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彼の大きな手

最初は彼の手を怖いと思った。


手だけではない。


実家ナルフィ家がローゲに所有する屋敷のバルコニーで初めて彼に会った時、背が低いテレーズはめいっぱい首を上方へ傾けなければ視線が彼の顔まで届かなかった。それほどまでにヴィクトールは長身だった。今までに見たことがないほど背が高い男性だったということもあって、テレーズは彼に対して驚き、そして恐怖さえ覚えた。


戸惑っていたテレーズの手を彼はつかんだ。大柄な彼の手だけあって、その手はやはり大きかった。


ヴィクトールにそうされた時、テレーズの劣等感がこれ以上なく刺激された。


テレーズは小柄な自分の体がどうしても好きになれなかった。幼く見える丸っこい顔も、子供のそれにしか見えない自分の小さな手も大嫌いだった。


ヴィクトールの大きな手と比べると、やはりテレーズの手は小さかった。認めたくない事実を望んでもいないのに無理矢理再確認させられて、テレーズは怒りと失望で震えた。


そんなことがあったというのに、一体いつからだろう、テレーズは彼に恋をし、そして彼の大きな手のことも大好きになった。


ヴィクトールはいつだってとても優しかった。結婚して3年経った今でも変わらずに優しい。


そして彼の手の感触も優しい。その大きな手で頭を撫でられたり体に触れられたりすると、テレーズは安心する。彼の手の動きはその大きさからは想像しにくいほど細やかで、だからこそテレーズはもっと触れられたいとさえ思ってしまう。


彼と繋いだ手と絡めた指から彼が一瞬力を込めたのが伝わってきて、テレーズの目は自然と密着している自分たちの手へと引き寄せられる。


テレーズの視線の先には、相変わらず小さくて子供のものに見える自分の手と、当然ながら出会ったその日と少しも変わらない彼の大きな大きな手があった。


テレーズの趣味は読書とクラヴサンを弾くことだ。クラヴサンを弾く練習をする時、あるいは演奏家が弾いているところを見る時、ああ……、わたしの手がもっと大きかったらもっとうまく弾けるかもしれないのに……、とテレーズは思ってしまう。


けれど、自分の手、あるいは自分の顔や体に対する嫌悪感はずいぶんと弱くなった。


それはきっと、ヴィクトールが自分を愛してくれたからだとテレーズは思う。


大きな手に対する憧れの気持ちは消えはしないけれど、そんなことは重要ではない。こうして彼と手を繋ぎ、触れ合っていることがとても嬉しい。許されるのならば明日も、明後日も、ずっとその先も、こんなふうに彼に、彼の手に触れたい。彼に触れられたい。


心の奥から柔らかいけれど強い気持ちがどんどん溢れ、そのせいでテレーズの胸は切なく締めつけられる。


「今じゃなくていいから、いつか君が『復活の息吹』を弾く時にはぜひ聞きたいな」


ヴィクトールが言葉を発したため、テレーズの意識は自分たちの手から離れた。


「はい……。早く弾けるようになりたいと思うのですが……」


確かにそう思うのに、先ほど楽譜を読み込もうとした時、テレーズは昨日の師クラリスの演奏を思い出し、同時にいろいろな感情が胸の中を去来して、うまく集中できなかった。


「急ぐ必要なんてないよ」


テレーズはよく自分自身を否定したり卑下したりしてしまう。それなのにヴィクトールはテレーズを肯定したり擁護するようなことを言ってくれたりする。


それが嬉しい。とてもありがたいことだとテレーズは思う。


だから彼女は無意識のうちにヴィクトールに甘えてしまう。彼が帰る前に一人きりでいた時に思ったことを自分の内部に留めておくことができず、それを吐露してしまった。


「………いろいろ考えてしまって………。わたし、レオンスさんには一度しか会えなかったから………。一度だけでも会えたのだから、幸運だったとは思うのですが……。でも、もっと会ってお話を聞きたかったなって思って………。それぞれの作品にどんな思いを込めたのかとか、何を表現したかったのかとか、訊いてみたかったです………」


