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第1章 寮の窓から見た夏

 あの夏、工学寮の窓辺でカナを見た瞬間、俺の胸がざわついた。


 7月中旬。梅雨明け宣言はまだないのに、既に猛暑の日々が続く。扇風機がフル稼働しても部屋は蒸し風呂状態。汗が背中に滲み、Tシャツが肌に貼りつく。窓を開ければ外の熱気が流れ込み、遠くのセミの鳴き声が響いた。


 夏休みで人が減った工学寮には静けさが漂い、扇風機の「ガーガー」という音だけがその静寂を破る。アスファルトから立ち上る陽炎。タンブラーの水はとっくにぬるくなっている。


「くそ、暑すぎる……」


 軽くため息をついてベッドに寝転がり、汗ばんだ額を腕で拭う。床に散らばったDVDケースの山を見つめる。誰にも見せない、俺だけの秘密の宝物だ。


 名前は 真梨野悠(マリノユウ)。あだ名はマリ。工学部3年、21歳。高校時代はラグビー部だった。筋肉質な体と日焼けした肌、短く刈り上げた髪は今は随分と伸びている。大学でも部活に誘われるけど、俺の心は既に別のものに奪われていた。


 映画だ。それも単館系の、芸術的で人を選ぶような作品。


 友達は「マリが?」と驚いて笑う。体育会系なのに映画オタクというギャップが面白いらしい。でも俺にとっては当たり前のこと。スポーツも映画も、人間の肉体と精神の限界に挑むものだから。


 特に惚れ込んでいるのはフランソワ・オゾン監督の作品。床から『サマードレス』のDVDを手に取った。俺の人生を変えた映画だ。この約15分間のショートムービーはオゾンを世界に認めさせた斬新な作品。


 高校2年の冬、小さな映画館で初めて観た時の衝撃は今でも鮮明に残っている。真冬の寒さの中で見た、眩しいほどの夏。青い海に照りつける太陽、青空にも負けないライトブルーのサマードレス。


 服を盗まれた主人公が、アヴァンチュール後の女性に借りたドレスを着るシーン。アンバランスな魅力が溢れ出る様子。首にドレスを巻いて自転車で走るシーンは映画好きの心を掴む。

 感情の動きを表す個性的なカメラワークと光と影が織りなす映像美。あの瞬間、映画館の暗闇で、俺は初めて映画の力を実感した。


「いつか俺もこんな映画を撮りたい」


 そう思った瞬間から、夢が始まった。


 DVDの表面を指でなぞる。この中に永遠の夏が閉じ込められていた。光と影、風と海、儚い恋が息づいている。


 ベッドに身を投げ出して天井を見上げれば、扇風機の風で揺れるカーテンが『サマードレス』の印象的なシーンを呼び起こす。映画の中の時間が俺の部屋に重なり、暑さが少し和らいだ錯覚に浸る。


「マリ、またそこでボーッとしてるの?」


 廊下から幼馴染の 高橋亮(タカハシリョウ)が声をかけてきた。工学部3年で隣の部屋に住んでいる。リョウとは小学校からの付き合いで、なぜか同じ大学に進学し、同じ寮の隣の部屋。


 俺の恥ずかしい過去を全部知っている相棒。夏のアイスクリーム屋で転んで泣いた小学2年の俺も、初恋で振られてゲームに逃げた中学の俺も全て見てきた男だ。


 入浴後らしく、濡れた髪から水滴が首筋を伝う。肩にタオルを掛け、手にはアイスキャンディーを持っている。噛む音が廊下に響き、甘い匂いが漂う。汗で濡れたTシャツが肩に張り付き、その姿を見ただけで暑さが倍増する。


「うるせぇな」

「またカナのこと見てたんだろ?」


 リョウが意地悪く笑い、俺にアイスを食えと渡す。俺は廊下に出てムッとしながらもアイスを頬張る。


「見てねぇよ」


 嘘だ。見てた。見ずにはいられない。


  奏多怜(カナタレイ)。あだ名はカナ。工学部2年で写真サークル所属。身長175cmくらいの細身で、落ち着いた雰囲気と繊細な顔立ちが印象的だ。黒髪は少し長めで、前髪が目にかかると無意識に手でかき上げる。その仕草がアンニュイで妖艶で、目が離せない。


