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第一話 救われた心



 激しい風が空を唸らせ、荒れ狂う雪が大地を覆う晩だった。

 火に照らされた岩肌と砂利を踏む音で、うつらうつらとしていた意識が鋭くなり身が強張っていく。

 恐怖に心の臓が軋んで凍て付いていったが、第二の者は岩屋の奥に身を潜めていた先客に足を止めた。


「誰かいるのか?」

「此処に──」


 険のある男の声に振り絞った言葉を返すと、松明の揺らめきが大きくなった。

 小さな悲鳴が漏れれば、男はまろみを持たせて笑みを届ける。


女子(おなご)であったか。安心しろ、これ以上は行かぬ」


 岩戸に留まるには芯から冷える寒さであろうに、か弱き女の怖れに退いてから腰を下ろした。

 乾いた木が赤々と燃えるが外の雪嵐では一溜まりもない。代わりに出て行く事もできずにいる女は、長い髪に触れて躊躇いがちに呼び掛ける。


「お体を悪くされてしまいます。わたくしは構いません」

「そうはいかん。だが──時間だけは余っているからな。私の話に付き合ってはくれまいか」

「お話しでございますか?」

「ああ。今日、久方振りに古い友に会って来たのだ。年が明けたら妻を娶ると報せがあってな。喜ばしき事だが其奴の惚気が酷かったのだ。そなたには長い愚痴を聞いてもらいたい」

「わたくしでよろしければ、嵐が止むまで──」


 女の息は轟音に紛れ、男は愉快そうに身を動かした。此方に振り向いたのだろう。

 衣擦れの音は既に恐ろしさを感じさせない。


「貴方様のご友人は、どういった御方なのでしょう。お声に戸惑いが混じられています」

「そうだな、腕っ節が強く、勉学には疎く、女っ気はからっきし。女子といるより男に稽古だの何だのを付けてやるのが生き甲斐で、急に海の近くに住みたいと出て行ってしまった親不孝者だ」


