第8章 青い光の告白
写真サークルの部室は夏の日差しで蒸し暑く、窓を全開にしても空気が肌に張り付いた。映画サークルとは違う雰囲気で、カメラ愛好家たちの空間だ。
パーテーションで仕切られた場所は人目が気にならず、俺はカナが作業を終えるのを待ちながらソファで脚本を修正していた。しかし、全く進まない。隙間からカナの方へ視線を向ける。
カナは窓際で黙々とカメラのレンズを磨いていた。色白の肌が青い光を浴び、発光しているように見える。あんな風に光の中にいる彼を撮りたい。俺の映画の中で、その姿を。
午後五時を過ぎてもなお強い日差しが部室の隅々まで染み込んでいる。汗ばんだ額を拭きながら、再び脚本に向き合う。締め切りは迫っている。
この夏の上映会に間に合わせなければならないのに、撮影すら始められない。全部カナのせいだ。いや、俺自身の責任だろう。彼を主役に選んだのは俺なのだから。
「ねえ、奏多くん」
突然、耳障りな声が部屋に響いた。ユナだ。いつの間にか現れ、カナの隣に座っている。今にも彼の腕にしがみつきそうな勢いで。
「今度の企画、手伝ってくれない?」
ユナの甘ったるい声色に、思わず眉をひそめる。彼女がカナの隣にわざと近づいて座る。なんだこの距離感は。
「写真展に出すポートレート集なんだけど」ユナはわざとらしく髪をかき上げた。
「奏多くんが主役なの。絶対にサークルの目玉になるよ」
カナは困ったように微笑むだけで、明確な返事をしない。その曖昧さが俺の神経を逆なでする。
窓から差し込む光がユナの美しい顔を照らす。彼女は確かに魅力的で、写真サークルでも評判も良い。俺への態度はアレだが……。カナが彼女の誘いに乗っても不思議ではない。
「ユナの企画も面白そうだけど……」カナの言葉に、俺は耳を澄ませた。続きが知りたくて仕方がない。
「でも?」ユナが追及するように尋ねる。その目はまるで獲物を狙う猫のよう。
カナが答える前に、部室のドアが勢いよく開いた。
「奏多、ユナの手伝いをしてやれ」写真サークルの藤崎先輩が入って来る。写真サークルでは相当な実力者らしい。大学祭での展示会で何度も受賞したという噂を聞いている。
「ユナの企画はサークルとしても力を入れるからな。新人の時からセンスがあるし、将来有望だ」
藤崎先輩の言葉に、ユナは満面の笑みを浮かべた。その表情は勝利を確信しているように見える。俺は不安で胃がきりきりと痛んだ。カナがユナの企画に取られたら、俺の映画はどうなるのか?主役がいなくなれば、完成する見込みはなくなる。
「私の企画の方がサークルのためになるよね、藤崎先輩?」ユナが媚びるように先輩の顔を見上げ「サークルの名誉のためにも」と付け足す。
「もちろんだ」藤崎先輩は胸を張って断言し、「真梨野の映画なんて芸術性を追求しすぎて大衆受けしないだろう。写真展なら多くの人に見てもらえる」と続けた。
その言葉で俺の自尊心は傷ついた。芸術性を追求しすぎ?大衆受けしない?確かに俺の映画はまだ誰にも評価されていない。でも、それは俺の全てなのだ。誰かに見せたくて、認められたくて、必死に考えてきたストーリーなのに。俺がいない場所ではこんな扱いなのか。
「写真サークル所属なら、写真の活動を優先すべきだろ」藤崎先輩がカナに向かって言い放つ。
「真梨野の映画に出たところで、お前に何のメリットがある?」
部室の空気が一層重い。カナを取り巻く視線の重さを感じた。俺は脚本を握りしめる。もうだめかもしれない。カナは断るだろう。誰だって自分の所属するサークルの先輩の言うことを聞くはずだ。
「すみません、藤崎先輩」カナが静かに答えた。
「僕は真梨野先輩の映画の撮影があるので」
俺は思わず顔を上げる。カナが俺を選んだ?信じられない思いで彼を見ると、その瞳は迷いなく藤崎先輩を見つめていた。
「よく考えろ。真梨野の映画が完成する保証はないだろう?」
藤崎先輩の眉間にしわが寄り、明らかな不満の表情が浮かぶ。
「僕はもう約束したんです」カナの声は柔らかいけれど、芯が通っていた。
「真梨野先輩との撮影は夏休み中ずっと予定が入っています」
