第2章 ライトブルーの残像
「真梨野!サークルの会議、始まるぞ!」
サークル棟の映画研究会部室で先輩の声が響き、窓の外をぼんやり眺めていた俺は急いで席に着いた。夏の陽射しが窓から差し込み、古びた木製の机の上にまだらな光の模様を描く。教室の隅では扇風機がゆっくりと首を振り、汗ばんだ首筋に時折心地よい風を送ってくれる。
映画サークルの夏休みプロジェクト企画会議。各自が撮影予定の作品について発表し、協力を仰ぐ場だ。俺も何か言わなければならないのに、頭の中はカナのことでいっぱいで、まともなプレゼン内容が固まっていない。
昨夜も寝る前まで脚本を書いていたはずなのに、気づけばカナの横顔を思い浮かべ、ノートには殴り書きの名前だけが残されていた。
「次、真梨野、お前はどうする?」
順番が回ってきて、俺は喉が締まる感覚に襲われる。部室の空気が急に重くなったような気がした。
「あー、俺は..……」
サークルのメンバーの視線に押されながらも、練りに練った企画を発表することにした。
「フランス映画『サマードレス』のオマージュ作品を撮りたいんです」
「へぇ、また芸術系か」先輩が感心したように言う。
「お前らしいな」
「オマージュといっても、完全なコピーじゃなくて。日本の大学を舞台にした、夏の恋の物語……」
言いながら、頭の中で映像が形を取り始める。高2の冬、部活の合宿中に足首を捻挫して一人映画館で見た『サマードレス』。あのライトブルーのドレスを纏った主人公が海辺から去るシーン。その映像が俺の心に刻み込まれ、孤独の中で救いになったような気がしていた。
「主演は?」先輩の質問が思考を中断させる。
「それが……」
心臓が激しく鼓動する中、今こそ言うべき時だと決意した。
「工学部2年の奏多怜に頼もうと思ってます」
「奏多?あの写真サークルの?」
「はい」
「なぜ奏多?」
「他に代わりがいないからです...」
それ以上の説明はできなかった。なぜカナにこだわるのか、自分でもうまく言葉にできない。あの透明感のある表情、静かな佇まい、時折見せる遠い目。それらが『サマードレス』の主人公と重なって見えるのだ。
「でも、奏多は演技経験あるのか?」
「いや、まだ声はかけていないです」
サークルの部室が一瞬静まり返り、窓の外から蝉の声だけが聞こえてくる。
「お前、また変な勧誘するなよ」
リョウがニヤニヤしながら言う。いつの間にか映画サークルにも顔を出すようになっていた。困ったことだが、俺の言動をいちいち茶化すのが趣味らしい。
「うるせぇ」
「まあ、本人が良ければいいんじゃない?」先輩が言った。
「ただ、演技経験のない人を主演に据えるのはリスクだぞ」
「わかってます。だけど、カナしかいないんです」
「カナ?」
「あ、奏多のことだ。あだ名」
正確には俺だけがそう呼んでいるだけなのだが、そんなことは言えなかった。
「なるほど。親しいのか?」
リョウが「全然」と口パクで言っているのが見えたので睨んでやる。こいつはカナと俺の距離感を知っていて、いつもからかってくるのだ。
「まぁ、頑張れよ」先輩は笑って次の人に話を振った。
会議が終わると、俺はすぐにリョウのもとへ向かう。夕暮れの校舎の廊下は赤茶けた光に染まり、窓の外では部活帰りの学生たちが帰路を急いでいる。
「お前、いつからサークル来てんだよ」
「暇だからな」リョウは肩をすくめる。
「それに、お前がまたカナに絡むって聞いたし」
「誰に聞いたんだよ?」
「サークルの渡辺が言ってたんだ」
『あいつ、また変な妄想始めたぞ』って。
「勝手な事言うなよ...」
「それより、本当にカナに声かけるの?」
「うん」
「どこで?いつ?」
「今からでも部室に行ってみる」
「マジか」リョウの目が丸くなり、
