Ⅲ
大地を爪でえぐり取りながら、ヴァジュタスの巨体が跳ね上がる。地表が波打ち、亀裂から瘴気が噴き上がった。
瞬く間に影が覆いかぶさり、熱を帯びた風が頬を焼く。
シノノメは双剣を交差させ、迫る触手の一撃を受け流す。
金属音と共に火花が四方へ飛び散り、衝撃だけで足元の岩が崩れ落ちた。
「……近すぎる」
息が熱い。獣の腐臭が鼻を刺す。
巨獣の背結晶が脈打つ度、表面の苔と赤錆が震え、多眼が一斉に開いた。
極細の熱線が扇状に奔り、地面を焼き裂く。溶岩のような亀裂が走り、白煙が噴き出す。
「右へ」
カリンが跳躍。機体の関節が軋み、背の長距離ユニットが光を放つ。
だが、触手が蛇のように巻き上がり、鋭い先端が彼女の進路を塞ぐ。
轟音。
ソーマの重装イノベルムが、地を砕きながら正面に突進。
回転するリングギアが火花を散らし、両腕で巨獣の顎を押し上げる。
歯が軋み、骨と金属がぶつかる鈍い音が響く。
「時間は取る」
「ああ!」
シノノメが低く返し、粉塵を抜けて横へ回る。
ベルリアはその影を滑るように抜け、曲刀を抜き放った。
黒のヴェールアゼルが脚部に絡みつき、金属膜がうねって締め上げる。
「動かないで」
拘束部から嫌な音が響き、ヴァジュタスの脚が地に沈む。瘴気が濃くなった。
「今」
ソーマの声と同時に、シノノメが跳躍。
雷光が双剣を包み、その軌跡が空中に残像を刻む。
刃が結晶を斜めに抉ると、内部で火花が爆ぜ、獣の咆哮が空気を揺らした。
カリンが後方から二連射。
閃光が右肩を粉砕し、破片と黒い蒸気が舞い上がる。
しかし背結晶が強く輝き、空気の輪郭が揺らいだ。
――全方位衝撃波。
地面が膨らむように波打ち、砕けた岩塊が宙に浮き、瘴気の粒子が光を乱反射させる。
耳を裂くような低音が地の奥から響き、視界全体が灰色に染まった。
粉塵の中、深く、低く、喉の奥で石を転がすような音が響く。
裂けた結晶の断面から、濃い瘴気が滲み、地面に黒い霜を走らせた。
巨体の輪郭が――崩れている。
骨が軋む音、肉が引き裂かれる湿った音が混じり、全身の装甲が地面に剥がれ落ちていく。
「……形を捨てた?」
ベルリアの声はかすれていた。
背結晶が再び脈動。だが今度は光ではなく、液体のような黒が逆流している。
それは獣の体内を満たし、骨格を押し広げ、四肢を異様に長く歪めた。
皮膚は裂け、無数の眼球が縫い目から覗く。眼は一つ残らず別の方向を見ている。
熱ではない――冷気だ。
吐き出された息が白く凍り、地面の岩が脆く砕ける。
触手の表面に氷の結晶が芽吹き、それが一瞬で槍のように尖った。
「第二形態……」
ソーマが呟く。
次の瞬間、ヴァジュタスは音もなく消えた。
かと思えば、粉塵を裂く衝撃が背後から襲い、カリンの機体が跳ね飛ばされる。
視認できぬ速度。質量を持った影だけが移動している。
全員の背筋に、冷たい汗が走った。
空間が歪む。
ヴァジュタスの脚が地を蹴るたび、衝撃で周囲の景色がひしゃげ、直後に爆ぜるように戻る。
シノノメは双剣でかろうじて弾き返すが、刃に走る衝撃は骨まで響き、握力が抜けそうになる。
金属臭と血の匂いが混じり、喉奥が焼けた。
ベルリアの拘束は一瞬で粉砕された。
ヴェールアゼルの金属膜が千切れ飛び、彼女自身も衝撃で数メートル吹き飛ばされる。
