第6話 楽しんでもらえるように
もう日をまたいでいるほど遅い時間だと言うのに、ダイニングの席に座って暗い表情で俯いているイーサンとカミラ。互いに何かを話している様子はなく、二人ともただ机の一点を見つめているだけだ。
ただならぬ二人の様子を見て不安になったニーナは、考えるよりも早くダイニングに入って二人に呼びかけていた。
「お父様、お母様……」
「ニーナ。マノンの体調はどう?」
ニーナが呼びかけると二人は顔を上げ、目を伏せるイーサンの横でカミラが尋ねてきた。カミラの問いかけに、ニーナは先ほどのマノンの様子を思い出しながら答える。
「さっきはぐっすり眠っていましたわ。昼間も様子を見に行きましたけど、特に目立った不調は見られませんでした」
「そう……それなら安心ね」
言葉とは裏腹に、カミラの表情は暗いままだ。
確かに、本当に不調がないかどうかはマノン本人にしか分からない。ニーナたちに気を遣って、マノンが元気に振る舞っていた可能性も考えられる。
ニーナが見たことが必ずしも真実とは限らない。それでも、先ほど見た可愛らしい寝顔には不調の色は現れていなかった。
自分の直感を信じたい。ニーナがそう思っていると、
「声をかけずにそっと見守るべきだった。私たちに見られていると分かれば、緊張して無理をするのは当たり前なのに。考えれば分かることを……。マノンに無理をさせてしまったな」
「ええ、明日からも稽古はするのですから、今日絶対見なくてもよかったですのに。あのような言い方では、マノンが気を遣うのも無理ないわ……」
呻くように言うイーサンに同意するように頷くカミラ。
特にカミラは稽古が終わったことを知って「せっかくなら見たかった」と素直な気持ちを言ってくれていた。勿論、ニーナにはそれが素直に嬉しかった。だが、カミラ自身は自分の言葉がマノンを無理させた原因だと思っているのだろう。
それはイーサンも同じようだ。
稽古の初日というだけでも緊張していたはずのマノンに、自分たちが様子を見に来たことでさらに緊張させてしまったと思っているのだろう。
見るからに罪悪感を感じている二人に、ニーナは精一杯のフォローの言葉をかけた。
「マノンはマノンなりに、お父様とお母様に稽古の様子をいち早く見てほしかったのだと思います。お父様とお母様が責任を感じることではありません」
「そうだといいのだけど。……また、途中で辞退されたら、どうしましょう」
何気なく吐かれたカミラの言葉を聞いて、ニーナの背筋がゾッと凍った。そんなニーナの様子を知る由もなくカミラは続ける。
「せっかく、新しい侍女が来てくれて、ニーナの剣術の稽古を再開できるはずでしたのに……」
確かに、カミラの言う通りだ。ニーナは二年前、一年前にも剣士協会から派遣された第二剣士に、侍女として剣術の稽古をつけてもらった。だが、どちらの剣士も途中で辞表を出し、ニーナから離れていったのだ。
その理由を考えるだけで、ニーナの胸が痛くなる。
その胸の痛さを隠すため、ニーナは声を張り上げた。
「だ、大丈夫ですわ、お母様! マノンはそんなことで辞めるほどヤワじゃないですもの!」
「ともかく、続けるか否かを決めるのはマノン自身だ。私たちは少しでもマノンが暮らしやすいように今まで通り接し続ける。それ以外に何かをするのは無謀というものだ」
ニーナとカミラを嗜めるように、イーサンが厳かに告げる。
マノンは一度倒れただけで侍女の途中辞退を申し出るような人ではない。
半分ムキになって言ってしまったが、イーサンの言う通り、タリス家で侍女を続けるかどうかを決めるのはマノン自身である。
来てもらったばかりで、これから仲良くなれると思っていた人が目の前からいなくなるのを経験するのはもうたくさんだ。
