第3章 熱帯夜の抱擁
「暑っ!」
部屋の冷房が壊れた熱帯夜。俺は汗だくでカナの扉をノックする。リョウが外出中のため、頼れるのがカナだけだ。湿度の高い空気が肌にまとわりつき、冷房のない部屋は蒸し風呂と化していた。
シャツは背中に張り付き、額の汗を何度拭っても意味がない。夏の熱気は容赦なく部屋全体を熱帯地方へと変える。窓を開けても風はほとんど入らず、せめて部屋から逃げ出したくて、カナに頼ってみることにした。
「カナ~、いる?」
指の関節が扉に触れる音が静かな廊下に響く。一度、二度、三度。返事を待つ間も首筋を汗が伝う。時計はすでに夜の10時を回る。
もう寝ているかもしれないと諦めかけた瞬間、ドアが開き、白いTシャツにグレーのハーフパンツ姿のカナが現れる。不思議そうな目で俺を見つめながら、部屋から漏れる冷気が、廊下に立つ俺の熱い肌をわずかに癒していく。
「真梨野先輩?どうしたんですか?こんな時間に」
カナの声は眠たげで、髪は柔らかく乱れていた。寝る準備をしていたのだろう。その姿を見て少し後悔するが、あまりの暑さに耐えられなかった。
「冷房壊れてさ。死にそう。助けて」
俺は慣れた様子で部屋に入り込む。そんな無遠慮な行動に、カナは少し戸惑いながら扉の前に立ち尽くした。大学二年生にして、すでに工学部内で知られた存在のカナ。
写真サークルの新星として、その美しさから女子たちの間で密かな人気を集めている。だが彼自身はそういったことに興味がないらしく、いつも一人で過ごしている。俺と話すようになったのも、偶然映画の話題で意気投合したことがきっかけだった。
「あの、入るんですか?また映画の話ですか?」
カナの声には驚きと困惑が混じっていた。日中、遭遇する度に映画出演のお願いをしていた為、警戒されているようだ。それに突然の訪問は失礼だったかもしれない。しかし、今夜のために用意していたものがある。
「ごめん、ごめん。入っていい?映画の話じゃないよ。一緒に観たくて。フランソワ・オゾンの『サマードレス』とか、何本かお勧め持ってきたんだ」
DVDケースを掲げると、カナの表情が一変する。映画好きの彼らしく、瞳がキラリと輝いた。無表情だった面差しに生気が宿る。
「持ってるんですか?」
「単館系映画オタクをなめんなよ。カナが好きそうなのいろいろ選んできた」
思わず胸を張る俺に、カナは微笑み、部屋に招き入れてくれた。彼の部屋は整理整頓され、シンプルながらも洗練された雰囲気が漂っている。壁には写真が貼られ、すべてモノクロ。大半が風景か建物の写真で、一枚一枚が絶妙な構図で切り取られていて、素人目にも才能を感じさせる。しかし、人物の写真は一枚もない。
「やっぱり、写真上手いな」
俺は壁に貼られた作品を眺めながら素直に感心する。特に古い灯台を下から見上げたアングルの一枚が印象的で、モノクロの階調が美しかった。
「ありがとうございます」
カナは照れたように答えた。彼はベッドに腰掛け、俺もその横に座る。近すぎるかもと思ったが、カナは特に気にする様子もなくDVDプレイヤーのセッティングを始めた。俺たちの間にはほんの数センチの距離しかない。
「あ、そうだ」
俺はリュックから缶ビールを二本取り出した。汗で少し濡れた缶が、部屋の涼しさでみずみずしく輝いている。
「ビール、飲む?」
「え、先輩、これ……」
カナは驚いた表情を浮かべる。もしかして酒が苦手なのかと一瞬不安がよぎる。
「マリでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「マリ...さん」
まだ敬語が、残るのが愛らしい。体育会系の先輩と美形の後輩。一見不釣り合いな組み合わせだが、映画という共通点で繋がっていることがなぜか嬉しかった。
「カナ、20歳だっけ?」
「先月です」
「じゃあ、飲めるな」
「実は……飲んだことないんですよね」
初々しさが滲む返事に、なぜか胸がキュンとしてしまう。体育会系の見た目の俺が単館系映画オタクというギャップで驚かれるように、カナもまた意外な素顔を持っていた。美形なのに女の子と遊んでいる様子もなく、あどけなさが残る。そんなギャップが俺の中で不思議な感情を呼び起こしていく。