テレーズは自分の思考を言語化するのがあまり得意ではない。考えながら話すから、話し方も自然とゆっくりになる。


ヴィクトールは彼女が言葉を紡いでいる間中ずっと彼の親指を動かし、テレーズの親指のつめを撫でた。


その感触にテレーズは何だかほっとする。


「一度しか彼に会えなかったことは残念だったけれど、けれどその一度で君は彼に作曲したいと思わせたんだよ。それってすごいことなんじゃないかな?」


テレーズがレオンスに会った時、彼は自らを『落ち目』と表現していた。すっかり作曲家としての自信を失っていたようだ。


それを聞いた彼女はレオンスに伝えた、『わたしはあなたの曲が大好きですっ!!』と。何としてでも自分が彼の作品を好きだということが伝わってほしくて、テレーズは必死だった。


するとレオンスは笑みを浮かべ、こう言ったのだ。


『そんな嬉しい言葉をかけていただいたら、もう少しがんばろうと思ってしまうよ』


『では、新しい曲ができたら、またあなたに聞いていただきたいな。それを心の支えに、作曲したいと思う』


そして彼はその言葉どおり、病と戦いながら最後の作品『復活の息吹』を完成させたのだった。


レオンスの照れくさそうな微笑み。自分の言葉が誰かを励ます力を持つと知った時の感動。昨日クラリスから楽譜を渡された時の衝撃。そしてテレーズが大泣きしてしまった師クラリスの演奏。


一連の記憶や感情がテレーズに押し寄せ、彼女はすぐに情報の洪水に呑まれそうになる。


しかし今日の彼女はからくも踏み留まった。ヴィクトールと繋いでいる手から伝わってくる彼のぬくもりのおかげで、彼女は最低限の冷静さを何とか保つことができた。


そしてテレーズはヴィクトールが先ほど自分にかけてくれた言葉を頭の中で反芻した。


自分の思考のくせを変えたいと思うようにはなったけれど、ずっと自分に自信がない状態で生きてきたテレーズだったから、やはりすぐにはヴィクトールが言ってくれたように肯定的に考えることはできない。


彼への尊敬の念と彼と一緒にいられることの幸福感が一気にわっと彼女の胸に押し寄せたから、ここのところ感情が揺さぶられることが多かったテレーズの涙腺はすぐにゆるみ、熱い涙が次々に彼女の頬をすべり落ちた。


泣いてしまったことが少々照れくさかったこともあって、テレーズは涙に濡れた顔をヴィクトールの胸板に押しつけた。


けれどそれで終わらなかった。彼女は胸に浮かんだ想いをどうしても言葉にしたかった。それをヴィクトールに伝えなければならないと思った。


「ヴィクトールさまと結婚できて、よかった………‼︎」


自分の本音を何とか言葉として発した時、テレーズのくちびるは震えた。だから彼女の声も同じく震えた。


頼りない自分の声を聞いた時、テレーズはもっと落ち着いた声調で言いたかったと思わないではなかった。


それでも、安堵した。完璧ではなかったけれど、自分の気持ちを言葉として表現することができたからだ。


するとすぐにヴィクトールはテレーズと繋いでいる彼の左手と指に、そして彼女の背中を横断している彼の右腕にも力を込めた。それを感じたテレーズは自分の気持ちが無事に彼に届いたのだと解釈し、さらにほっとした。


「そんなふうに思ってもらえて光栄だけれど……」


そう言ったヴィクトールの声は明るかったものの、何か続きがありそうだったから、自然とテレーズの顔や目線が持ち上がった。


目が合った瞬間、ヴィクトールは悪戯を思いついた少年のような顔をしてにやりと笑い、


「ヴィクトールと呼んでくれたら完璧だったのに」


と続けた。


そうだった。精神的余裕がなかったため、ついヴィクトールの名前を彼が望むように呼び捨てにせずに呼んでしまった。


テレーズは思わず噴き出した。すると彼のほうもふっと笑った。


笑いが落ち着くと、ヴィクトールはテレーズの鼻の頭にくちびるを押し当てた。


促されるようにテレーズが顔を少し上げたところ、彼は今度はテレーズのくちびるに彼のそれを重ねた。


ヴィクトールにそうしてほしかったから、テレーズは幸せだった。


彼のくちびるが離れた後でテレーズは彼と繋いだままの手を引き寄せた。そして一度彼の手をほどき、両手で彼の左手を包み込んだ。


あなたとともにいられることがとても幸せだから、これからもあなたと一緒にいたい。


そんな気持ちを込めて、テレーズは彼の大きな掌にくちびるを押し当てた、わたしはこの手が大好き……、と心の中で呟きながら。


ムーンライトノベルズのほうで続きを公開しています。18歳以上の方で続きを読んで下さる方は、お手数ですが私のムーンライトノベルズのページのほうへ移動して下さい。

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