「俺も行くわ」とテンション高めの様子。
「お前は来なくていい」
「なんで?見たいじゃん、告白現場」
「告白じゃねぇよ!映画の出演依頼だ」
「まぁまぁ」リョウは意味深に笑う。
「お前の熱い思いを、この目で見届けたいだけさ」
結局、リョウも一緒に写真サークルの部室へ向かうことになった。廊下を歩きながら、緊張はピークに達する。足音が妙に響く。どんな言葉で誘えばいい?どう説明すれば納得してくれるだろう?頭の中でセリフを何度も練習した。
写真サークルの部室のドアは半開きで、中から話し声が聞こえる。俺は軽くノックし、手の汗を急いでズボンでぬぐった。
「失礼します」
中には数人の学生がいて、それぞれカメラをいじったり、パソコンで写真を編集したりしている。壁には学生たちが撮影した写真がびっしりと貼られ、風景や人物、動物など、日常の一瞬を切り取った美しいものばかりだ。
そして、窓際の席で一人、カナがいた。夕日に照らされた横顔は、まるで青春映画のオープニングのようだった。黒縁眼鏡を掛け、画面を見つめる姿。細い指がマウスを操作するのに見とれ、一瞬言葉を失う。
「カナ」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「真梨野先輩?」
カナは静かに言う。相変わらず敬語だ。その言葉が妙に胸に刺さる。知り合って1年以上経つのに、まだ「先輩」と距離を置かれているのだ。
「ちょっといいか?話があるんだ」
「はい」
カナは素直に立ち上がる。リョウは部室の入り口で待ち、妙にニヤニヤしているのが気になるが、今はそれどころではない。俺たちは廊下に出た。
「カナ」
俺は一瞬、言葉に詰まる。初めて見る眼鏡姿は、いつもと違う魅力が溢れていた。また違う映画の構想が頭を駆け巡り始める。なぜ俳優を目指さないのか?素質ありすぎるだろう…。妄想の世界に入りそうになったが、慌てて正気に戻った。
「俺の映画に出てくれないか?」
「映画ですか?」
「そう。夏休みに撮る短編映画なんだ。フランス映画のオマージュで」
「僕……演技は全くしたことないです」
カナは困惑したように眉を寄せるが、その表情さえも絵になる。
「大丈夫だ。セリフもそんなに多くない。存在感が大事なんだ」
「でも……」
「カナ、俺の映画に出てくれ!」
思わず声が大きくなり、廊下に響いて顔が熱くなる。だが、もう引き返せない。
「ライトブルーのドレスを着る役なんだけど、本当に似合うと思うんだ!」
カナの表情が一瞬固まる。先ほどまでの困惑とは違う、何かが閃いたような複雑な表情だった。
「ドレス……ですか?」
「うん。『サマードレス』っていう映画のオマージュで...」
「嫌ですよ、先輩」カナはきっぱりと言った。「撮影ならいいですけど、出るのは無理です」
「え?」
「僕、カメラの後ろにいる方が得意なんで」
彼の目に冷たさが宿る。それでも、その瞳の奥に何か別の感情が渦巻いているような気がした。怒りではなく、何か...恐れ?いや、もっと複雑なものだ。
「でも...」
「先輩、諦めて下さい」
カナはそう言って、軽く会釈し、部室に戻っていった。
「振られたな」リョウが近づいてきて言う。
「映画の出演依頼だっての」
「同じようなもんだろ」リョウは笑いながら、
「それに、いきなりドレス着せるなんて言うからだよ」
「だって、あいつにはそれが似合うと思ったんだ」
俺は正直に答える。カナの静かな佇まいが、俺の中のあの夏の光と重なる。あいつならスクリーンで輝けるはずだ。
「お前、いつも変わらないよな」
リョウは呆れたように言ったが、その目は少し優しかった。
夕暮れの廊下で、俺たちは立ち尽くす。窓から差し込む橙色の光が、廊下の床を染めていた。