「じゃあ、今日が初めてだな」
俺はプシュッと缶を開け、一本をカナに手渡す。彼は少し躊躇ってから、そっと口をつけた。その仕草にも映画の一場面のような美しさがある。
「……苦い」
顔をしかめるカナの姿が微笑ましい。
「まあね。でも慣れるよ」
俺は大きく一口飲んでから、映画を指さした。冷えたビールが喉を通り、暑さで乾いた体に染み渡る。
「それじゃ、再生しますね」
カナがDVDをセットすると、テレビ画面に『サマードレス』のオープニングが流れ始めた。海の近くのコテージ、ゲイカップルの痴話喧嘩。何度も見た映画だが、カナと観るのは初めてで、何だか新鮮に感じる。
「このオープニング、印象的だよな。こんな始まり方他にない」
俺はビールを飲みながら呟く。カナは無言で画面を見つめていたが、薄暗い部屋でも彼の目が輝いているのがわかった。
「マリさんはこの映画、何回見たんですか?」
「マリでいいって。もう100回は見たかな。大学の映画サークルでも上映会したことあるし。俺は好きな映画を何回も観るタイプなんだ」
「そうなんだ……凄いです」
映画が始まり、俺たちは肩を寄せ合って画面に集中する。オゾンの斬新な演出に、カナは釘付けになっていた。青年が海辺で過ごす夏、初めての経験、刺激的で美しい世界。ふと、カナの横顔を盗み見すると、それもまた芸術作品のように思えた。
映画の青い光に照らされた彼の横顔が作品の一部のように輝いている。長い睫毛、通った鼻筋、柔らかそうな唇。普段はクールな印象のカナだが、映画を見ているときは感情を素直に表に出している。
「この監督の演出、細部までこだわってるんだよな」
俺が言うと、カナはゆっくりと頷いた。
「パーツのクローズアップが多いですよね。特に足だけとか。感情表現が独特で面白いです」
「そう、そこ!足だけで感情とか表現しようとするところ斬新すぎる。オゾンらしいよな」
俺は興奮気味に話した。映画について語り合える相手がいることが純粋に嬉しい。サークルの仲間とは違う、カナとの会話は不思議と落ち着く。
「このシーン、見て。ドレスを首に巻くシーン、最高じゃない?」
画面では主人公が借りたドレスを返しに行くため、自転車に乗っているシーン。表現不可能な複雑な表情の主人公が印象的だ。ライトブルーのドレスと空の青との爽やかな色彩が、夏の眩しさを完璧に表現していた。
「うん……綺麗だ」
カナの声は小さかったが、確かな感動が込められていた。俺たちはそのまま映画に没頭していく。時々、カナが缶ビールを少しずつ飲む音が聞こえる。彼はゆっくりと酔いに慣れようとしているようだ。
「オゾンってゲイなんでしょ?」カナが突然言った。
その言葉に少し驚く。カナが興味を示すとは思わなかった話題だった。
「そうだよ。だからこそあの繊細さや大胆さがあるんだと思う」
「繊細、か……」
カナは少し遠い目をする。何か考え込んでいる様子。俺は彼の表情の変化に気づいたが、深く追求はしなかった。
「マリさんは、どうして映画が好きなんですか?」
「マリでいいって。敬語も禁止な」
「え...じゃあ、マリ」
彼の口から名前が出るのが嬉しくて、俺は思わず笑みをこぼした。友達が増えたような、でもそれとは少し違う喜びがある。
「なんで映画が好きかって...高校の時、この『サマードレス』見て衝撃受けたんだよね。その時から映画にドハマりした」
「へえ」
カナはもう一口ビールを飲んだ。少しずつ顔が赤くなっていく。酒に弱いようだった。その様子がなぜか愛おしく感じられた。
「カナは?写真っていつから?」
「中学からで、本格的には高校から……かな」
「何かきっかけあったの?」
「うーん……」カナは少し考えて、
「写真で切り取った景色が、実際の風景より美しく見えたから……かな」
映画を見ながら、俺たちはそんな他愛もない会話を続けた。画面では、主人公が夏の海辺で成長していく物語が幕を閉じていく。
「あっという間だった」
俺は言いながら、ふと横を見るとカナの目が閉じかけていた。ビールが進むにつれ、カナの姿勢がゆるみ、徐々に俺に、寄りかかるようになっていく。アルコールが初めての彼には、一本でも効いているようだ。