カナがそう言ったとき、部室の隅で他のサークルメンバーが小声で囁き合っているのが聞こえてきた。おそらく俺がこの部屋にいること、気づいていないのだろう。遠慮のない言葉が続く。
「ユナの言う通り、真梨野の映画は変だよ」
「あんな芸術的な映画、誰が観るんだ?フランスじゃないんだから」
「奏多が出るなんて勿体ないよな。確かに日本では無理だろ」
「せっかくのルックスが無駄になる」
その囁きが針のように耳に刺さる。確かに俺の映画は芸術的で理解しにくいかもしれない。でも、それは俺が表現したい世界なのだ。カナにはそれが分かるはずだと信じていた。
「ちょっと、奏多くん!」ユナが抗議の声を上げる。
「私の企画の方が大事じゃない?展示会にも出せるし、写真集にもなるのよ?あなたのキャリアのためにもなるんだよ?」
ユナはカナの側に寄り、耳元に唇を近づける。小さな声だったけれど、俺にも聞こえた。
「マリ先輩の映画なんて失敗するよ。私なら奏多君を成功させられる。どっちがあなたのためになると思う?」
その卑怯な囁きに俺は拳を握りしめた。カナがどう答えるか、息を詰めて待つ。今度こそ、ユナの企画を選ぶだろう。先輩に反抗して、サークルメイトに批判されて、それでも俺の映画に出てくれるなんて、そんな都合のいい展開はないはずだ。
カナはユナの視線を跳ね除けるように顔を上げ、「変でも、僕は出ます」その一言で部室が静まり返った。
「すみません、約束を守りたいんです」カナはきっぱりと言い切る。「僕は真梨野先輩と一緒にやります」
冷静に聞こえるカナの声の中に、どこか強い意志が感じられた。俺の方をちらりと見るカナの目は、少し照れくさそうだったが、揺るぎない決意を宿している。
「なぜそこまで真梨野の映画にこだわるんだ?お前は写真サークルなんだぞ?」藤崎先輩が呆れた表情で尋ねる。
カナは少し考えてから、静かに答えた。
「昔、僕の夢を笑われたことがあります。高校の時、写真集を作りたいって言ったら、『そんなの誰も見ないよ』って言われて」
俺は思わず息を呑んだ。
「でも、真梨野先輩は違った。入学したばかりの頃、僕の話を真剣に聞いてくれて、『それ、面白いな』って言ってくれたんです」
カナがそんなことを覚えていたなんて……。確かに入学当初、カナが写真についての自分の考えを語ってくれたとき、俺は心から「面白い」と思ったのだ。でも、それがカナにとってそんなに特別だったなんて。1年以上前のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「たった一言でも、本気で向き合ってくれる人がいるって、大きいんです」カナの声には柔らかな感謝の色が混じっている。
「真梨野先輩は僕の話を馬鹿にしなかった。それだけで……」
言葉を切って、カナの顔は少し赤くなった。
「だから、真梨野先輩の真剣さが僕には特別なんです。他の人には変に見えるかもしれませんが、僕はそれを大切にしたいんです」
「まぁ、良いよ」藤崎先輩は諦めたように溜息をつく。
「お前が選んだ道だ。後悔するなよ」
「しません」カナは即答する。
藤崎先輩とサークルメンバー達は不満そうな顔で部室を出て行った。重い足音が廊下に響く。部室のドアが閉まると重苦しい空気が流れ、ユナが憮然とした表情で立ち上がる。
「奏多くん、何でなの?あなた写真サークルなのに」
ユナの声には明らかな怒りが含まれる。
「あなたにとって何がいいのかわからないの?」
「ごめん、ユナ。でもマリの映画は……特別なんだ」
特別?俺の鼓動が速くなる。まだ形にもなっていない夢物語を、カナはそれを特別だと言ってくれた。信じられない感情が全身を駆け巡る。
「もう!奏多くんってマリ先輩のこと好きなの?」
ユナの声は半分冗談、半分怒りだった。悔しそうに唇を噛みながら、ユナは続ける。
「あんな映画、誰も見ないわよ。奏多くんのビジュアルが台無しになるだけ。あんな変な映画に出たって、何の役にも立たないわ。ドレス着せられるし ……」
カナは黙って肩をすくめる。それは肯定でも、否定でもなかったけれど、俺の心は波立った。好き?カナが俺のことを好き?やっぱり……そうなのか……?
