Ⅳ
戦場に、ようやく風が戻った。
瓦礫と血の匂いが漂う中、ヴァジュタスの巨躯は音もなく崩れ、黒い霧となって消える。残されたのは、掌ほどの半透明な球――コアだけだった。
「これが、奴の心臓か」
ソーマが息を荒げながらつぶやく。
ベルリアがしゃがみこみ、手袋越しに持ち上げる。内部で、赤黒い輝きが脈動していた。
「おかしい。こんな反応、通常の魔核じゃありえない」
シノノメも覗き込み、眉をひそめる。
赤黒い光は炎でも血でもなく、あの伝承でしか聞かない禁忌の輝きだった。
「……賢者の石の波長と一致」
ベルリアの声は低く、確信に満ちていた。
一瞬、全員の間に沈黙が落ちる。そのとき、コアが不意に強く脈を打った。赤い光が弾け、全員の脳裏に断片的な映像が流れ込む――血の海、崩れ落ちる都市、そしてその中心に浮かぶ紅の結晶。
光が消えると、コアはただの冷たい石に変わっていた。だが胸に残った映像は、消えるどころか、より鮮明になっていく。
黒い液体は地を這い、形を変えながら速度を増していく。
瞬く間に一本の触手めいた影となり、ベルリアのケースめがけて跳びかかった。
「ッ――!」
ベルリアが後退すると同時に、ソーマが前へ出る。右腕の装甲を展開し、衝撃波を放つ。
だが影はその波を裂き、二つに分かれて左右から迫る。
「分裂した」
カリンが息を呑み、銃口を向けた。三発、正確に命中。だが弾痕からは液状の破片が飛び散り、なお動きを止めない。
「面倒だな」
シノノメは短く吐き捨て、足を踏み込み――瞬時に間合いを詰める。双剣が低く唸り、影を両断。
断面から飛び散った黒が、蒸発するように消えていく。
だが最後の一片が、まるで逃げるように地面へ潜った。
その消え際、シノノメの耳に微かな声が触れた気がした。
――カエセ。
風が戻り、空は何事もなかったかのように澄んでいた。
しかし誰も、その場から動こうとはしなかった。
荒れ果てた戦場を後に、四人はゆっくりと廃都の外縁へ歩みを進めた。
足音だけが石畳に反響し、先ほどまでの轟音が嘘のように静まり返っている。
「……結局、石はなかったな」
ソーマが呟く。肩の装甲はひび割れ、内部で冷却液が低く唸っている。
「本当になかったのか、それとも……」
ベルリアの視線が、地面の割れ目に落ちる。あの黒い残滓が潜り込んだ跡だ。
カリンは黙って歩きながら、銃を分解して整備している。金属音が乾いた空気に響く。
「……あれ、逃げるっていう動きじゃなかった。戻る場所が決まってる感じだった」
シノノメはそれを聞いても、何も答えなかった。ただ、廃都の向こうに垂れ込める雷雲を見据える。その奥で、何かが脈動している気がしてならなかった。
――かえせ。
耳の奥に、あの微かな声が再び蘇る。足取りが、わずかに重くなった。
稲光が雲を裂き、一瞬だけ廃都のシルエットが白く浮かび上がる。
その光に照らされた刹那、雲海の奥で何かがきらりと赤く光った。
「……見たか?」
ベルリアが足を止め、眉をひそめる。
だが、次の瞬間にはその輝きは消え、ただの闇と雨脚の向こうへと溶けていった。
ソーマは唇を噛む。
「嫌な予感しかしない」
カリンは銃口を空へ向け、雨粒をはじき落とす。
「予感じゃない。あれは……呼び水だ」
彼らは無言のまま歩を速めた。
廃都の外れに近づくにつれ、地面のひび割れが深くなり、そこから黒い靄が立ちのぼる。
足下を滑るその靄は、まるで彼らを追いかけるように蠢いていた。
やがて外縁の高台に差し掛かる。眼下には広大な荒野――そして、その中心にぽつりと佇む、紅く脈打つ結晶柱。
ヴァジュタスの残滓が逃げ込んだ先は、間違いなくそこだった。
「……行くしかないな」
シノノメが低く呟き、双剣の柄を握り直す。
雷鳴が再び、空を裂いた。
高台から荒野へ降り立つと、足元の土は異様に柔らかく、踏みしめるたびに低く呻くような音が響いた。
靄はここに来てさらに濃くなり、視界は十数メートル先までしか届かない。
ベルリアが掌をかざすと、周囲の靄がわずかに引いた。
「……おかしい。これは自然の瘴気じゃない。誰かが意図的に流している」
ソーマが頷く。
「ヴァジュタスがあそこまで抵抗した理由、これか」
結晶柱は近づくたびに大きく、そして不気味に見えてくる。表面は脈打つ血管のような線で覆われ、その奥で紅い光がうごめいていた。カリンが銃を構え、肩越しにシノノメを振り返る。
「やるなら、一気に」
シノノメは短く頷き、双剣を抜く。
瞬間、結晶柱の根元から黒い影が湧き上がった。触手でも獣でもない、不定形の異形たちが音もなく地面を這い、円を描くように彼らを取り囲む。
「歓迎の舞台ってわけか……」
シノノメの低い声と同時に、雷鳴が落ちた。
最初の一体が飛びかかってきた。獣の咆哮にも似た音とともに、刃のように尖った腕が振り下ろされる。シノノメは半歩身をひねり、刃先をかわしながら双剣で横薙ぎに裂いた。黒い体液が飛び散り、地面に落ちた瞬間、煙のように消える。
「無限湧きかもな!」とソーマが叫び、イノベルムの大剣を大地に叩きつけた。衝撃波が円形に広がり、数体をまとめて吹き飛ばす。