マノンに、タリス家での生活を少しでも楽しいと思ってもらえれば、マノンが途中辞退を考えるようなことにはならないだろう。
「少しでも、マノンに楽しんでもらえるような気分転換を考えますわ、お父様」
ニーナはイーサンの言葉に頷きつつ、そう宣言したのだった。
* * *
次の日の朝。マノンはいつもより早く目覚めた後に侍女の衣装に着替え、ニーナを起こすため、彼女の部屋に向かった。
昨日の侍女としての失態はマノンの胸にも後悔の念として棘のように刺さっている。名誉挽回を図るべく、いつもよりも早起きをして、ニーナを起こしに行こうと考えたのだ。
二日目は寝坊してニーナに起こしてもらったが、今日は計画通りに起きることができた。マノンは心の中でガッツポーズをしつつ、廊下を歩いていく。
「おはようございます、お嬢様」
ニーナの部屋のドアをノックして声をかけると、部屋の中からドタバタと物音が響いてきた。まるで誰かが部屋の中を走り回っているような音だ。
「お、お嬢様!!」
ニーナの身に何かあったのかもしれない。マノンははやる思いで勢いよくドアを開けた。
「お嬢様! 大丈夫です――」
「ま、マノン……」
最後まで言わず、マノンは目の前の光景を見て絶句してしまう。
部屋の中では、綺麗なドレスを抱え込んだ下着姿のニーナが、頬を赤らめて恥ずかしそうにマノンを見ていた。
「も、申し訳ありません!!」
顔が熱くなるのを感じながら、マノンはこれまた勢いよくドアを閉めた。
バクバクと脈打つ胸を押さえ、今さっき閉めたドアの前で深呼吸をする。ニーナの身に何もなかったことは安心すべきことだが、それよりもニーナの下着姿を見てしまったことがマノンの気を動転させていた。
ニーナだって、いくらマノンが同性でも下着姿を他者に見られるのは心底嫌だったに違いない。
昨日の失態の名誉挽回をするどころか、また失態を犯してしまった。その後悔でマノンの頭は埋め尽くされた。
数分後、やっと部屋から出てきたニーナは、思わず息を呑むほど美しいドレス姿をしていた。
「お嬢様……!」
「どうですか? マノン」
「と、とても、お似合いです……」
ニーナともう一度顔を合わせたらすぐに謝罪しよう。そう思っていたのも忘れて見惚れてしまうマノン。
ニーナは心の底から安堵したように「よかったですわ」と顔を綻ばせた。
それにしても、どうして今日はまた一段と綺麗なドレスを着ているのだろう。
マノンが不思議に思っていると、ニーナが顔を赤らめながら口を開いた。
「実は、マノンと一緒に買い物に行きたいと思いまして、綺麗な服装をする予定でしたの。マノンに起こしてもらうよりも早く起きて身支度を整えるつもりで……。でも、寝坊してしまいましたわ……!」
「そうだったのですね……」
悔しそうに肩を落とし、握り拳を振るわせていたニーナは、弱気な気持ちを払拭するように強く首を横に振って、
「うう、メソメソしていても仕方ないですわ! 切り替えていきますわよ! マノン!」
「は、はい!」
反射的に返事をしたマノンに、ニーナの手が差し出される。
「わたくしと、町へ買い物に行ってくれませんか?」
思えば、タリス家に来てから一度も町を見て回ったことはなかった。せいぜいタリス家に向かうまでの道中でこの町の風景を眺めたくらいだ。
初めて町に出るのがニーナと一緒だなんて、何だかとても嬉しく感じる。
思わず頬がだらしなく緩んでしまうのを堪え、平静を装う。
昨日倒れてしまったこと、今朝ニーナの下着姿を意図せず見てしまったこと。失態に失態を重ねてしまっているマノンは、何とかしてここで負の連鎖を断ち切らなくてはいけない。
「勿論です。お嬢様のためなら、どこへでもお供いたします」
マノンは侍女としての威厳を保つべく姿勢を正し、差し出されたニーナの手を優しく握り返したのだった。