僕は主人公にはなれない
その日、街が揺れていた。
鐘の音、太鼓の響き、花びらと香の煙が風に乗って広場を包む。
大人も子どもも皆、浮かれていた。色とりどりの衣をまとい、神に捧げる歌を口ずさみ、誰もが「めでたい」と笑っていた。
僕──カインは、今日は三つの儀式が重なる特別な日だと、朝から何度も聞かされた。
先代聖女の弔い、新たな聖女の奉納、そして次期聖女の指名。
瘴気が満ちるこの世界では、聖女の祈りがなければ人々は生きていけない。
街の中心に据えられた装置の中で、聖女の魔力と祈りが結界を張り巡らせ、街を瘴気から守っていた。
街を守った先代の弔いは早朝、ひっそりと済まされた。
十五年ほど街を守ったという先代の聖女は、人々に惜しまれることもなく、「よく尽くされた」と口にされながら、静かに忘れられていった。
葬送の歌も短く、誰も涙を見せなかった。
すぐに、空気は祝祭へと切り替わる。
新たな聖女が奉納される。
装置の中に入るその瞬間を見ようと、広場は人の波で埋め尽くされていた。
白銀の装束に身を包んだ少女が、司祭たちに囲まれながら塔へと歩んでいく。
彼女の顔は見えなかった。ただ、背中がとても小さく見えたのを覚えている。
空からは金色の花びらが降り注ぎ、聖なる光を模した魔術の粒子が宙を舞っていた。
美しかった。まるで、世界のすべてが彼女のために祝っているようだった。
そして、最後の儀式──次期聖女の指名。
司祭が名を呼ぶ。
「リュシア」
群衆の中から、ひとりの少女が前に出てきた。
白いワンピースに身を包み、手を引かれて歩くその子は、僕と同じ年だというのに、どこか触れてはいけないような静けさを纏っていた。
細い首筋、淡い金の髪、伏し目がちのまなざし。
息を呑んだ。言葉が出なかった。
その瞬間、僕は彼女に恋をした。
ただ、何も言えなかった。
名前を呼ぶことも、目をそらすこともできず、僕はただ、そこに立ち尽くしていた。
──先ほど奉納された聖女の命が尽きるとき。
この少女が次に街を守るため、街の中心の装置に奉納される。
それは死ぬまで出られない、牢獄よりも冷たい場所。
最期を定められた彼女が、聖女に選ばれたことに誇らしげに微笑み、
周りが祝福する様子は、ただただ奇妙で、悲しく、僕の目に映った。
僕がこの世界に生まれたときから、記憶はすでにあった。
物心がついたときにはもう、自分が「ここ」とは違う場所で生きていたことを理解していた。
日本。
受験勉強の合間に、小説やゲームに逃げていたあの頃。
この世界は、あのときに読んだ“異世界もの”とよく似ていた。
魔力、瘴気、聖女、勇者──。
名前は違っても、構造はよく似ている。
そして、僕は思った。
「ああ、これはきっと転生ってやつだ」
でも、だからといって何か特別な力を授かったわけでもなかった。
剣が飛び抜けて上手いわけでも、魔術の才能に恵まれているわけでもない。
ただ、前の人生で“知っていた”というだけの人間だ。
この世界での僕は、家柄はそれなりに良かった。
育ちも教養も、恵まれていた方だと思う。
けれど僕には、何かを圧倒的に突き抜ける資質というものがなかった。
何でも卒なくこなすが、何ひとつ飛び抜けない。
髪は赤い癖毛の長髪で、耳の上あたりで束ねている。
顔立ちは整っているが、無表情で冷たい印象だと、よく言われた。
笑おうとすれば「軽そう」と言われ、黙っていれば「何を考えてるかわからない」と言われた。
そういう顔だ、ともう諦めていた。
そんな僕が、リュシアと再会したのは、街の学院だった。
リュシアと彼女の幼馴染のアベルと、僕。
三人は同じ教室で、同じ時間を過ごした。
アベルは明るく、真っ直ぐで、剣も魔術も優れていた。
金色の髪に透き通るような瞳、真っすぐな背筋に、よどみのない言葉。
誰がどう見ても、彼こそが「物語の主役」にふさわしい少年だった。
ある日の授業で、ひとりの生徒が詠唱を間違い、教室中が笑いに包まれた。
アベルは迷わず立ち上がり、肩に手を置いて言った。
