第7章 夕映えのシルエット
カナとの朝食を終え、大学へ向かった。スマホを確認すると8時15分。一限の講義は9時から。急いで支度を済ませ、部屋を出る。ふと、昨夜のことが脳裏に浮かぶ。
カナのキス。考えないようにしても無理だった。それなのに、彼はなぜあんなに平然としていられるのか?あまりにも普段通りで拍子抜けした。本当に現実だったのか、と疑わしくなる。
校舎の廊下でリョウとばったり遭遇した。
「おはよう、恋する乙女」
「うっせぇな。普通に話せよ」
リョウは笑いながら、俺の肩を軽く叩く。
「で、決心はついたの?カナに告白する?」
「そんなの...まだ考え中だ……」
「自然体でいいんじゃね?」
そう言われても、昨夜のキスを思い出すと、顔から火が出そうになる。もしあれがからかわれただけなら?本気にした自分がバカみたいだ。カナにとって俺が単なる上級生の一人で、特別な存在でないとしたら。胸が苦しくなる。これからどう接すればいいのか。
「お前、そんな顔してたらカナにバレるぞ。気持ち丸見えだからな」
リョウが指で俺の顔を突いてきた。
「分かってるよ...でもどうしようもないんだ」
「マジで重症だな。お前がこんなに真剣になるの、初めて見たわ。恋は人をこんなにも変えるんだな」
そう言ってふざけながら、リョウは去って行く。
講義棟に向かう途中、後ろから声がかかった。
「マリ先輩!おはようございます!」
振り返ると、写真サークルの二年生、ユナが手を振っていた。彼女はいつも明るく、映画サークルも兼任しているため、こちらでも人気者だ。特にカナとは親しいらしく、二人で話している姿をよく目にする。
「あ、おはよう」
「マリ先輩の映画っていつから撮影ですか?奏多くんが出るって本当ですか?」
ユナの質問に、なぜか居心地の悪さを感じる。笑顔の奥に潜む挑発的な眼差しが気になった。
「うん、まあ……準備中だけどな」
「私も手伝いたいです!奏多くんが出るなら、私も参加したいです!」
ユナの瞳が輝いている。彼女がカナに好意を抱いているのは、サークル内では周知の事実だった。実際、二人はよく一緒にいるし、カナも彼女に優しく接している。他の女子がカナに近づけば邪魔するような気の強さで、いつもカナを独占しようとする。はっきり言って俺は苦手だ。
「あ、いや……まだ具体的に決まってないから……」
「決まったら教えてください!私の映画にも奏多くん出てほしいんです。奏多くん、私が撮影したら絶対素敵な映像になると思うんです!」
ユナはそう言いながら、チラリと俺の表情を窺った。その瞳には明らかな挑戦の色が浮かんでいる。
「奏多くん、私の映画の方が似合いそうじゃないですか?」
彼女は笑顔で言ったが、その裏に何かを感じずにはいられなかった。
「カナは俺の映画に出ると約束したから」
思わず強い口調で応じてしまう。ユナはすぐに笑顔を取り戻した。
「ふーん、でも奏多くん、私の映画の方が大事って言ってました」
その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。嘘だ。カナがそんなことを言うはずがない。でも、もし本当だとしたら。
「嘘つくなよ」
思わず低い声で返した。ユナは一瞬表情を曇らせたが、すぐに元の笑顔に戻る。
「でも、奏多くんならきっと私の映画にも出てくれるはず!昨夜も『ユナの映画面白そうだね』って言ってくれたんですよ」
その言葉が刺ささる。カナとユナ、昨日も会っていたのか。俺がリョウの部屋にいる間、あんな夜中に?
「そうなんだ……」俺の声が虚ろに響く。
「はい!奏多くんとは昨日も夜遅くまで写真の話をしていました。彼、本当に素敵な感性の持ち主なんです。私、ずっと前から奏多くんのこと……」
ユナの言葉が、次第に遠くなっていく。昨夜、俺の部屋を出た後、本当にカナはユナと会ったの?そう考えると、心が疼く。悔しさと不安が入り混じった感情が押し寄せてくる。
昨日俺にキスしたのに、そんなことあるのだろうか?それでもカナを信じたい気持ちは消えない。この葛藤がもどかしくて、自分が情けなくなった。
「マリ先輩?聞いてます?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「もう、マリ先輩って、しつこいって噂だけど、こんなに上の空なんですね」
ユナの言葉に、思わず眉をひそめる。俺ってそんな風に見られているのか?