「ユナ、ごめん」俺は勇気を出して割り込む。
「カナは俺の映画に必要なんだ。諦めてくれないか?」
必要。その言葉は本心だった。カナがいなければ、俺の映画は成り立たない。彼の持つ透明感、繊細さ、そして強さ。それらすべてが、俺の描きたい世界に不可欠なピースなのだから。
ユナは俺を睨みつけた後、「いつからいたんですか……?もういいですよ ……」と吐き捨てて部室を出て行った。彼女の足音が廊下に響き、次第に遠ざかっていく。悔しさと怒りが入り混じった足音だった。きっと簡単には許してくれないだろう。
静寂が戻った部屋で、俺とカナは二人きりになった。気まずい雰囲気の中、机を挟み向かい合って座る。窓から差し込む夕陽が、カナの顔を黄金色に染め、その繊細な輪郭が浮かび上がり、骨格を際立たせる。心臓の鼓動が煩くなっていく。
「なぁ、カナ...本当にいいのか?ユナの企画の方がきっと……」
「マリ」
カナが俺の言葉を遮る。その声は柔らかいのに、芯が通っていた。
「俺がやりたいことを、決めさせてくれよ」
彼の瞳は真剣で、夏の光だけでは説明できない何かが宿っている。その視線に、思わず息を呑む。
「藤崎先輩とユナ、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないよ」
カナが苦笑する。その微笑みには諦めと決意が混ざっていた。僅かに震える唇を噛みしめる様子に、俺まで苦しくなる。
「きっと嫌われるだろうな。あの二人、粘着質だし」
そう言って、カナは窓の外に目をやる。夕陽が少しずつ傾き始めていた。彼の横顔は、茜色の光と影のコントラストで、より美しさが際立っている。
「でも、俺はマリの映画に出たいんだ」
カナが再び俺に視線を戻す。その瞳に、映る決意に心が高鳴る。
「マリもオゾンみたいに自由に映画作ればいい。他の人の言葉なんて気にせずに」
カナはカメラを持ち上げ、レンズを通して俺を見つめた。その視線に捕らえられ、動けなくなる。まるで彼のフレームの中に閉じ込められたかのようだ。
「俺がこのカメラで見る世界と、マリが映画で表現したい世界って、どこか似ているんだ」
「本当に?」
思わず声が漏れ、自分の価値を認めてもらえる喜びが、全身を駆け巡る。
「うん」
カナは微笑む。その表情に、心が温かくなる。
「他の人には見えない美しさを、マリは見つけようとしている。俺もそうしたいんだ」
その言葉が心に灯をともす。こんな風に誰かに理解されること、選ばれることなんて今まで経験したことがなかった。
「変」「わかりにくい」と言う人はいても、「美しい」と言ってくれた人はいなかった。自分の存在をまるごと肯定してくれるようで、切なくて嬉しくて、どうしていいか分からない。
「カナ……ありがとう」
「なにが?」
カナはカメラを降ろし、レンズを磨く。その横顔が、これまで以上に愛おしく感じられた。長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋、そして、柔らかそうな唇...。この唇が俺にキスしたこと、まだ信じられない。気づけばカナの唇を穴が開くほど見つめていた。
「藤崎先輩に反抗してまで俺の映画選んで本当に大丈夫?」
「う~ん、大丈夫じゃないかも」
カナは少し考え、僅かに苦い笑みを浮かべながら視線を合わせてくる。
「でもマリの映画の方が大事だから」
その言葉の純粋さに、切なくて苦しい気持ちになる。
「……どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「どうしてって、約束したじゃないか。マリの映画に出るって」
輝く笑顔で答えるカナ。その眼差しに隠された何かを、俺は感じ取る。心の奥に溜まっていた疑問を、今こそ口にする時だと感じた。指先が微かに震える。
「あの……あの夜のことなんだけど」
「あの夜……?」
カナの声が明らかに震えた。二人の間に流れる空気が、一瞬で緊張に満ちる。
「お前の部屋で、本当は、俺……寝たふりしてたんだ。なんでキスしたんだ?」
カナの顔が一瞬で朱に染まり、それは、夕陽より鮮やかな色彩だった。彼の息が止まったように見える。
「やっぱり……起きてたんだ……」
小さな声で呟くカナ。夕陽の光が彼の頬を彩る。俺は彼の顔を近くで見たくて、無意識に体を前に倒して覗き込む。
「気づいてるんじゃないかって、実は思ってたよ……」
カナが視線を落とす。長い睫毛が震える様子に、心を奪われる。
「ごめん、マリ。あれは……なんか、衝動だったんだ」
「衝動?」
「うん……寝てるお前を見てたら、なんか……説明できないけど」
カナの言葉が途切れて、耳まで赤くなっている。
