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彼女の小さな手

以前ムーンライトノベルズのほうに投稿した『寂しい月』、『優しい鎖』の続きの、ヴィクトールとテレーズの小話です。先にこの二つの話を読む必要があります。(年齢制限がありますのでご注意下さい。)

初めて彼女の手に触れ、そしてそれを見た時、かわいいな、とヴィクトールは思った。


小柄なテレーズから連想されるとおりの小さな手。大きくない掌に似合いの細い、けれどすらりと伸びた指。


自分のような大男にふさわしい表現ではないのかもしれないが、ヴィクトールが彼女の手を見たり触ったりする時、彼の胸はきゅんとする。


だが、それだけではなかった。テレーズの小さな手が持つ魅力は、ただかわいらしいというだけではなかったのだ。


テレーズと結婚した後でヴィクトールが初めて彼女がクラヴサンを弾くところを見た時、彼の胸はきゅんきゅんと忙しく収縮し、彼の背中にぞくりと快い震えが走った。


ヴィクトールは何度も演奏家たちの指使いを見たことがある。彼ら、あるいは彼女らの指の動きは素早く、堂々としており、迷いがない。ヴィクトールは安心して彼らのその危なげのない指運びを眺め、そうすると同時に彼らが生み出す音楽を耳で楽しむ。


一方、テレーズがクラヴサンを弾く時は少し違う。


ヴィクトールは彼女がクラヴサンを弾くのを見るのがたまらなく好きだ。


テレーズが奏でる音はまるで彼女そのものみたいに丸っこくて柔らかいから、それを聞くとヴィクトールは優しい気持ちになれる。


けれど、それだけではない。


クラヴサンの鍵盤の上をあっちへこっちへと動き回る彼女の手の動きはこの上なくかわいらしいのだ。それを見ていると、あどけなさが残る子猫とか子犬がちょこちょことあちこちを駆け回っている映像がヴィクトールの頭に勝手に浮かんでくる。そして彼の口角が自然に持ち上がる。


テレーズが演奏中にヴィクトールを見ることはまずないが、対照的にヴィクトールは彼女を見つめる。目線を向ける先は彼女の顔だったり、鍵盤を行き交う彼女の両手だったりとその時によって変わるが、とにかくヴィクトールは彼女の弾く姿に視線を注ぎ続ける。


テレーズはどうやら間違えることを恐れているらしく、間違えないで弾くことに一番気を配っているようだ。


だから曲の中で彼女が苦手意識を抱いている部分や複雑な運指をしなければならない部分になると、テレーズは一音一音しっかりと確認するように慎重に指を動かすから、途端に曲のテンポが遅くなる。


そんな時にテレーズの表情を盗み見ると、彼女はわずかに眉間にしわを寄せ、顔に不安や心配を浮かべている。そんな彼女の一生懸命な表情は、今すぐに彼女に駆け寄ってそのまま抱きしめたいとヴィクトールに思わせるほどに愛らしい。


そのまま無事に難所を通過する時は、テレーズは弾き続けながらあからさまにほっとし、安堵によって彼女の顔をさっきまで支配していた緊張がゆるむ。ふわりと微笑む彼女がこれまたかわいらしいのだ。


そして曲のテンポはまた元に戻り、曲は何事もなかったかのように続いていく。


逆に弾き間違えてしまうと、テレーズは気まずそうにぱちぱちと瞬きを繰り返す。首をすくめたりもする。これ以上間違えまいと余計に気を張るのだろう、彼女の指の動きは少々ぎこちなくなるのだが、どこかびくびくしながら恐る恐る慎重に鍵盤を叩く様子がまるでいたいけな小動物のようで、ヴィクトールの心はかえって惹きつけられてしまう。


ごくごくたまになのだが、テレーズがヴィクトールの存在を忘れるほどにクラヴサンを弾くことに没頭する時もある。彼女の指は少しも淀みなく流れる清流のようになめらかに鍵盤の上をすべる。時には目当ての鍵盤めがけて大胆に手を動かす。ヴィクトールには彼女の細い指が飛び跳ねているように見え、彼は妻の手の躍動的な動きに驚かされる。


そんな時の彼女は幸せそうだ。普段は自信なさげにしていることが多いテレーズなのに、まるで別人のように安心しきった子供のような表情になる。音もいつもよりのびのびとしている。


ヴィクトールは楽器を演奏することができないから、テレーズに限らず演奏家が演奏しているところを見ると、よくもまあ手をこんなに早く、しかも左右別々に動かせるな、と感心してしまうのだが、こういったテレーズの姿を目にする機会に恵まれる時には、彼は妻に対して尊敬の念さえ抱く。テレーズの手は小さいから、同時に複数の、それも離れた鍵盤を押さなければならない場合には大変に違いないのに、その指運びは軽やかで、そんな苦労を感じさせない。