「諦めるのか?」リョウが尋ねる。
「諦めるわけないだろ」
「やっぱりな」リョウは笑う。
「お前、昔から好きなものには異常に固執するよな。中学の時の写真コンテストといい...」
「あれは別だろ」
「同じだよ。結局、お前の『これしかない』っていう妄想だ」
「妄想じゃない」俺は少しムッとして言い返す。
「直感だよ。監督の直感」
「はいはい」リョウはさらに笑う。
「それで、次はどうするの?」
「考えておく」
俺たちは工学寮に戻る道を歩き始めた。夏の夕暮れは長く、空はまだ明るい。けれど、木々の間に落ちる影は少しずつ濃くなっていく。カナのドレス姿を想像すると、胸がざわつく。
「なぁ、マリ」リョウが真面目な顔で言う。
「カナのこと、どう思ってんの?」
「どうって...映画に最適な俳優だよ」
「そうじゃなく」リョウは立ち止まる。
「個人的に、興味あるの?」
「は?何言ってんだよ」
「いや、お前、カナの話になると目の色変わるし」
「そんなことない」
「あるよ」リョウはまっすぐ俺の目を見た。
「『サマードレス』でも、主人公は恋をするんだろ?」
「それは...」
「お前、カナに恋してんじゃないの?」
「馬鹿言うな!」
思わず声が大きくなり、通りがかりの学生が振り返る。
「俺はただ、映画を撮りたいだけなんだ」
「ふーん。でも、お前の性趣向がどうであれ、お前は俺の友達だぞ」
リョウは悪戯に笑う。俺は返事をしなかった。食堂ではすでに夕食の準備が始まっていた。カレーの香りが漂っている。
「俺、先に飯食ってくるわ」リョウが言った。
「お前も来る?」
「いや、ちょっと考えごとがある」
「カナのこと?」
「うるせぇ」
リョウは笑いながら食堂へ向かった。俺は自室に戻るつもりだったが、足が勝手にカナの部屋の前で止まってしまう。201号室。ドアの前で数分間、立ち尽くす。
「よし」
俺は深呼吸して、ノックする勇気を振り絞った。手が震える。でも、引き下がるわけにはいかない。
ノック、ノック。
「はい」
中から声がした。ドアが開き、カナが顔を出す。彼は少し驚いたように俺を見る。髪が少し濡れていた。シャワーを浴びたばかりなのだろう。
「真梨野先輩?」
「カナ、もう一度考えてみてくれないか?」
「またその話ですか?」
カナがドア枠に寄りかかり、呆れた顔で俺を見据え、ため息をついた。その表情には戸惑いが滲んでいる。廊下の照明が彼の横顔を照らし、鮮やかな陰影を作り出していた。
「頼むよ、カナ!この夏の思い出になるって!」
「しつこいですね、先輩」
一瞬、瞳が揺れ、俺を試すように細まる。
「ライトブルーのドレスを着る役だけど、すごく美しいシーンになるんだ。お前にぴったりだよ」
「先輩、僕、男ですよ?」
「それが重要なんだ。原作の『サマードレス』も...」
「暑いし、部屋に戻ります」
カナはドアを閉めようとした。俺は思わずドアに手をかける。
「ちょっと待ってくれ」
「何ですか?」
カナの口調は少し冷たくなり、俺は焦る。こんなことをしたら、ますます嫌われるかもしれない。それでも、どうしても伝えたい思いが胸を締め付ける。
「ごめん、強引だったな。でも、本当にお前にしか頼めないんだ。なんとかならないか?」
「...時間をもらえますか?」
そう言って、今度こそドアが閉まると思った瞬間、カナが質問してきた。
「先輩の映画って...何を残したいんですか?」
突然の問いに俺は言葉を失う。
「夏だよ。光と影と...お前の一瞬のキラメキを残したいんだ」
カナの目が鋭くなる。
「へぇ...何か深そうですね」
そう言って、今度こそドアを閉めた。
廊下に取り残された俺の耳に、夕暮れの蝉の声が響く。
進展がないわけではない。考えてくれると言った。それだけでも一歩前進だ。