「したくなった。ごめん……怒ってる?」
頭が整理できない。カナの言葉の意味を考える。衝動って何だ?俺の頬も熱くなるのを感じる。
「別に怒ってないけど、なんでなのか知りたくて……」
「忘れてくれよ。変なことして、ごめん」
カナが照れたように笑う。けれど、その目は真剣だ。その瞳の奥に、言葉にできない感情の波が揺れているのを見た気がした。
「忘れられるわけないだろ。ずっとモヤモヤしてたんだから」
思わず強く言ってしまう。カナの表情が変わる。驚きと何か別の感情が、彼の顔に浮かぶ。
カナが「そっか……」と呟いて、ため息をつく。
そして、覚悟を決めたように俺を見上げる。
「マリ、話がある」
カナの目は真剣で、少し怖いほどの決意を感じさせた。
「なんだよ、急に改まって」
緊張を隠すように、軽く言葉を返す。でも、心臓は激しく鼓動していた。
「このままじゃまずい……。これ以上俺に近づかない方がいいよ?」
「何で?」
急に距離を置こうとするカナの言葉に、予想以上に動揺する自分がいた。
カナの声は低く、決意に満ちていたから。
「俺、ゲイなんだ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。カナの真剣な表情を見て、それが冗談ではないことがわかる。驚きと、別の感情が腹の底から込み上げてくる。
「高校の時、ゲイバレして、色々大変で...それからずっと隠してきたんだ。誰にも知られないように……」
カナは視線を落とし、苦い表情を浮かべた。過去の傷がまだ癒えていないことが痛いほど伝わってくる。彼の肩が微かに震えていた。守りたい、という衝動が湧き上がる。
「……そうだったのか」
言葉が途切れた。カナの過去を想像して、全身に痛みが走る。きっと、俺が想像出来ないような辛い経験をしていたんだ。
「ああ。だから...このままだと、どうなっても知らないよ?また、隙を見せたら、変なことするかもしれないし」
カナの言葉は警告でありながら、どこか挑発的に響いた。この先何が起こるのか、という含みを持たせているようにも聞こえる。彼の瞳に宿る感情の複雑さに、息が詰まった。
「カナ……俺のこと……好きなのか?」
思わず口から出た言葉に自分でも驚いたが、引き下がれない。知りたかったのだ。カナの本当の気持ちを。
カナは少し目を見開いたが、すぐに表情を元に戻した。その一瞬の揺らぎに、答えを見た気がする。
「……俺も?って言いたいのか?」
その言葉に、心臓が跳ねる。俺も?ということは……。
「いや、その……」
言葉に詰まる俺を見て、カナはため息をつく。そのため息には、長い間抱えてきた何かが込められていた。
「マリの映画にはちゃんと出るからさ。撮影が終わったら、前の先輩後輩に戻れる?撮影後は距離を置かせて欲しい。これ以上一緒にいたら、この関係を壊しそうで怖いんだ」
その言葉に、魂が震える。カナは俺から離れようとしている。自分を守るために。そして、俺を守るために……。
俺は返す言葉を失った。距離を置く?たまに会話するだけの関係に戻る?そんなのは絶対嫌だ。
だけど、俺はゲイなのだろうか?そこから考えなければならない。今まで女性にしか興味がなかった。でも、カナのことは好きだ。四六時中考えるほどに。彼の存在が、呼吸のように自然で必要なものになっていた。
「距離を置くなんて嫌だ。こんなに仲良くなれたのに、どうしてそんな寂しいことを言うんだ?」
思わず強く言ってしまう。カナの目が微かに揺れた。
「じゃあ、マリはどうしたいの?」
その質問に、言葉が詰まる。俺は何がしたいんだろう?
カナのことは好きだ。それは間違いない。彼の笑顔を見ていたい。彼と一緒に映画を撮りたい。話したい。触れ合いたい...でも、まだ気持ちが追いつかない……。
「前向きに考えたい。もう少し時間をくれないか?心の準備をさせて」
俺の答えに、カナの表情が和らぐ。希望の光が差したような、そんな瞳だった。
「じゃあ、撮影最終日までに答えを出して」
「うん……分かった」
約束した。その約束の重みを、二人とも感じていた。ぎこちない空気が流れる。帰り道はいつもより会話は少なかった。けれど、時々偶然手が触れる度に、電流が身体に走る。
カナは俺のことを好きなのかもしれない。そう思うと嬉しくて体中が熱を帯びる。でも、俺と一緒にいることが彼にとって辛いのかもしれない……。カナは自分の気持ちを抑えて、俺との関係を守ろうとしている。
でも、俺は離れたくないのだ。男と付き合うことなんて俺にできるのだろうか?まだ自信を持って、返事できない自分がいる。女の子とも付き合ったことがない俺には難易度が高すぎた。
でも、カナと離れる選択肢だけは取りたくなかった。