「俺も最初は詰まった。大事なのは続けることだよ」
その瞬間、笑いは消え、空気は変わった。
彼が言えば、ただの慰めが力になる。
同じ言葉を僕が口にしても、誰も覚えてはいなかっただろう。
校庭では、子どもが木に登って降りられず泣いていた。
教師が駆け寄るより先に、アベルは軽やかに幹を登り、子を抱えて降りた。
「無茶するなよ」
そう笑い、頭を撫でる姿を見て、人々は「やっぱり勇者になる」と確信した。
──僕には、そんな光はなかった。
やがて噂は現実になった。
王都の使者がやってきて、アベルに勇者の称号が与えられたのだ。
学院の広場は祝いの声で満ち、「世界を救う勇者に祝福を!」と歌が響いた。
リュシアは小さな花冠を彼に渡し、アベルは当然のようにそれを受け取った。
その光景を横から見つめながら、僕は確信した。
──これが物語であれば、主人公は僕じゃない。
眩しいほど真っ直ぐな彼と、彼を支える幼馴染の少女。
誰からも好かれ、期待され、祝福される少年。
それを横から眺めるだけの僕には、何の役割もない。
彼らの間に割って入る権利も、物語を動かす力もない。
「僕じゃあない」
誰に聞かせるでもなく、口の中で小さく呟いた。
その声は群衆の歓声にすぐに呑まれて、消えた。
表向き、僕は“演じていた”。
軽薄で、頭の回る、他人に深入りしない人間を。
笑えば軽そうに、黙れば何を考えているかわからない人間を。
そうすれば、リュシアやアベルのように「物語の中心に立つ者」とは縁遠い存在のままでいられる。
前世の記憶があるせいで、どうしても周囲と隔たりを感じていた僕にとって、それは最も安全な生き方だった。
けれど──リュシアは違った。
ある日、ふと僕を見つめて、悲しげに微笑んだ。
「……自分を偽り続けるのって、辛いことだよ」
小さく囁かれたその声は、誰にも聞こえないほどかすかだった。
胸が焼けるように熱くなった。
リュシアもまた、聖女としての役割を演じているのだと、僕は悟った。
人々の前で見せる神聖な微笑みも、気丈な振る舞いも、その裏には押し殺した弱さがある。
そして、その弱みを僕にだけ見せてくれた。
アベルは決して気づかないだろう。
彼の真っ直ぐさはあまりに眩しく、迷いも弱さも許さない。
だからこそ勇者として選ばれたのだ。
だが僕は違う。
僕には、その陰りが見えた。
その瞬間から、リュシアは僕にとってただの聖女ではなくなった。
彼女の微笑みを見るたびに、恋慕は熱を増し、抗えないほど強くなっていった。
リュシアは、いずれ奉納される。
そのことに、誰も疑問を抱かない。
「そういうもの」だから。
「選ばれた人だから」
皆、口を揃えてそう言った。
けれど僕は違った。
どうしても納得ができなかった。
装置はどういう仕組みで動いているのか。
聖女が必要なのはなぜか。
瘴気とは何か。
図書館の古文書を読み漁り、貴族の伝手を使って文献を集め、誰も気に留めない「当たり前」に疑問をぶつけ続けた。
やがて僕は、一つの結論にたどり着いた。
奉納は、ただの神聖な儀式なんかじゃない。
あれは、制度化された生贄だ。
瘴気に晒されれば、人は変わる。
肉体が異形に、精神が獣に、魂が濁っていく。
だが聖女だけは、結界の中心で瘴気を受け止めながら、それでも人としてとどまることができる。
それが、魔力と聖性を持つ彼女たちの役割。
だから少しでも瘴気への耐性がある女でなくてはならなかった。
だからリュシアが選ばれた。
──平均で十五年。
それが、奉納されてからの聖女の命の限界だった。
瘴気は、確実に蝕んでいく。
少しずつ、静かに、そして不可逆に。
希望はひとつだけあった。
瘴気の根源──すなわち、魔王の討伐。
それさえ成されれば、結界は不要になり、聖女は解放される。
けれど。
これまで魔王の姿を見た者はいない。
討伐どころか、所在すら知られていない存在に、果たしてたどり着けるのか。
アベルは旅立った。勇者として。
だが、それがいつになるのか。どれほどの確率で叶うのか。誰にもわからない。
