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救われた心



 激しい風が空を唸らせ、荒れ狂う雪が大地を覆う晩。

 うつらうつらとしていた意識は照らされた岩肌と足音に浮上し、心の臓が恐怖に軋んで身が強張った。

 逃げ場のない岩屋の奥で息を潜めると、松明を持った第二の宿探しが問うてきた。


「誰かいるのか?」

「此処に……」

女子(おなご)であったか。安心しろ、これ以上は行かぬ」


 振り絞って答えると火の揺らめきが大きくなり、男の低音は丸みを帯びたものになる。

 岩戸に留まるのは芯から冷えるだろうに、恐れを察して踏み込んで来ない。代わりに出て行く事もできない女は躊躇いがちに話し掛けた。


「お体を悪くされてしまいます」

「構わん。頑強だ。だが、気にすると言うなら私の話に付き合ってはくれまいか?」

「お話でございますか?」

「久方振りに古い友に会ってな。年が明けたら妻を娶るそうだ」

「おめでとうございます」

「ああ。喜ばしき事だ。しかし惚気が酷くてな! 長い愚痴を聞いてもらいたい」

「わたくしでよければ、嵐が止むまで──」


 轟音の最中に男は愉快そうに身を動かした。衣擦れの音は既に恐ろしさを感じさせない。


「その方はどのようなお人柄でしょう。お声に戸惑いが感じられます」

「腕っ節が強く、勉学には疎く、女っ気はからっきし。稽古を付けてやるのが生き甲斐の、海の近くに住みたいと出て行った親不孝者だ」


 女は身じろぎをして真白の雪の奥から平静を掻き集める。


「海、ですか。とても広く、大きいものだと聞き及んでおります」

「私も数度しか眺めた事はないが、大海原と呼ぶに相応しい広大さであった」

「いつか……見とうございます。しょっぱいのですよね?」

「舐めると舌がおかしくなるぞ。あれは不味い塩水だ」

「味見をされましたか」


 ──海……暗い底に沈みたい……。


 女の冷水を求める心情は震える音に表れていた。

 男は唐突に、しみじみと息を吐く。


「恋は人を変えるのだな。粗野な男が女子の素晴らしさを並べ立てるようになる。やれ美しいだの飯が上手いだの」

「恋……そうなのですか」


 我が身に降り掛からぬものと拙く発すると、男の語気が溌剌とした。


「なんだ、そなたも知らぬか?」

「えぇ、お恥ずかしながら」


 素直に認めるとからからと笑われ、振り向くような物音が響いて明かりが少し側に来る。


「私は周りから責付かれているが、いなし躱して聞く耳も持たない。だがああも奨められると些か気が乗ってしまう」

「周囲の皆様はさぞお喜びになりますね」

「それは気に食わん」

「まぁ──」


 柔らかに微笑むと男からも呼気の笑みが寄せられる。

 自然と溢れていたものを今度は意識的に空へと吹き掛けた。

 すると先程よりも甘みを含んだ物言いで尋ねられた。


「この暖風はそなたからか?」

「失礼をいたしました。風邪を召されるかと思い……」

「善い。そなたの優しさが伝わってくる」


 口振りからして傅かれる身分なのだろう人の御手が触れる感覚。悴んだ爪先を温められるような心持ち。

 そして同等以上の罪悪に貫かれる。


「どうした」

「いえ──」

「女子が斯様な場所に一人きり。どこかから逃げて来たか?」

「逃げて来たと、申しましょうか……」

「帰る家がないか」

「いいえ。……家族もおりました」

「行く宛てがないか。ならば私が拐かしてやろう」


 真剣な誘いに頭を振る。単に一所に留まっている者同士、今生の別れにしてしまいたい。

 聞いてはならぬ、拒絶せねばならぬのに、絶対的な力を以て差し出されていた。


「私と共に来い。そなたが自ら永住の地を決めるまで私が守っていてやろう」

「守るなどと……」

「此処で誰にも看取られずに逝くつもりか。私の目覚めが悪くなるぞ。我が友にも悪いと思わぬか?」

「わたくしの事などお忘れになってください」

「無理だ」

「独りきりがいいのです」

「私と来ればそのような迷い事言ってはおられぬ。生を謳歌させてやる」

「お戯れを。貴方様が素通りなさらぬと仰るならば、わたくしが出て行きます」


 棲まいを脱してから天は悲鳴を上げ続け、立つ事すら儘ならない荒れようだ。苦辛して人目から逃げた筈が、よもや炎の如き男からの求愛染みた提案を受けるとは何の因果か。

 最期に強い心残りが生まれてしまう。


「強情っ張りめ。風に巻き上げられるぞ?」

「どうか、捨て置いてくださいませ」


 一瞬で火が消えて男の気配も霧散した。

 思わず立ち上がろうとした女の前に、不意に男が現れた。

 黄金の瞳。

 幻から導くように灯された、輝きを伴う美しい男。


「顔が見たくなった。許せ」

「明かりを……明かりを消していただけませんか。わたくし、殿方と差し向かって話すのは慣れておりません──何卒」