「カナ、眠いの?」
「ううん……大丈夫」
そう言いながらも、カナの頭は徐々に俺の肩に近づいていく。不思議とそれを拒む気持ちにはなれず、むしろ、この距離感が心地良いとさえ思えた。映画の中の夏と、現実の夏が重なり合うような感覚に包まれる。
やがて二本目の映画の中盤に差し掛かった頃、俺の背中に何かが触れた。振り返ると、カナの腕がそこにあった。いつの間にか彼は俺の後ろに回り込み、背中から抱きしめるような体勢になっていたのだ。
「マリ……動くな……」
彼の声が耳元でささやかれ、俺の背中にカナの胸が密着する。バックハグの姿勢。突然の接触に、心臓が跳ね上がる。
「カナ……?」
返事はない。もしかして寝ぼけているのか?でも腕はしっかりと俺の胸の前で組み、何かを求めるような、すがるような強さがあった。
心臓の鼓動が大きく鳴り始める。これは何だ?どうして?自分が男を意識するなんて思ってもみなかった。しかし、背中越しに伝わるカナの体温、かすかに香る森のような匂い、すべてが俺の思考を狂わせていく。
「……映画、面白い?」
カナの小さな声が聞こえた。眠っているわけではなかったのか。でも声はとろんとしていて、確実に酔っているようだ。
「うん、いい場面だよ」
俺は平静を装いながら答えた。だが耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。映画はまだ続いているのに、もう全く頭に入ってこない。画面の中で主人公が猫を探しているようだったが、そんなことよりもカナの事で頭がいっぱいだった。
カナの腕が少し動いて、俺の胸の前でより強く組まれる。この姿勢、友達同士でするものなのか?いや、違う……これは……まずい。
「マリ……」
カナの吐息が首筋に当たり、ゾクッとした。身体の芯から熱が上がってくる感覚。こんな経験は初めてだった。
「カナ、起きてる?」
もう一度聞いてみたが、今度は小さな寝息だけが返ってきた。本当に眠っているみたいだ。それなのに、なぜ俺はこんなにドキドキしているのだろう。映画はもう見られない...。
カナの腕の中で、俺はただ彼の呼吸を感じていた。規則正しい息遣い、時々髪が首筋に触れる感覚、すべてが新鮮で不思議だった。
気づけば映画が終わり、エンドロールが流れていた。俺はそっとカナの腕をほどき、彼をベッドに運ぶ。酔いつぶれた彼は、まるで眠り姫のように美しく見えた。
「おやすみ、カナ」
部屋を出る前に、もう一度彼の寝顔を見つめる。長いまつ毛の影が月明かりに浮かび、天使みたいだな、と思った。この感情は一体何だろう。友情?それとも……違う何か?考えるほどに混乱していく。
自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。頭の中はカナでいっぱいだった。あの腕の感触、温もり、そしてカナの匂い。映画の余韻というよりも、一緒に過ごした時間の記憶が鮮明に残った。
スマホを取り出し、リョウにメッセージを送信する。親友のリョウなら、この混乱した感情を少しは理解してくれるかもしれない。
『リョウ、ヤバい。変な気持ちになった』
すぐに返信が来た。
『寝ろ、バカ』
それだけ。しかし、明日はきっと詳しく聞かれそうだ。あいつは人の恋愛には異常に鋭い。恋愛?いや、これは恋愛ではない。単なる友情だ。そう思い込もうとしても、胸のドキドキは収まらなかった。
天井を見つめながら、俺はあの瞬間を何度も思い返す。カナの腕、彼の温もり、そして俺の中に生まれた新しい感情。窓の外は虫の声で騒がしく、夜風が少しだけ部屋に流れ込む。暑さはまだ残るものの、さっきほどは気にならなくなっている。
こんな夏が始まるとは思わなかった。カナという存在が、俺の中で大きくなっていく。それは映画のようでいて、紛れもない現実。明日、彼の顔をどう見ればいいのか分からない。でも、もう一度あの温もりが何なのかを確かめたいとも思った。
熱帯夜、映画と酒と偶然の抱擁。これが何かの始まりなのか、それとも単なる夏の夜の思い出になるのか。答えはまだ見えないが、心の奥では何かが確実に動き始めていた。