とにかく、ヴィクトールはテレーズがクラヴサンを弾いている時にはその音だけでなく彼女の様子にも癒される。


だから彼は、仕事から帰ってテレーズの部屋を目指して廊下を歩いているところなのだけれども、彼女がクラヴサンを弾いていることを願った。


ヴィクトールがテレーズの部屋のドアの前に立った時、内部から音がしなかったため、彼は少々落胆した。


彼女がクラヴサンを弾いていれば、その音がヴィクトールが今立っている廊下までもれ出てくる。それがないということは、彼女はクラヴサンを弾いていないのだ。


恐らく読書でもしているのだろう。あるいは昼寝中なのかもしれない。


そんなふうに推測しつつ、ヴィクトールは目の前のドアを軽く二度叩いた。


「はい……」


というテレーズの声がしたから、ヴィクトールはドアを開けた。


「ただいま、テレーズ」


てっきりソファに座って本でも読んでいるかと思ったのに、意外なことにテレーズはクラヴサンの前の椅子に座っていた。帰宅したヴィクトールの姿を見て、彼女は慌てて立ち上がった。


「お帰りなさいませ……」


「ただいま」


ヴィクトールは大股の早歩きでさっとテレーズとの距離を縮め、彼女を抱きしめてから身を屈め、彼女の額にくちづけた。


テレーズはためらいがちにではあったが両腕をヴィクトールの銅へと回し、彼女のほうからも彼に身を寄せた。


例の脱走事件の後、テレーズは変化した。今まで彼女のほうから積極的にヴィクトールに触れることはほとんどなかったのだが、テレーズがヴィクトールに手を伸ばしたり触れたりする頻度が増したのだ。それだけでなく、ヴィクトールと目を合わせたり微笑んだりすることも多くなった、相変わらず恥ずかしそうにしているのは変わらないけれども。


彼女との心の距離が今までで一番縮まっていることを実感できるから、ヴィクトールにとっては喜ばしい変化だった。


テレーズの体を一瞬ぎゅっときつく抱きしめた後で、ヴィクトールは彼女の体に回していた両腕の力をゆるめた。


そして彼女にくちづけるために上半身を屈めると、テレーズは恐らく身長差のある自分たちの距離を少しでも縮めたかったのだろう、踵を浮かせ、そのせいで不安定になった体勢を安定させるためによりいっそうヴィクトールに抱きついた。


自分の体に感じる彼女の柔らかい重みにヴィクトールの心は温かくなる。


ヴィクトールはテレーズが倒れたりしないよう彼女の体を支えつつ、愛妻のくちびるをしっかりと塞いだ。


そうしてからヴィクトールは上半身を起こし、その時に何気なく自分が彼女に贈ったクラヴサンに目を向けた。


クラヴサンの譜面台には数枚の楽譜が広げられていた。


けれど音がしなかったわけだから、テレーズはこの曲を弾いていたわけではなかった。


ということは、きっと楽譜を読み込んでいたのだろう。


ヴィクトールがそんなことを考えていた間に彼の目は譜面台の一番左にあった紙に書かれていた文言をとらえた。


『この曲を、常に私を支えてくれた家族、友人、そして私にこの曲に取り組む勇気を与えてくれたさる貴婦人に捧ぐ』


それが昨日この屋敷を訪ねてきたテレーズのクラヴサンの師クラリス・トゥルブレの亡き夫レオンスが書いたものだということをヴィクトールはすぐに思い出した。


ということは、テレーズは昨日クラリスから手渡されたばかりのレオンスの最後の作品に取り組もうとしていたのだろう。


「レオンスの遺作を弾こうとしていたのかい?」


ヴィクトールが問うと、彼の腕の中のテレーズはためらいがちにうなずいた。


「はい……、練習しようと思って…………。でも…………」


彼女の言葉はそこで途切れてしまった。


が、ヴィクトールには何となく続きが想像できた。きっと胸がいっぱいになってしまったとか、ひどく感傷的になってしまったとかで、実際に弾くまでには至らなかったのだろう。


レオンスはこの作品をテレーズに献呈した。師クラリス経由で楽譜を託されたテレーズにとっては、ただの曲ではない。特別な曲になったはずだ。


楽譜を前にしたら自然と亡くなったレオンスのことを思い浮かべたりクラリスの心情を想像したりしてしまうだろう。ヴィクトールはテレーズの反応が理解できた。


ヴィクトールだってレオンスとの友情を築いてきた。だからレオンスの死を悼んでいるのはヴィクトールも同じだ。


ヴィクトールはテレーズを部屋の隅に置かれているソファへと導いた。彼女の心を慰めるだけでなく、レオンスを追悼する気持ちを彼女と共有したかった。


彼はまず自分がソファに座り、その後でテレーズを引き寄せ、彼女を横向きにして自分のひざの上に座らせた。


その際、右腕をテレーズの背中に回して彼女の体を支えつつ、左手で彼女の右手をつかまえた。


急ぐ必要はない。焦らなくていい。ゆっくりとレオンスが遺した楽譜と向き合い、そして心いくまで自分自身と向き合って、いつかレオンスの最後の作品『復活の息吹』を弾いてほしい。いつになってもいいから、聞かせてほしい。


そんなことを思いながら、ヴィクトールは彼を癒す音をこの世に生み出す彼女の細い指と自分のそれとをゆっくりと絡めた。



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