 女の身じろぎには気付かずに、男は友の思い出を回顧する。

 よく通る落ち着いた低音に耳を澄ませ、真白の雪で隠すように平静を取り繕う。


「海ですか、とても大きく広いのだと話に聞いた事がありますが」

「私も数度しか眺めた事はないがな、大海原と呼ぶに相応しい広大さであった」

「いつか、見とうございます。しょっぱいのですよね?」

「あぁ。舐めると舌がおかしくなる。あれは酷い塩水だった」

「味見をしたのですね。──ご友人のお気持ちが少しわかります。知らない景色というのは、惹かれるものがございますから」


 その友人の巣立ちの経緯や細君の気立てのよさを述べた後、男はしみじみと息を吐く。

 いつの間にか暗がりを照らす色が穏やかな橙へと変わっていた。


「恋をすれば人は変わるのだな」

「そうなのですか?」

「なんだ、そなたも知らぬのか?」

「えぇ、お恥ずかしながら……」

「私も似たようなものだ。周りは責付くがいなし躱して聞く耳も持たない。だがな、ああも奨められると些か気が乗ってしまう」

「お戻りになられて周囲の皆様にお聞かせになったら、大層お喜びになりますね」

「それは気に食わん」

「まぁ──」


 軽やかに微笑むと、それを映す双眸の持ち主に答えるかの如く眩い光が放たれる。

 もう一度空に息を吹き掛けると、先程よりも甘みを含んだ問いが為された。


「この暖風はそなたからのものか?」

「失礼をいたしました。風邪を召されるかと思い……」

「善い。そなたの優しさが伝わってくるようだ」


 語り口からして傅かれる身分の男なのであろう。

 暗がりであるのに見透かされてしまう。顔を背けても火照った頬に触れられる感覚に涙さえ浮かべてしまった。

 そして同等以上の罪悪によって貫かれるのだ。


「どうした」

「いえ──」

「女子が斯様な場所に一人きりとは、どこからか逃げて来たか?」

「逃げて来たと、申しましょうか……」

「帰る家がないか」

「いいえ」

「行く宛てがないのであれば私が拐かしてやろう」


 真実味を帯びた誘いに頭を振った。

 嵐が止むまで一所に留まっている者同士、今生の別れにしてしまいたい。


「私と共に来い。そなたが自ら永住の地を探す日まで、私が守っていてやろう」

「守るなどと──」

「此処で誰にも看取られずに逝くつもりか? それでは私の目覚めが悪い。私の友にも悪いと思わぬか?」

「嵐が止んだらわたくしの事はお忘れになってください」

「ならん。無理だ」

「そう言われましても、わたくしは独りきりがいいのです」

「私といればそうも言ってはいられないな。飽きさせはせん」

「……お戯れを。貴方様が素通りなさらぬと仰るのなら、わたくしが出て行きます」


 棲処を抜け出してから天は悲鳴を上げ続け、立つ事すら儘ならない荒れようであった。

 苦辛して人目から逃げた筈だったが、よもや、炎の様相の男から求愛染みた提案を受けるとは、最期に強い心残りが生まれてしまう。


「強情っ張りめ。巻き上げられるぞ?」

「そのような事はありません。どうか、見て見ぬ振りをなさってください」


 一瞬で火が消えて男の気配も霧散した。

 思わず立ち上がろうとした女の前に、不意に男が現れる黄金の瞳。

 幻から導くように灯された、自身が創った輝きを伴った美しい男。


「顔が見たくなった。許せ」

「あっ──明かりを……明かりを消していただけませんか。わたくし、殿方と差し向かって話すのには慣れておりません──何卒」

「相分かった」


 黒々とした長髪の艶やかな美丈夫は高い天井にのみ明かりを掲げた。

 女の鼓動は速まりに速まり頬を滴が伝っていく。男は、惑うて惑うて仕様のない姿を喜々と見つめているばかり。

 その目に焔が宿るのならば、女が熱に浮かされるのも仕方のない事。だが、何と言う距離の近さか、異性の接近に性懲りもなく間を空けようとしてしまう。


「そう縮こまるな」

「無理でございます」


 後ろは直ぐ様岩壁だ、何を間違えてしまったのか女の理解は追いつかない。

 日の光もここまで一点に降り注ぎはしないだろう。


「そなた、年は」

「──十七」

「十七? そうであったか」

「何か……?」

「見目と中身が一致せぬから──ああ、生い立ちゆえか。苦労したのだな。許そう、私しかおらぬ。私しか聞かない。涙を流せ」

「後生ですから……やめてください。優しくしないでください」

「無理だ。私が多くを褒めてやろう。癒やし、尽くし、労ってやる。我が身を責めるな、呪いを掛けてはならぬ。委ねろ。私が守ってやる」


 誰かの腕に抱かれるのは幼き日に置いて来てから初めての事、唇を噛んでも指がなぞればしゃくり上げて泣いてしまう。

 熱いのだ、人の血潮だ、ぬくもりが放してはくれない。

 慕っていた母から離れ、殺めてしまいそうになった妹から離れ、毎日のように訪れる父には終ぞ甘えられずに死別を選んだ。


「貴方様は、天の国の方なのですか?」

「何ゆえそのような事を申す。そんな形か?」

「死に際に見る夢は、此の世で最も美しいと……」


 促しては遮断して翻弄する、唇を押されて打ち震えている。

 畏れを覚えるほどに整った顔立ちながら、紡がれるのは柔らかな叱咤。


「愚か者め、私と生きるのだ。そなたを連れ去る。異議ないな」

「お計らい通りに、付いて参ります」

「笑え。嫌になるまで笑わせてやる。苦労もさせん。私と会えた事に感謝してくれるな?」


 人の顔とは距離が近いとぶれるものらしい。

 額を重ねて通じ合う体温は、女の苦難を焼き払って雪夜を照らす。


「お会いできて、嬉しゅうございます。わたくしを見つけてくださって──わたしを、見つけてくれて」

「そうだ。善い。私が全てを許そう。泣いて笑え、私が喜ぶ」


 この男は女の唯一の未練も晴らしてしまうのか、天をも従えた華々しき人は長年堪えていた幼子の慟哭を受け止めている。


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