岩壁に背を打ちつけ、息が詰まる音が響いた。
「……速すぎる」
カリンの狙撃光が夜を裂くが、次の瞬間には空を切る。
ヴァジュタスは既に別の場所に立っていた。
残像の中で、無数の眼が全員を捕らえ、凍りつくような殺意を放つ。
――来る。
ソーマとベルリアが前へ出た瞬間、全方位から血槍が一斉に射出される。
視界が白に埋まり、耳を裂く破砕音が連続する。
衝撃波で地面が崩落し、全員が離れ離れになった。
シノノメは瓦礫の中で立ち上がる。
視界の端で、ヴァジュタスがカリンを押さえつけ、槍の穂先を彼女の胸へ押し当てていた。
時間が止まったように見える。
双剣が空気を裂き、雷光が軌跡を描く。
触手を断ち切り、カリンの体を引き寄せる。
その勢いのまま、崩れかけた岩壁の陰まで滑り込むと、ようやく彼女を降ろした。
「エーテル! コアを叩くぞ!」
『ジャッジ』
シノノメは足場を蹴り、粉塵の中を疾駆する。
瓦礫を踏み砕き、崩落する岩板を飛び移りながら、雷光がその身体を包み込む。
迫る触手が十本、二十本――槍の雨のように空間を埋め尽くす。
振るわれた刃は風圧で砂塵を吹き飛ばし、触手をまとめて断ち切る。
切断面から黒い蒸気が噴き上がり、戦場は一瞬だけ真昼のように白く染まった。
だが、ヴァジュタスは怯まない。
切り落とされた触手の根元から、さらに鋭く硬化した槍状の突起が伸び、シノノメの首元を狙う。
『サプレッション・リンク起動』
E.Aの声と同時に、無数の陣が空中に展開された。
氷刃が交互に放たれ、槍状の突起を迎撃していく。
爆ぜる光と衝撃でヴァジュタスの動きが鈍った。
その隙を突き、ソーマが血を滲ませながらもイノベルムを構え直す。
蒼い閃光と化し、巨体の脇腹へ渾身の一撃を叩き込む。
装甲のような外殻が裂け、内部から黒い蒸気と結晶片が飛び散った。
「――シノノメッ!」
カリンの叫びとともに、彼女の銃口から白銀の閃光が奔る。
弾丸はヴァジュタスの眼窩を撃ち抜き、巨躯が一瞬だけ硬直した。
その瞬間、シノノメの双剣が雷を纏い、空を裂く。
縦一文字の斬光が背結晶を両断し、轟音とともに結晶は粉砕された。
ヴァジュタスは断末魔の咆哮を上げ、全身が黒い霧に崩れ落ちていく。
爆風が吹き荒れ、空気はまだ熱と冷気が入り混じり、息を吸うたび肺が痛んだ。
*
楼閣の屋根、そのさらに奥。
濃い雨雲を背に、ひとりの黒衣が立っていた。
顔は影に沈み、ただ手に握られた紅い結晶――賢者の石だけが、遠くからでもわかるほど紅く輝いている。
「まだ形が安定していないか……」
風に紛れるほどの囁きが、なぜか耳に届いた気がした。
賢者の石が淡く脈動し、戦場中央の背結晶がそれに呼応する。
ヴァジュタスは苦悶のように咆哮を上げ、その巨躯を黒い霧に崩していった。
やがて虚空へと吸い込まれるように消え失せる。
雷鳴が鳴り響く中、黒衣の視線だけがこちらを射抜いていた。
その瞳は、胸奥の奥底まで覗かれている錯覚を覚えさせる。
「器は、まだ割らせるには惜しい」
突如、吹き荒れた烈風が視界を覆い――
次の瞬間には、その姿はどこにもなかった。
静まり返った戦場で、シノノメは息を吐く。
ヴァジュタスは去った。だがそれは撃退ではなく、何者かに回収されたにすぎない。
遠く、雷雲の向こうで、紅い結晶の輝きが一瞬だけ瞬いた。