「しつこいって、誰が言ってるんだよ」
「え?あ、いや……そういう噂があるって聞いただけです。奏多くんに何度も映画出演頼んでるって……」
ユナは少し慌てた様子で言葉を濁した。だが、その表情に何かを感じた。最近、サークル内の視線が変わったのは、まさか、ユナが噂を広めているのか?
「まあいいや。俺、授業あるから」
足早に立ち去ろうとすると、ユナが袖を引っ張った。
「あの、先輩!1つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「奏多くん、本当に先輩の映画に出るんですか?ドレス着るって本当ですか?」
「……どこで聞いたんだ」
「はい。奏多くんから聞きました。『マリ先輩にライトブルーのドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って」
その言葉に、思考は停止した。カナは俺のことを...面白いネタとして話していたのか?昨夜のキスも、ただの遊びだったのか?心臓が鉛のように重くなる。
「そう……」
俺は何も言い返せず、足を早めて講義棟へ向かった。後ろからユナの声が聞こえたが、振り返らない。一日中モヤモヤしたまま、講義も上の空でカナのことばかり考えていた。
◇
昼休み、食堂でリョウを見つけて隣に座る。
「どうした?顔色悪いぞ」
「リョウ、カナって俺のこと、どう思ってるんだろうな」
「はぁ?何いきなり。まだ昨日の続きか?」
「いや、今朝ユナに会ったんだ。カナがユナに『マリ先輩にドレス着せられるの、ちょっと面白いかも』って言ってたらしい」
リョウは箸を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「それで落ち込んでるの?バカじゃね?」
「えっ?」
「カナがお前のこと話題にしてるってことは、それだけお前のこと考えてるってことだろ」
「でも、『面白い』って……」
「そりゃ、ドレス着ることが面白いって言ったんだろ。お前自身のことを面白いって言ったわけじゃないだろ」
リョウの言葉に、少し気持ちが軽くなる。確かにそうかもしれない。
「でも、ユナのことが気になるんだよな……」
「嫉妬かよ」
「違うよ!……でも、カナとユナって仲良さそうだし」
「ユナってさ、マリのこと嫌いなんじゃね?」
リョウが突然言った。
「えっ?なんでそう思うんだ?」
「なんか最近、お前の悪口をサークル内で言ってるって話を聞いたんだよ」
「『マリはしつこいし自己中心的』みたいな」
その言葉に、朝のユナの態度が繋がった。あの「しつこい」という言葉は、偶然ではなかったのだ。
「マジかよ...なんでそんなことを...」
「カナを独占したいんじゃねぇの?ユナ、カナのこと好きって噂だし」
「あいつに負けたくない……」
思わず本音が漏れる。リョウは笑いながら頷いた。
「ユナはカナのこと好きだろうけど、カナの気持ちはわからないぞ。昨日お前にキスしたのは事実だろ?妄想じゃないよな?それだとユナと付き合うなんてあり得ない話だ」
確かにそうだ。でも、カナの気持ちがわからないから不安になる。
「カナを取られるかも...」
「嫉妬してんのか?恋してんな、マジで」
リョウは呆れた表情で言ったが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、気になるなら、直接カナに聞けばいいじゃん。あいつとユナってどういう関係なのか」
「そんな簡単に聞けるかよ……」
「じゃあ、俺から聞いてやろうか?」
「やめろって!」
リョウは笑いながら、トレイを片付けた。
「授業行くわ。お前もいつまでもそんな顔してないで、ちゃんとカナと話せよ。あと、ユナの言うことをそのまま信じるなよ。お前、単純すぎなんだよ」
リョウが去った後、俺は一人で考え込む。確かに直接話すのが一番だけど...どうやって切り出せばいいのか?昨日のキスのこと、覚えてる?ユナとはどういう関係?そんなこと、どう聞けばいいのだろう。
カフェテリアの窓から外を見ると、ちょうどカナが中庭を歩いているのが見えた。日差しを浴びて輝く彼の姿に、複雑な気持ちが沸き上がる。女子二人がカナに駆け寄り話しかけている。