「愛いな。相分かった」


 黒々とした長髪の艶やかな美丈夫は松明を後ろに投げて膝を突く。

 女の鼓動は速まりに速まって目から滴が伝っていく。男は僅かに惑うていたが、仕様のない姿を喜々と見つめるばかり。

 何という距離の近さだろう。異性の接近に性懲りもなく間を空けようとしてしまう。


「名は」

「ありません」

「捨ててきたか」

「はい」

「そう縮こまるな」

「無理でございます……っ」


 後ろは直ぐ様岩壁だ。迫られているようだが理解が追いつかない。

 日の光もここまで一点に降り注ぎはしないだろう。


「そなた、歳は」

「一七でございます……」

「一七? 見目に比べて幼いな。ああ……、生い立ちゆえか? 苦労したのだな」

「後生ですから……お言葉をお止めになってくださいませ」

「私しかおらぬ。私しか見ておらぬ。涙を流せるか」


 女は遂に顔を背けて叫んでいた。


「慈悲をかけないでください……!」

「無理だ」

「何ゆえに!」

「そなたは苦しんでいる。なあ、私が多くを褒めてやる。癒やし、尽くし、労ってやる。我が身を責めるな、呪いを掛けるな」

「呪いなどっ! 優しくしないでくださいませ!!」


 誰かの腕に抱かれるのは幼き日以来であった。

 唇を噛んでもしゃくり上げてしまう。熱いのだ、人の血潮だ、ぬくもりが此処にある。


「貴方様は、天の国の御方ですか……?」

「人だ。何ゆえに、そのような事を申す」

「死に際に見る夢は此の世で最も美しいと……」


 畏怖を覚えるほどに整った顔立ちながら、紡がれるのは柔らかな叱咤。


「愚か者め。私と生きるのだ。そなたを連れ去る。異議ないな」

「お計らい通りに、付いて参ります」

「聞いて何だが即答か」

「貴方様以外に誰がわたくしなどを救ってくれましょう」

「そなたの父君」

「……連れ戻しに来たのですか?」

「違う。雪嵐の中、娘を捜す男から預けられた物がある。雪のように白い肌と濡れ羽色の髪の美しい娘と聞いた。ゆえに、そなたの事だな?」


 頬を押されて息が止まった。鼓動が高まり己の温い吐息を気にしてしまう。

 人の顔とは距離が近いとぶれるものらしい。暗がりでしっかと見定めようとする目線は女の苦難を焼き払う強さがあった。


「見ていいか? 中身が気になっている」

「ご随意に……」

「開けさせてもらうな」


 あやすように背を叩く手に羞恥が起こり目を伏せると、囲っていた腕が寛げられる。

 郷愁が舞い込む組紐で封をされた薄い箱。

 受け取るべきか受け取らざるべきか懊悩していると、軽快な音を立てて〝遺品〟が姿を現した。


「ほう、手鏡か──暗いがよく覗いてみよ」

「何をされたいのです?」

「そなたは母君と妹御と瓜二つだそうだ」

「妹は……! 妹の事を、伝え聞いておりますか……?」

「息災だ。まだ見ぬ姉を恋しがっているそうだぞ」


 地から立ち上る炎が雪夜と二人を照らしている。

 女より少々年嵩の男は、憂う指に持ち手を握らせた。


「父君は此れをそなたに届ける術を知らなんだ。追い駆けてはそなたの胸裡が痛みに蝕まれると知っておられた。だがなあ、家族に会いたいだろう?」


 どの面を下げて戻れるものか、置き手紙もなく家を出た子に戻る価値などあるものか。


「資格がありません」

「資格など無用。意気だけだ。私からは詳しくは聞かんが──そうだな、そなたの父君に代わって礼として述べよ」


 俯いた女の顎を掬う男には抗いようがなかった。


「わたくしは、妹を殺めかけてしまいました」

「いつだ」

「五つの頃です……。わたくしの一族は風の担い手。未熟ですと力を制御できません。妹が生まれ、目を開く前……」

「喜び、高ぶったか。善き姉だ」


 頭を撫でられて堪えきれずにまた落ちる涙。

 いいや嫉妬があったのだ、極寒の息吹で苛んでしまった。


「その日の内に家を出ました。祖父の元に身を寄せ、これまで二人で暮らしておりました。……祖父が亡くなり、長らえる意味を考えたのでございます」


 妹から一刻も早く離れなければと伏して詫び、祖父が暮らす小屋に行くと嘘をついて山へ入った。だが、当然のように迎えに来た年老いた祖父によって育てられた。

 母と妹とは十有余年会えずにいる。毎日のように訪れていた父にも終ぞ甘えられず、別れすら告げないまま死を選んだ。


 ──まだ見ぬ海が恋しかった。この世から離れてしまいたかった。


 頑なに枷を嵌め続けた。

 言葉数は少ないが惜しみなく愛情を注いでくれた存在の喪失に心が折れてしまった。


「莫迦者。何故父君に胸の内を打ち明けなんだ。実の親であろう」

「帰れません、帰れません! もしまた同じ事が起こったら……! わたくしは妹が大事なのです、姉なのです……っ!!」


 小さくか弱い命が尽きかけた。母が悲鳴を上げていた。可愛い妹を守らねばと幼いながらに覚悟した。

 最早戻り方など分からない。