ベルリアは両手を結晶柱へ向け、詠唱を紡ぐ。足元から淡い青光が走り、襲いかかる影を氷の壁が次々と阻む。
「十秒稼げば、封印できる!」
だが、十秒はあまりにも長い。
影たちは壁を這い上がり、次々とシノノメとカリンの背後へ回り込む。
「右、二時方向!」
カリンが短く叫び、連射した。銃弾は影を貫くと同時に、背後の空間ごと裂くような閃光を生む。
シノノメはその開いた道を駆け、結晶柱の根元へ一気に迫る。
柱の脈動が早まる。紅い光が表面からあふれ出し、周囲の空気が震えた。
その中枢に――黒い核のようなものが、かすかに見える。
「……見つけた」
双剣が交差し、光の残像を描く。
シノノメは勢いのまま核を両断した。
鈍い音とともに結晶柱が崩れ、紅い光は霧のように散っていく。
だが、瓦礫の中に――賢者の石はなかった。
そこに残っていたのは、砕けかけの黒い欠片だけだった。
「……まさか、もう誰かが先に」
カリンの言葉は、濃い靄に飲み込まれ、消えていった。
靄が晴れると同時に、重い沈黙が場を覆った。ベルリアが崩れた柱の欠片を拾い上げ、掌で転がす。
「……核の共鳴痕は新しい。戦闘の直前まで、ここに賢者の石があったはず」
「じゃあ誰だ? あの混乱の中で持ち去れるやつなんて」
ソーマは大剣を肩に担ぎながら、周囲を睨み回す。
瓦礫の間には、戦闘の痕跡と、見慣れない靴跡が点々と残っていた。
シノノメはそれを見下ろし、眉を寄せる。
「……少なくとも、俺たちじゃない」
足跡は細く、軽やかで、戦闘に参加した誰の靴型とも一致しない。
カリンが銃を構えたまま、背後の闇へ視線を送る。
「見てたんじゃないの。私たちが扉を開くのを」
遠くで、雷雲が低く唸った。
その音はまるで、答えを拒むかのようだった。
「……行こう。足跡は北へ向かってる」
シノノメの声に、全員が頷く。賢者の石を奪った“何者か”を追うために。
足跡は、崩れた街路を抜け、やがて濡れた石畳の小路へと続いていた。
だが十数メートル先で、唐突に途切れる。
雨粒が落ちたような水紋が、空中に揺らめいていた。
ベルリアがそっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、光の膜が波打ち、空間が裏返るように歪んだ。
「……転位の痕跡。しかも、ごく短距離じゃない」
彼女の声には緊張が混じっていた。
「追えばいいんだろ?」とソーマが一歩踏み込むが、膜は一瞬で霧散し、ただの空気に戻った。
残されたのは、僅かな温度の揺らぎと、異様に乾いた匂いだけ。
シノノメは周囲を見回し、低く呟く。
「……わざと痕跡を残してる。こっちを誘ってる」
カリンは肩をすくめながらも、銃を下ろさない。
「なら、乗ってやればいいじゃない。どうせ、向こうも待ってるんでしょ」
雷雲が再び唸り、街全体を暗く覆った。
その奥で、微かに紅い光が瞬いた――奪われた賢者の石の色と同じ、冷たい輝きだった。
小路の先は、地図にも載っていない廃工場区画だった。
外壁は錆と煤に覆われ、窓ガラスはすべて砕け落ちている。
だが、瓦礫の合間からは微かな振動と低い唸りが伝わってきた。
ソーマが足を止める。
「……聞こえるか? この周期、機械じゃない」
耳を澄ませば、心臓の鼓動のようなリズム――だがそれは生物のものではなく、金属が脈動する不気味な音だった。ベルリアが壁面を調べると、コンクリートの割れ目から淡い紅光が漏れ出していた。
「……賢者の石と同じ波長。内部に何かあるわ」
シノノメは躊躇なく足を踏み入れる。
内部は想像以上に広く、天井の支柱は歪み、床一面を複雑な配管とケーブルが這い回っていた。
その中心に――脈動する黒い繭。カリンが低く息を呑む。
「まさか……ヴァジュタスの残滓?」
繭は鼓動するたび、表面に赤い回路のような紋様を走らせていた。それが光るたびに、耳鳴りが強まり、視界の端に見知らぬ都市の幻影がちらつく。
「……これ」
ベルリアの声が、冷たい金属の響きにかき消されていった。
繭の鼓動が速まった。
まるで内部から何かが叩いているように、黒い外殻がひび割れ始める。
そのたびに赤光が閃き、周囲の空気がねじれた。
「離れろ!」
シノノメが叫んだ瞬間、繭が破裂。
衝撃波が配管を千切り、壁面を剥ぎ取る。
吹き飛ばされた瓦礫の向こうから、半透明の巨影がゆっくりと姿を現した。
それはヴァジュタスの面影を残しつつも、全身が結晶質に変容していた。
内部で黒い液体が流れ、関節ごとに紅い光が明滅している。
「再構築体……?」
ベルリアが構えるが、巨影は彼女らに構わず、中央の機器群へと歩み寄る。
その手に触れた瞬間、廃工場全体が振動し、床下から複雑な魔術陣と電子回路が融合したような紋様が浮かび上がった。カリンが唇を噛む。
「……このままじゃ、浸食が進む」
紋様は呼吸するように脈動し、壁面を這うように広がっていく。
金属と石が軋み、空気そのものがゆがみ始めた。
シノノメは一瞬だけ仲間たちを見やり、双剣を握り直す。
もう、時間はない――。