「誰だよ?」と思ったが詮索するのはおかしい。そんな関係ではないのだから。
もし、彼が俺のことを特別だと思っていなかったら……そう考えると息が詰まりそうになる。
◇
夕方、映画サークルの部室に向かうと、中からカナとユナの声が聞こえてきた。ドアを開けようとした手が止まる。
「奏多くん、私の映画出てよ。絶対素敵な作品になるから!」
「ユナ、でも俺、マリの映画に出る約束してるし……」
「えー、そんなの断ればいいじゃん。マリ先輩って、しつこいって噂だし」
ユナの言葉に、また傷つく。やはり彼女が噂を広めていると確信。不快感が胸の奥から湧き上がってくる。
「そんなことないよ。マリ、すごく真摯に映画と向き合ってる。だから俺も出たいと思ったんだ」
カナの言葉に、胸の奥で小さな希望が灯る。彼は俺のことを守ってくれている。
「でも、男がドレス着るなんて、変じゃない?私が着た方が絶対綺麗だよ」
「それは……」
カナの言葉が途切れた。俺はどうしたらいいのか分からなくなった。カナは俺の映画を守ってくれている。でも、ユナの言葉も間違ってはいない。男がドレス着るのは、確かに変かもしれない。だが、その「変」こそが俺の作品の魅力なのだ。カナにそれを理解してほしかった。
「変かもしれないけど、それがマリの映画の面白いところなんだ。俺はそれに共感したから出ることにしたんだよ」
カナの言葉に、胸がじんわりと温かくなる。まだ希望はある。そう思った瞬間、ドアの向こうから足音が近づいてきた。
慌てて少し離れたところに立つと、ドアが開いてカナが出てきた。
「あ、マリ……」
カナと目が合った瞬間、昨夜のキスを思い出して、顔が熱くなる。カナも少し頬を染めたような気がした。彼の瞳が僅かに揺れていた。
「カナ、部室にいると思って来たんだ」
「うん...ユナもいるけど」
「聞こえたよ。お前の映画出演の話」
カナは少し驚いた表情をしたが、すぐに真剣な顔になる。彼の瞳に迷いはなかった。
「マリ、俺は約束守るよ。ユナの映画じゃなくて、マリの映画に出る」
カナの言葉は、春の木漏れ日のように暖かい。
「ありがとな。でも、もし本当にユナの方がいいなら...」
言いながらも、心の中では「そんなこと言うな」と自分を叱っていた。どうして素直になれないのだろう。
「違うよ。俺はマリの映画に出たいんだ」
カナの真っ直ぐな目に、言葉が詰まる。その瞳には嘘がない。昨夜、彼の部屋で交わした約束を彼はちゃんと覚えていてくれている。
「奏多くん、まだ考えて...あ、マリ先輩」
ドアから顔を出したユナが、俺を見て少し表情を曇らせた。その目には明らかな敵意が浮かんでいる。
「よく会うな、ユナ」
平静を装って挨拶したが、内心は複雑な感情が渦巻いていた。
「マリ先輩、奏多くんを取らないでください。私の映画にぴったりなんです」
ユナの言葉に、カナが困惑の表情を浮かべる。彼の眉間にシワが寄った。
「ユナ、もう決めたって言ったよね。俺はマリの映画に出る」
「でも……」
「他の人を探してみたら?サークルには演技派の人もいるし」
カナの優しいけれど断固とした態度に、ユナは諦めたように肩を落とした。その表情にはまだ諦めきれない気持ちが見え隠れしていた。
「わかった……でも、奏多くん、私の映画も見てね」
「もちろん」
ユナは俺に軽く挨拶して、部室の奥へ戻っていった。その目には「まだ終わってない」という意思が感じられた。俺とカナは廊下に残される。
「ごめんな、カナ。俺のせいで……」
「ううん、俺が決めたことだから。マリの映画、楽しみにしてるよ」
カナの笑顔に、昨日からの不安が少し和らいだ。でも、まだ聞けていない。昨夜のキスのこと、ユナのこと……。
「あの、カナ……」
「うん?」
「昨日は……その……」言葉に詰まる。
どう切り出せばいいのだろう。心臓が早鐘を打つ。
「昨日?」
カナは首を傾げた。その仕草が愛らしくて、余計に言葉が出てこない。頬が熱くなるのを感じる。
「なあ、カナ...昨日、お前の部屋で寝ちゃった時さ……」
「うん?」
カナが手を止めて俺を見る。瞳が揺れているように見えた。
「なんか……変なこと、なかった?」
バカみたいだ。こんな回りくどい聞き方しかできない。カナは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑った。