 俺より一回り小さいけど、存在感は抜群。工学寮を歩く姿は別世界から来たように見える。物静かで言葉数は少ないが、その瞳の奥には何かが燃えていた。カナを見ていると、不思議な気持ちに包まれる。


 カナの部屋は斜め前。廊下を挟んで少し離れているが、俺の窓からカナの窓がチラッと見える。夕暮れ時、写真を撮る真剣な横顔や読書に没頭する姿が目に留まった。


 カーテンの隙間から漏れる光が彼を照らし、まるでルコント映画『仕立て屋の恋』の有名なシーンのようだ。見てはいけないと思いつつも見てしまう。最近では、それが密かな楽しみになっている。


「覗きとか変態じゃん」リョウが冷やかす。

「うるせぇって。見えるんだから、しょうがないだろ。あいつ、映画に出てきそうな雰囲気あるだろ?」


「はぁ?」

「単館系の俳優みたいなんだよ。なんていうか...オーラが輝いてるんだ」


 リョウが目を細めて、「お前、またか」と呆れた顔をした。アイスを口に放り込み、わざとらしく首を振る。


「お前、またヘンな映画見ただろ」

「ヘンじゃねぇよ」


 確かに一般受けする映画じゃないかもしれない。でも『サマードレス』は俺の人生を変えた作品だ。大学で映画サークルに入ったのも、いつかあんな映画を撮りたいと思ったから。

 教授からは「真梨野の感性は面白い」と言われる。体育会系の外見と繊細な映像感覚のギャップが、俺の強みなのかもしれない。


 カナを見ていると、その感性が疼く。あいつを撮れば、何か特別なものが生まれる気がしてならない。俺の映画にカナが必要だと、心の奥で叫んでいた。


「よお、カナ。暑いな」


 ちょうどカナが廊下に出てきて、外に出ようとしていた。俺は自然を装い大きめな声で話しかける。心臓が早鐘を打った。


 カナが振り返った。薄いグレーのTシャツに身を包み、首にカメラをぶら下げている。汗で湿った前髪が瞳を隠していたが、その奥に見える深い琥珀色の瞳には、凍てつく湖のような静寂が宿っていた。なぜか一瞬ドキッとしてしまう。まるで俳優の卵のように輝く姿。


「先輩、今日も元気ですね」


 カナの声は低めで落ち着いていて、敬語が自然だ。言葉の間に微妙な間があり、それが重みを持つ。俺はその声に引き込まれ、掌が汗ばみ、喉が詰まる感覚に襲われる。


「おぅ、元気だよ」照れて頭をかき、「今日もカメラか?」

「課題です。人物を撮ります」

「へぇ、俺じゃダメか?」と言ってみると、「先輩は暑苦しいんで」とカナが小さく笑った。


 その笑顔が眩しくて、また胸がチクチクと痛む。だが、その笑みの裏に何か隠されているような気もした。真っ暗な映画のスクリーンに映しだされる一筋の光のように。


「なんだそれ」

「冗談ですよ。撮りたい人がいるんで」

 カナは少し上目遣いで俺を見つめた。


「誰だよ?撮りたい人って」

「秘密です」


 カナが目を細めて笑う。俺は少し嫉妬を感じた。誰を撮るつもりなんだろう?俺じゃダメなのか?複雑な思いが脳を支配する。映画の話をしたい気持ちが募る。カナを誘いたいのに、言葉が出てこない。心の中で、カナを映画に出したいという思いがぐるぐると回っていた。


「あの、先輩」


 カナが口を開き、少し迷うような表情を浮かべる。首を傾げる仕草が妙に可愛い。


「なに?」

「いつも……窓から僕のこと、見てますよね?」


 カナが静かに言った。心の奥を覗くような視線が俺に突き刺さる。しかしその瞳は非難というより、どこか楽しんでいるようにも見えた。俺の視線に気づいていることへの優越感が滲んでいる。


「え?」


 声が裏返った。リョウが「あー、バレてたか」と呟き、アイスの棒を手に意地悪く笑う。俺は慌てて目を逸らすが、心臓の鼓動は激しさを増し、溶けたアイスが手にポタポタとつたう。


「見間違いならいいですけど」カナが微笑む。控えめだが意味ありげな笑顔だ。

「失礼します」


 カナが立ち去る背中を見送る。細い肩幅とまっすぐな背筋、リズミカルな足取りで廊下の奥へと消えていく。俺は目が離せない。そのシルエットが夕陽に溶け込み、映画のラストシーンのように、脳裏に焼き付いた。