そんなものを「希望」とは呼べなかった。
だから僕は、静かに悟ったのだ。
──リュシアは、必ず死ぬ。
祭りの日に、彼女の名前を呼ぶことさえできなかった僕が、今はその命の終わりまでを見据えている。
おかしな話だ。滑稽ですらある。
それでも、心に浮かんだ言葉はひとつだけだった。
「僕が、彼女を救う」
その日、僕は本当の意味で決意した。
物語の主人公じゃなくていい。
ただ、彼女だけの味方であることを選んだ。
だが時間は止まらない。リュシアの奉納の日が訪れる。
鐘の音が街に鳴り響くたびに、僕の胸の奥に、冷たい杭が打ち込まれるようだった。
街は今日も祝っていた。
空を舞う花びら、きらびやかな衣装に身を包んだ市民たち。
甘い香の煙が風に乗り、楽士たちが祝福の歌を奏でる。
誰もが笑い、誰もが「めでたい」と口にする。
まるで、今日という日が“誇らしい歴史の1ページ”でも刻むかのように。
だが僕には、そんなもの、何ひとつとして見えなかった。
今、リュシアが、装置へと奉納される。
それがすべてだった。
それ以外のことは何も、心に入ってこなかった。
いつかの僕なら、幼い聖女の指名に胸を締めつけられたかもしれない。
先代の聖女の死に痛みを覚えたかもしれない。
でも今は違う。
それらすべてが薄っぺらに見えた。
どうでもよかった。
唯一、胸を焼くように痛んだのは──
リュシアが、死にゆく牢へと歩いていくという現実だった。
彼女の白銀の装束が、群衆の視線を受けて淡く輝いていた。
塔へと続く石階段を一歩ずつ進むその背中は、あの日と同じように小さく、美しかった。
花と光と歓声の中、彼女はうつむいたまま歩いていく。
それを人々は「神聖」と呼び、涙を流して見送る。
感謝と祈りを口にする者たち。
手を振る子どもたち。
拍手を送る老いた司祭たち。
そのすべてが、僕には、ただ気持ち悪かった。
彼女が向かうのは、名ばかりの“聖なる場所”だ。
実際は、瘴気に満ちた石の棺。
生きたまま人間を削り、役目を果たすたびに魂をすり潰す装置。
その現実から目を逸らし、感謝と美辞麗句で塗り固めて送り出す彼らは──
リュシアの命を、死を、奉納という言葉で正当化しているだけだ。
誰もが笑っていた。
泣いていたとしても、それは“美しい死”を讃える涙だった。
僕には、そのすべてが憎らしかった。
祝福する者も。
祈る者も。
笑う子どもたちも。
──僕とリュシア以外の、すべてが。
その日、僕の中で何かが決定的に変わった。
「正しいこと」なんかもうどうでもいい。
「祝われるべき儀式」なんて、知ったことじゃない。
彼女はこれから、結界の中でひとり、瘴気に蝕まれていく。
目を背けたくなるような変化を、その身に引き受けながら、誰にも見られず、誰にも触れられずに朽ちていく。
なのに、誰も彼女を助けようとはしない。
ならば僕がやるしかない。
僕が、必ず。
世界中の誰が止めようと──
僕は、リュシアを救う。
その日、僕は心の底からそう誓った。
表からは手の届かない真実を求めて、裏の道へ足を踏み入れる。
それが、この世界で僕に与えられた、唯一の役割なのだと信じて。
リュシアが奉納されてからの年月は、僕にとってただの消耗だった。
表向きには、僕は何の変化もない優等生を演じ続けていた。
良い家に生まれ、そこそこの成績、優れた魔力、整った顔立ち。
大人たちの信頼を得るのに、苦労はなかった。
でも、それはすべて計算の上だった。
信用という鎧をまとい、僕は“内側”に踏み込むための準備を進めていた。
この街の仕組み、結界の理、装置の構造。
誰も知ろうとしない場所に、僕は足を踏み入れていった。
書庫に眠る封印された書物。
研究機関に残された不完全な設計図。
王家の魔導士が残した古い日記。
そして、忌まわしいほど正確な──禁術の記録。
あらゆる知識を繋ぎ合わせていくうちに、僕はついに“答え”にたどり着いた。
──装置から聖女を取り出せば、確実に結界は崩壊する。
瘴気は街を飲み込む。