食堂は学生でにぎわう。夏限定の特製スパイスカレーが出ている。俺はトレーにカレーとサラダを取り、リョウのいるテーブルに向かう。
「で、カナは何て?」
リョウがカレーをかき混ぜながら尋ねる。
「『考えておく』だって」
「まじか」リョウは感心したように言った。
「お前、しつこいな」
「だって、他にいないんだよ」
「なんでそこまで?」
俺は言葉に詰まる。なぜカナにこだわるのか。それは映画のためだけなのか。正直、自分でもよくわからない。ただ、あの透明感のある佇まい、時折見せる寂しげな表情、そして何より、カメラを構えた時の真剣な眼差し。それらすべてが俺の中で「カナ」という存在を特別なものにしていた。
「映画に出てほしいんだ」
「それだけ?」
「そうだよ」
リョウは「ふーん」と意味深な声を出し、カレーを平らげて先に食堂を出て行った。数分後、俺も食事を済ませて食堂を出る。
その時、ちょうどカナが入ってくるところだった。目が合うと、彼は軽く会釈する。それだけだ。その一瞬の視線の交差に、何か特別なものを感じた。
◇
自室に戻ると、リョウが部屋に先に戻っていた。俺の部屋の鍵を勝手に開けたらしい。ベッドに座り込んで、漫画を読んでいる。
「お前、いつの間に…」
「合鍵作っただろ、去年。忘れたのか?」リョウは平然と言う。
確かに、風邪で寝込んだ時に世話をしてもらうために、合鍵を渡したことがあった。でも、こんな風に使われるとは思わなかった。
「で、どうだった?カナと会った?」
「食堂で見かけただけだ」
「目が合った?」
「...うん」
「お、進展あるじゃん」リョウはにやりと笑う。
「進展でもなんでもない」
「お前、絶対カナのこと気になってるよな」
リョウは漫画を閉じ、珍しく真剣な目で俺を見た。
「何度言わせんだよ。映画のためだけだって」
「はいはい」リョウは首をかしげ、意地悪そうに言った。
「じゃあ、なんで他の子じゃダメなんだ?サークルには女の子もいるだろ」
「カナの持つ雰囲気が必要なんだ」
「どんな雰囲気?」
「その...儚さというか、白に近い透明というか...」
言葉にするのが難しい。
「とにかく、カナしかいないんだよ」
「お前、本当ヤバいぞ。それがお前の個性だけどな」
リョウは立ち上がり、俺の肩をポンと叩いた。
リョウが出ていった後も、その言葉が頭に残る。部屋の中は静かで、外から虫の声が騒がしい。机の上には、書きかけの脚本が散らかっている。
カナのこと、気になってるのか?
いや、違う。あいつは俺の映画に必要なんだ。カメラを構えてファインダーを覗く真剣な横顔...その表情が俺を狂わせる...。ライトブルーのドレスを着た姿を想像すると、心が疼く。
そう、これは芸術のためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、なぜか胸の奥がざわざわする。カナの時折見せる悩ましい雰囲気、そして「考えておきます」という言葉。それらが全て混ざり合って、俺の中で何かを形作りつつあった。
俺はベッドに横たわり、天井を見つめる。外は完全に暗くなり、夜の虫の声が一層高くなる。夏の夜だ。窓から入る風が心地よい。しばしの沈黙の後、俺は小さくつぶやいた。
「諦めるわけにはいかない」
明日も、明後日も、必要なら何度でもカナに頼みに行こう。
あの夏の光を、今度は俺が形にしたい。カナと一緒に。
枕に顔を埋めると、カナの困惑した表情が浮かび、胸がキュッと締め付けられる。この感情は一体何だろう。ただの映画への情熱なのか、それとも……。
目を閉じても、カナの冷たい瞳が焼き付いて離れない。あの「考えておきます」が、俺の夏を永遠に変える予感がした。