「お前、バレないように覗けよ」リョウが小声でからかう。

「うるせぇな」


 顔が熱くなり、恥ずかしさと別の感情が混じり合う。カナにバレているなら、もう隠す必要はないのかもしれない。それがむしろチャンスになるかも。話しかけるきっかけになるなら、恥ずかしさなど我慢できる。


「で、いつ声かけんの?」

「声?」

「お前、カナを映画に出したいんだろ?」


 黙ってしまう。そうだ。俺はカナを映画に出したい。俺が撮る夏の映画に。『サマードレス』のように美しい映像の中に。あの輝きをカメラで捉えたい。カナが俺の映画でどんな表情を見せるか、想像するだけで妄想が止まらない。


「さぁな...」


 工学部の先輩として誘うのはおかしくないけれど、それ以上の何かを感じていて、それが怖かった。カナの瞳が頭に浮かび、心が揺れる。リョウが肩をすくめて「がんばれよ」と言い残し、部屋に戻っていった。


 俺も自室に戻り、ベッドに倒れ込む。扇風機の風が汗を乾かし、天井を見上げながらカナのことを考える。あの物憂げな表情、洗練された雰囲気、「窓から見てますよね?」という言葉が頭を巡る。バレているのかもしれない。いや、バレている。でも、それがきっかけになるかも。カナを撮るきっかけに。


 デスクのノートを開き、映画の企画書を見つめる。タイトルはまだないが、夏の恋を描きたいという思いが溢れている。主人公のイメージが少しずつ固まりつつあり、カナがそれに重なった。


『主人公:大学2年生、写真家志望。内向的だが、カメラを通して生き生きとする。瞳に秘めた輝きが特別』


 まさにカナそのものだ。少し恥ずかしくなるが、正直な気持ちが溢れ出す。ペンを手に取ると、言葉が自然に流れていく。


『舞台:夏の寮。そして海へ。暑さと静けさが支配する空間。風が物語を動かす』


 窓の外は夕暮れで、オレンジ色の光が部屋を染め、影を作り出していた。光と影は映画に欠かせない要素だ。カナの笑顔がその光に重なるような気がして、心が温かくなる。窓辺に立つと、熱い風が顔を撫で、わずかな涼しさが混じり、カナのシルエットが夕陽に溶ける姿を思い出す。


 その夜、『サマードレス』を見返した。ドレスが風に靡くシーン。光と影のコントラストが絶妙で、何度見ても感動する。「カナがこの輝きを持っている」と想像すると、胸が熱くなる。俺のカメラでその美しさを捉えたい。カナを撮れば、俺の夏が永遠になるような錯覚に陥る。


 映画が終わり、部屋は静まり返っていた。夏の夜の工学寮は深い静寂に包まれ、遠くの車の音だけが微かに聞こえた。


 ◇


 翌日、工学寮の屋上でタンブラーに入れた自作の水出しコーヒーを飲んだ。カナの「秘密です」という言葉が頭を巡り、誰を撮るつもりなのか気になって仕方がない。俺じゃダメなのか?その疑問が頭を支配して、落ち着かない。屋上の風が熱を帯び、俺の決意を後押しする。


 夕方、部屋に戻ってノートにペンを走らせる。「カナを撮りたい」と書き出す。夏の終わりまでに映画を撮りたいという思いが溢れ、言葉が止まらない。あいつの輝きを映像に残したい。俺のカメラでしか捉えられないカナの美しさがあると確信していた。


 ノートを閉じると、窓の外で夕陽が沈み始め、茜色に部屋を染め上げていた。


 夜が深まり、耳障りな虫の音が脳裏に響く。ベッドに横になると、カナの笑顔が浮かんで心が震える。興奮と不安が入り混じり、頭はカナと映画のことでいっぱいだった。


 夏はまだ始まったばかり。カナを映画に出す機会が、これから訪れるはずだ。


 シャワーを浴びて汗を流し、冷たい水を一気に飲み干す。窓を開ければ、夜風が涼しく感じられる。星々が明日を予感させるように、いつもより明るく輝いていた。カナの笑顔が無数の星のように瞬き、眠れない夜を過ごす。


 夏だ。カナ、お前は俺の映画にぴったりなんだ。


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