人々は変異し、街は滅ぶ。
どんな理屈をこねようと、それは覆せない事実だった。
そして僕は、そこで思考を止めた。
それでも、構わない。
彼女に会えるなら、それでいい。
閉ざされた扉の向こう、ただ一人、誰にも触れられず、声も届かず、静かに朽ちていく彼女。
どんな姿に変わっていようと。
どんな言葉が失われていようと。
この手で触れて、確かめて、
もう一度、あの瞳を見たいと──そう思った。
救いたい、なんて言葉はもう使わなかった。
僕の願いは、もっと醜く、もっと利己的だった。
会いたい。ただ、それだけだった。
街がどうなろうと知ったことじゃない。
人々の命も、未来も、運命も。
どうでもよかった。
僕にとって、価値があるのはただひとつ。
彼女がこの世界にいるという、それだけだった。
そしてその代償が、街の終焉なら──
僕は、喜んで払う。
リュシアが奉納されてから五年。
あの白い装束の背中を見送ったあの日から、僕はずっと、この瞬間だけを追い続けてきた。
装置に近づくために、僕はあらゆるものを利用した。
家の名と人脈、前世の知識、そして今世で得た信用。
研究者のふりをして禁書に触れ、異端と罵られぬように綱を渡るように振る舞いながら、
裏では禁術を買い、結界装置の構造と理論を解体するように読み解いていった。
誰にも怪しまれず、誰にも止められず、ただひとり、彼女のもとへ向かうために。
その成果が、今ここにある。
──そして今、封印された結界装置の扉が、音もなく開いた。
吹き出す瘴気の風が顔を打った。
目の奥が焼けるように痛んだ。
それでも、僕はまっすぐに中を見た。
そこに──リュシアがいた。
五年ものあいだ、瘴気の中心に囚われていた彼女は、もはや人の姿ではなかった。
肌は鱗のように変色し、節くれだった手足は異様に長く、
背から生えた骨の翼は、まるで枯れた木のように乾いていた。
顔の輪郭は崩れ、口は耳のあたりまで裂け、牙が並んでいた。
それでも、僕にはわかった。
たしかにそこに、僕のリュシアがいた。
鼓動が跳ね上がった。
手が震え、膝が笑い、息が苦しくなるほど、胸が締めつけられる。
喉の奥からせり上がる何かを、僕は抑えきれなかった。
笑ったのか、泣いたのか、それすら自分でわからなかった。
けれど確かに、僕は心から、こう思った。
──会えた。ようやく会えたんだ。
声に出したかも覚えていない。
でも、確かに彼女は顔をこちらに向けた。
動いた。
僕の存在を認識した。
それだけで、すべてが報われた気がした。
変わり果てた彼女の姿が、世界で一番美しく思えた。
僕は、歩み寄った。
ただ、彼女に触れたくて。
あの小さな手に、もう一度、触れたくて。
けれど──その瞬間。
彼女の顎が、カチリと音を立てて開いた。
骨が軋む音がして、歪んだ口腔が牙を露わにする。
次の刹那、世界が反転した。
強烈な衝撃とともに、僕の頭が、彼女の口の中へと呑み込まれた。
ぐしゃり──と、骨が砕ける鈍い音。
視界が赤く染まり、意識が急速に沈んでいく。
だがその一瞬、僕の思考は冴えわたっていた。
ああ、これで街は終わるのだろう。
装置を開いたことで、結界は崩壊した。
瘴気が街を包み、変異が始まる。
外では、何が起きているのだろう。
逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子ども。
そして、アベルが──あの勇者が、すべてを止めるためにここへ来るだろう。
リュシアを討ち、結界を破壊した僕を「災厄」として葬るために。
世界を救う主人公が、物語の秩序を回復するために。
そうだ、それが正しい結末だ。
彼こそが、物語の中心に立つ者なのだから。
……でも、関係ない。
そんなこと、僕にはどうでもよかった。
彼女に会えた。
それだけで、僕の人生は、意味を持った。
僕の身体は崩れ、意識は暗闇に沈んでいく。
そして最後に──僕の心に浮かんだのは、たったひとつ。
彼女に会えた喜び。
──ああ、やっぱり僕は