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第二話 露命を繋いで向き合えば



 底の見えぬ暗闇に奪われていた心に光が差した。

 温い吐息を気にするくらいには、女の傷は回復の兆しを見せていた。


「泣きやんだか?」

「はい──」

「そなたは笑うと幼顔になるのだな」

「そうでしょうか……?」


 そう言った目前の美丈夫は、女より年嵩がいっている。

 あやすように背を叩く手に羞恥が起こり目を伏せると、男は名残惜しげに囲っていた腕を寛げる。


「気になるか?」

「ええ……」

「そなたへの預かり物だ。見るが善い」

「これは?」

「雪嵐の中娘を捜す男から渡してくれと頼まれた。そなたの父君であろうな」

「父から、ですか──?」

「ああ。雪のように白い肌と濡れ羽色の髪の美しい娘と言っていた。そなたしかおるまい」


 郷愁が舞い込む組紐で封をされた薄い箱。

 受け取るべきか受け取らざるべきか、懊悩たる思いに不釣り合いの軽快な音が立てられる。


「ほれ、見よ。暗いか? よく見るのだ」

「何をなさりたいのか、わたくしには」

「そなたは母君と妹御と瓜二つだそうだぞ」

「妹は! 妹は健在なのですか……!?」

「ああ、息災だと。まだ見ぬ姉を恋しがっているらしいがな」


 拐かすと告げた上で帰れと斥ける男に、女は悴んだ指を握り締めている。

 誰がどの顔で戻れるものか、置き手紙もなく独り家を出た女が合わせる顔などない。


「父君は此れをそなたに届かせる術を知らなんだ。追い駆けてはそなたが苦しむとわかっておられる。そなたは十分苦しんだではないか、家族に会いたいのであろう?」

「資格がありません」

「資格など何処にもありはせん。意気だけだ。まあ、人には誰しも躓き立ち止まる時期があるものだな。私からは詳しくは聞かん。そなたが話したいと望むなら聞いてやってもいい」

「貴方様にお聞かせするような話では……」

「そうか。ではそなたの父君に代わって礼として述べよ」


 俯いた女に視線を合わせる男に、女は抗いようがなかった。


「わたくしは、妹を殺めかけてしまいました」

「いつだ」

「五つの頃です……わたくしの一族は風の担い手で、未熟ですと力を制御できないのです。妹が生まれ、わたしは……」

「妹御が生まれて喜んだのだな。善き姉だ」


 頭を撫でられて堪えきれずにまた落ちる涙。

 着物の袖で目元を拭って背筋を正した。


「その日の内に家を出ました。祖父の元に身を寄せ、これまで二人で暮らしておりました。ですが祖父が亡くなり、独りになり、わたくしが長らえる意味を考えたのでございます」

「莫迦者。何ゆえそこで父君に思いの丈を打ち明けなんだ。実の親であろうに」

「帰れません。帰れません! もしまた同じ事があったら……わたくしは妹を大事に思っているのです。姉なのです。守りたいのに……っ」


 怖いのだ、小さくか弱かった命が消えかけ母が上げた悲鳴を忘れられずにいる。

 五つの時だ、幼いながらに覚悟した。

 可愛い妹を置いていく決心は姉になったからこそであったのだ。


「まだ未熟か?」

「祖父や祖父の友人に教えてもらい、人並みには扱えているはずです」

「だろうな。先程のそなたの風は心配りに満ちていた。なあ、私は呆れ返っておるぞ。此れを託した父君の思いが通じても帰らぬとは」

「申し訳ございません……」

「善い。意地張りの女も私といれば考えも変わろう」


 家紋が彫られた手鏡を女に渡すと、男の眼で火が揺れる。


「私は誓いを破らぬ男だ。そなたを連れて帰る。──どうした? 怖くなったか?」

「……いえ」

「未練があるならば送って行くぞ」

「未練なら、ずっと前から……」

「話せ。私が必ず果たしてやる」

「わたくしは、妹が、此の世に生まれ落ちる前……父母と共に暮らしておりました。家を出る時に母がわたしを腕に抱いて、必ず帰って来るよう言いました。そのときの、母の声を、忘れたくなくて……父様に、無理を言って」


 在りし日の面影を追わずにはいられなかった。

 父にも祖父にも無茶を言い、愛する母の声色を辿り続けた。とうに失ってしまっても意固地になった。

 そして挫けた。


「そなたの一族の慣習ではなく、無二の母への思いであったか。今でなくとも母君に会いたいか?」

「はい──はいっ、妹にも、あの子にも」

「善い。それまで私が面倒を見てやろう。仮の名を授けるとするかな。希望はあるか?」

「いいえ……」

「これまでに呼ばれたものもないのか。だが私とて人の子に名付けをした事はないのだ。美しい女に釣り合うものを考えるには一晩では足りぬ」

「美しい、ですか?」

「訝しげに聞くでない。そなたが否定するなら母君と妹御の美貌も取るに足らぬと同義だぞ」


 揶揄うような面持ちだ。胸に鏡を抱いていては反論もできぬから耳を染める。

 桐箱を差し出されて同じ漆の櫛を取った。

 行く宛ても取りたい手も定まっている。

 女、十七の少女は、風の使い手の性で長い豊かな髪を梳き一つに編んでいく。華やかな花色を固く結わえれば唇に満足を浮かべた。

 すると、男はそれまでの態度を崩して呆気に取られていた。


「そなた……」

「出立をするなら仕度をせねばと思いまして」

「そうか──どうやら祖父君と父君は常識を教えなんだ!」

「常識、とは?」

「怒るでない。可笑しいだけだ」


 腹を抱えた大笑いの有様に射干玉の瞳は困惑する。

 何ゆえに笑われるのか、常識とはと問うても男は答えぬだろう。


「許せ。嘲笑っているのではない。感服したのだ」

「そうですか。貴方様は──」

「煌月だ。そう呼べ」

「こうげつ、さま」

「愛いな。そなた、十七より下であろう」

「そんな事はございませんが──煌月様が、幼くとも善いと仰ってくださるから……」

「益々愛いな。連れ去るのが憐れでならん」


 消え失せる明星、いつの間にか止んでいる嘆きの咆哮。

 捕らえておきながら憐憫を寄せた者を置いて行こうとする。

 それが嘘か真か御自ら教えてくれぬのならば、此方に真実などわかるまい。

 深雪の名を受けし少女は奮い立って叫んでいた。


「煌月様! 連れて行ってくださいませ──」

「善いのか?」

「善いのです。面倒を見てくださるのでしょう? 必ず母の元に連れて行ってください……」


 目尻の涙を拭う手に頬を寄せれば、岩屋は夜明けのように照らされる。

 童のように悪戯げな男は傍若無人だ。


「許せ。泣かせてみたくなった」

「為してから赦しを請うて否を認めぬ貴方様は、太陽より傲慢かもしれませんね」


 組紐の先で男の頬を撫でる。

 煌月は少女を抱き上げると、しかと掴まるように腕に力を込めた。


「私を放すな。ここから先分かたれれば二度とは会えぬ」

「何を為さるのですか……?」

「案ずるな。目を瞑っておれ。一人の男が女を攫うだけだ」

「仰せの通りに、お任せいたします」


 冷気が吹き荒ぶ暗がりには誰の姿もありはしない。


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