「まだ未熟か?」

「祖父や祖父の友人に師事して人並みには扱えます」

「先程のそなたの風は心配りに満ちていた。なあ、私は呆れ返っている。此れを託した父君の悲愴が通じぬか」

「申し訳ございません……」


「善い。意地張りの女も私といれば考えも変わろう」


 家紋があしらわれた手鏡を確かに女に渡して男は堂々宣言した。


「そなたを私の元へ攫っていく。嫌になるまで笑わせてやる。苦労もさせん。いずれ来たるべき時へと導いてやる。必ず家族の元へ帰ろうな」

「貴方様に利があるのでしょうか」

「あるぞ。そなた、未練があるな? 果たしてやりたい。申せ、何を欲している」


 拐かしの示唆も命も年長者の計らいだ。逃げてきた女は視線を交わらせ、血色の戻った唇を開いた。


「お母様に……会いたい……」

 固く封印したものが抉じ開けられ、堰を切ったように溢れてくる。、

「家を出る時母が必ず帰って来るよう言いました。生きるよすがでありました」

「無二の思いだ。忘れとうないな。父君は呼べぬと申された。上塗りされたくないのだな」

「疾うに失われております。わたくしは親不孝者です……!」


 記憶から落ちてしまった愛する母からの呼び名を唯一の希望と抱えてしまった。父にも祖父にも無茶を言い、女は名を呼ばれずに今日まで生を続け、挫けてしまった。


「真の不孝は子が親より早く先立つ事」

「存じております……っ、けれどっ……」


 繰り返し諭された言の葉。ここまで来ても縛られるのが辛かった。


「祖父と……約束をしておりました……。海には行くなと。雪を溶かすなと」


 名を置いてきた女に【深雪(みゆき)】と名付けたのは祖父だ。

 厳しくも温かった祖父は孫娘に決して先に逝ってはならぬと言い聞かせた。


「祖父君への感謝の念もそなたを繋ぎ止めている。よくぞ山に入った。私が盛大に褒めてやろう」


 女──少女は否定したが、再び引き寄せられて脚すらも巻き付けられる。


「離れていかぬよう名を授けるとするか。呼び名がないと不便だろう?」

「いりません……」

「私とそなたも縁で結ばれておるのだろう。何ゆえと聞くではないぞ。恐怖に打ち勝てるよう力を貸す。そなたの居場所になってやりたい」

「憐れんでおいでですか」

「魅入られただけだ」

「ご冗談を……」

「私の目を見てもう一度言えるか?」

「……お赦しください」


 溶けきってしまいそうなほどの焔を宿した瞳に映されている。

 酷く、酷く、羞恥が勝った。


「人の子に名付けをした事はないからなあ。女子の好みもよう分からん」

「あの……貴方様のお名前は……」

煌月(こうげつ)

「煌月…様……。あのっ、一度、離れていただけませんか! 髪を結いたいのです……」

「この組紐でか?」

「風を操る際に結わえるのがしきたりで」

「ならん。これは奪ってやる。そなたが元の名を名乗るまでは我が手中だ。何せ私は悪逆無道の人攫いだからな!」


 華やかな花色は袂に入れられ悲しく眉を下げれば呵呵と笑い、涙の跡を親指で拭う。


「そなたの決断は早そうだ。善かったな」


 射干玉の目を見開く少女とは裏腹に翳る明星、捕らえておきながら手放したがり、名残惜しむ。

 少女も睫毛を伏せ、どこか縋るように抱き込んでいる煌月に身を預けた。

 いつの間にか嘆きの咆哮は止んでいた。


「煌月様。お会いできて嬉しゅうございます。わたくしを見つけてくださった事永久に感謝いたします」

「私と出会えた今を喜ばしく思うてくれるか」

「真の名に誓って」

「私は約束を違えぬ男だ。いずれ別れが訪れる」

「考えたくのうございますね」


 ──先が怖いなど、初めてです……。


 底の見えぬ暗闇に囚われていた心に光が差した。

 女の傷は回復の兆しがあり、次なる不安が刻まれていく。

 家族を取るか、新たな希望を取るか、少女は器用には振る舞えない。


「やはり、愛いなあ……。仮の名で希望するものはあるか?」

「ございません。煌月様より賜りたく存じます」

「では、そなたに相応しいものを一晩考えさせてくれ」

「承知しました」

「立てるか?」

「はい」


 差し伸べられた手で姿勢を正し二人見つめ合うと、不意に抱き上げられて目を丸くする。


「煌月様!?」


 長身の煌月の頭より上に来て、下ろされて、眼差しから熱が伝播する。


「許せ。驚かせてみたかった」

「為してから赦しを請うて否を認めぬのは傲慢です──」

「攫われてくれるな?」

「連れて行ってくださいませ」


 ここから先、分かたれれば二度とは会えぬかもしれない。

 別れるために始まった出会いだ。

 煌月はいつの日にか深雪と名乗りたい少女と額を合わせる。

 夜明けより前、岩屋からは明かりが消えた。人の気配もなくなった。


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