓動と馴染みの香りを感じる。
幼い頃の安心感が一気に蘇る。
ヘレナが現れる。冷静で強い姉の瞳にも涙が光っていた。
言葉なく抱きしめるその腕は強く、守る力に満ちていた。
「あはは! ようやく…来たね! 僕の小さな天使!!」
笑いは震え、そこに緊張が滲んでいた。
目を閉じ、二人に包まれる。安堵と温もりが満ちていく。
この瞬間の尊さを、初めて深く理解した。
母が少し離れ、涙に濡れた瞳で僕を見つめる。
「失うかと思った…もう二度と会えないかと…」
「僕…ここにいる…」
どうにか言葉を絞り出す。
ヘレナがもう一度抱きしめ、額にキスを落とす。
少しずつ力が戻ってくる。
「ああ、愛してる…なんて愛してるんだ、僕の優しい小さな天使…もう二度と目を離さないっ、あははっ、ははっ、あははっ!」
左頬に熱いキスが落ちる。
弱くうなずく。
言葉はなくとも、愛と安堵を受け取った。
痛みは残るが、人の温もりの前で薄れていく。
エリーが静かにそばに立ち、微笑む。
ようやく息ができる。家族と家…今はそれだけで十分だった。
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家の空気は変わり、涙と恐怖の後には穏やかな平穏だけが残った。
暖炉の火が揺れ、壁に黄金色の光を落とす。
エリーの母は頬を拭いながら微笑む。
「みんな、まずは力を取り戻して…特別なものを用意するわ。ケーキよ」
「ケーキ? あの蜂蜜とクリームのブラウニーのことか?」
エリーの目が輝く。
「そうよ。その通り。あなたのために…もちろん、エンジェルのためにも」
思わず胸が熱くなる。
「僕のためにも?」
「もちろんよ」
頬に手を添え、やさしく微笑む。
「あなたは私たちの小さな宝物だから…」
暖炉のそばでヘレナがそっと身を起こす。
「ママ…私も手伝いたい」
「ヘレナ、疲れているでしょ。心配で眠れなかったんだから…休んでいいのよ」
だがヘレナは首を振る。
「いいの。私がやりたいの。みんなに私の愛を届けたい…私の小さな天使たちに!」
視線が重なり、思わず目を逸らす。
「必要ないよ、本当に。」
「いいの。必要なの」
優しく笑いながら言う。
「あなたはこんなに苦しんだんだから…
この包帯を見るだけで……永遠に消えてしまうかと思うだけで胸が張り裂けるの。
だから…私に愛させて。私の大切な天使!」
エリーが腕を組んで笑う。
「なるほど…君はただ彼に近づきたいだけだな?」
「エリーっ!みんなの前で言わないで!」
顔を真っ赤にして睨む。
「ははは、冗談だよ」
エリーは楽しそうに笑った。
僕もつられて笑う。
この家の温かさ、シンプルで優しい空気――ほとんど知らなかった“家族のぬくもり”を、ようやく感じていた。
やがてキッチンでブラウニー作りが始まり、蜂蜜とバニラの香りが家中に満ちていく。
エリーがテーブル越しに意味ありげに笑いかける。
「エンジェル…君、一生のファンを作ったんじゃないか?」
「まあ…複雑だけどね」
「君らしいな」
くすっと笑う。
ヘレナが粉を鼻につけたまま僕を見上げる。
「エンジェルくん!できたら真っ先に食べてね?」
「うん。約束する」
甘い香りと笑い声に包まれながら、心の奥で確信する。
――影のあとには、必ず光があるのだと、そう思えた。