「変なこと?マリが寝相悪くてベッドから落ちそうだったくらいかな」
カナは冗談で誤魔化す。その軽い口調に、ホッとする反面、モヤモヤが募る。あのキス、夢だったのか?いや、絶対現実だ。唇の感触、しっかりと覚えている。
「そっか……ならいいけど」俺も笑ってごまかす。
「うん……」
少し残念そうな表情を浮かべるカナを見て、俺は自分の臆病さを呪った。なぜ素直に聞けないのだろう。昨日のキスのこと、ユナのこと...知りたいのに。
カナの横顔を見ると、彼も何か言いたそうな表情をしていた。もしかしたら彼も俺と同じく、昨夜のことを考えているのかもしれない。それとも、別のことを悩んでいるのだろうか。
部室に入り、サークル活動が始まる。別々の場所で作業していても、時々目が合うと、お互いに微笑み合う。その度に胸が高鳴り、作業に集中できない。カナが資料を整理している姿を見ながら、俺は昨夜のキスをまた思い出していた。あの柔らかな唇の感触。確かに感じた温もり。俺は翻弄されている。
「マリ先輩、この資料どうですか?」
ユナが横から話しかけてきた。彼女の笑顔は完璧だったが、目は笑っていなかった。
「ああ、ありがとう」
資料を受け取りながら、ユナが小声で言った。
「奏多くん、私のことも大切に思ってくれてるんです。先輩にはわからないでしょうけど」
その言葉に反論しようとした瞬間、向こうからカナが歩いてきた。ユナはすぐに明るい笑顔を作り、カナに話しかける。
「奏多くん、この写真素敵!」
二人が会話しているのを見ると、俺はもどかしさを感じる。ユナの態度は明らかに敵対的だが、カナはそれに気づいているのだろうか。もし気づいていないなら、ユナの思惑通りになってしまうかもしれない。でも、さっきカナが言ってくれた言葉を信じたい。
夕暮れ時、サークル活動が終わり、メンバーが帰り始めた。俺はカナに声をかけようとしたが、ユナが先に彼を捕まえてしまう。二人は何やら話し込んでいる。
諦めて一人で帰ろうとした瞬間、背後から声がかかった。
「マリ、待ってよ」
振り返ると、カナが駆け寄ってきた。夕陽に照らされた髪が、彼の瞳と同じ琥珀色に輝いて見える。
「一緒に帰ろう」
「ユナは?」
「もう帰ったよ。今度の日曜、映画祭に行こうって誘われたけど、断った」
「断ったの?なんで?」
「その日、マリと映画の打ち合わせするって約束してたから」
そんな約束をしていただろうか?でも、カナがそう言うなら……。
「ああ、そうだった。忘れてた」
「もう、忘れるなよ。楽しみにしてたのに」
カナは拗ねたように頬を膨らませた。その仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。普段クールな彼はたまにこういう可愛い面を見せてくれる。親しくなった証拠かもしれない。彼の素直な表情に心が軽くなった。
「なに笑ってるの?」
「いや、なんでもない。可愛いなと思って。約束、守るよ」
「どこが可愛いんだよ」
二人並んで歩き始めると、黄昏時の空が幻想的に色を変化させる。他愛も無い会話で、モヤモヤが少し薄れた。
「なあ、カナ。映画の構想、もっと話してもいい?」
「うん、聞かせて」
俺たちは帰り道、映画の話をする。少しずつ距離が縮まっていく感覚があった。指先が触れそうで触れない距離。それでも、昨日よりずっと近くにカナがいることを実感していた。
リョウにカナを取られるかもって言ったけど、そんなことはなさそうだ。カナはユナより俺を優先してくれている。不安になるのはやめよう。
そう思いながら、俺はカナの横顔を見つめる。マジックアワーは彼の美しさをより際立たせた。魔法のような空と一緒に撮りたい。この瞬間を切り取りたい。俺はますます彼に惹かれていく。
遠くでユナの姿が見える。彼女は俺たち二人を見つめているようだ。その表情には複雑な感情が浮かんでいる。
でも今は、そんなことを気にする余裕はない。カナとの時間を大切にしたい。俺は決意した。次こそは勇気を出して昨夜のことを聞こう。カナの気持ちを確かめ、自分の気持ちも伝えよう。
マジックアワーの終わる頃、二人は工学寮に到着していた。