第5話 魔法の師匠
離れ家から大邸宅に帰り、シャワーで汗を流した後、マノンは自分の部屋に戻って窓に侍女用の衣装をかけた。
カバンからもう一着の衣装を取り出して着替えていると、コンコンとドアをノックする音がした。
「はい」
「マノン、わたくしですわ。少しよろしいですか?」
ドアの向こうから聞こえてきたのはニーナの声だ。
「お嬢様……。はい、どうぞ」
「マノン、着替え用の服は――その衣装、もう一着ありましたのね。よかったですわ」
ニーナの腕には衣服がかけられている。マノンが着替えを持っていないかもしれないと思い、自分のものを持ってきてくれたのだろう。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
マノンが礼を言うと、ニーナは首を横に振って、
「体調はいかがですか? 気分が悪いなどあれば、遠慮なく言ってくださいな」
「も、申し訳ありません……! まさか、あんなことになってしまうとは思わなくて……。本当なら、わたしがお嬢様のお休みをお手伝いしないといけないのに……!」
これでは、どっちが主人でどっちが侍女か分からない。
ニーナは人生で初めて剣術の稽古を終えたのだ。きっとマノンの何十倍も何百倍も疲弊しているに違いない。
そんな時に、侍女としてニーナの疲れを癒すのがマノンの責務だ。剣術の師匠として、初日の感想なども言うべきだっただろう。
それも全てすっ飛ばして、主人のニーナが侍女であるマノンの心配をしてくれている。その事実が、マノンにはとても心苦しかった。
「まぁ、日光で乾かそうとしてますの?」
「えっ……? あ、はい……」
ふとニーナにそう尋ねられたマノンは、ニーナの視線の先を振り向いて頷いた。マノンの背後の窓辺にかけられている侍女用の衣装がニーナの目に入ったのだろう。
「それよりももっと効率的な乾かし方がありますわよ」
茶目っ気たっぷりにウインクをすると、ニーナは掌に炎の玉を出現させた。
――こ、これって、無詠唱魔法……!?
目を丸くして、炎の玉に釘付けになっているマノンを微笑ましそうに眺めながら、ニーナはマノンの衣装に炎魔法を近づけた。
ニーナは詠唱魔法だけでなく、無詠唱魔法まで使えたのだ。この町で無詠唱魔法を使える魔法使いはごくわずかだ。ニーナの魔法の実力が高いと言われている理由が、マノンにははっきりと分かった。
「こうして炎魔法で乾かすと、すぐに乾きますわ」
「ありがとうございます。やっぱり、すごく便利ですね」
「少なくとも、日光で長い時間をかけるよりは幾分かいいですわね」
ニーナはおかしそうに苦笑した後で、不意に真面目な表情でマノンを見つめてきた。
「余計なお世話でしたら申し訳ありませんけど……。マノンは、魔法を習得したいとは思いませんの?」
「魔法を使えるようになるならやってみたい気持ちはあります。でも、わたしにできるかどうか……」
マノンが目を伏せると、ニーナは握り拳を掲げて、
「大丈夫ですわ、マノンならきっと魔法を使えるようになります」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「それは勿論、わたくしがマノンの魔法の師匠になるからですわ!」
「えっ……!? お嬢様が、ですか!?」
マノンは驚きのあまり思わず大声で聞き返してしまった。剣術を教えるためにタリス家に来たマノンが、その家で魔法を教えてもらっていいのだろうか。
「ええ。……もしかして、余計なお世話でした?」
「い、いえいえ、そんな! とんでもないです……。お嬢様に魔法を教えていただけるなら、願ってもないことです」
「それなら、決まりですわね! 本日から、わたくしがマノンの魔法の師匠ですわ!」
マノンが慌てて首を振ると、ニーナは自信たっぷりに宣言した。
* * *
「魔法、かぁ……」
その日の夜、部屋でベッドに仰向けになり、マノンは独りごちた。
今まで生きてきた十七年の人生で、魔法への憧れが全くなかったといえば嘘になる。
魔法が使えたら、日常生活はもっと便利になるだろう。剣術だけでなく魔法も使える剣士として、剣士協会の中でも重宝されるかもしれない。勿論、マノンはそんなことなどこれっぽっちも望んでいない。
だが、この町で剣術と魔法の両方を極めている者はゼロに等しいのだから、扱いも慎重で丁寧なものになるであろうことは、容易に想像がつく。
「でも、本当に、わたしにできるのかな……」
久しぶりの剣術でさえ倒れてしまったマノンに、魔法まで使いこなすことが果たしてできるのだろうか。
剣士協会で稽古を続けていた時のマノンなら、頑張ってみようと素直に思えたかもしれない。
だが、体力も剣術の腕も明らかに落ちてしまった今のマノンに、そんな自信は全くない。
――いいか、マノン。確かにお前の剣術は素晴らしいものだ。だが、人に教えながらの稽古は通常の稽古の何倍も激しく体力を消耗する。タリス家で剣術の稽古をする時は「まだ大丈夫だ」と考えるのはやめろ。少しでもしんどくなったら、絶対に休め。いいな?
「セラ先輩に、言われてたのに……」
今更ながら先輩剣士からの言いつけを思い出し、やめるように言われていた考え方を放棄できていなかった自分自身が、マノンは許せなかった。おまけにニーナやタリス夫妻にまで迷惑をかけてしまったのだから本末転倒だ。
そんな自分が、新たに魔法をニーナから教わって、本当にいいのか。
マノンの胸に迷いが生じた。
――タリス家にはいらないよ、剣術なんて。
前に、ニーナの兄・ジークから言われた言葉が脳裏をよぎる。
ニーナは気にすることはないと言ってくれたが、あれ以来ずっとマノンの心に引っかかって離れない言葉だ。
剣術が要らないものではないことを証明しようにも、今日のような体たらくではジークの言葉の方が正しいと言わざるを得ない状態になってしまう。
もっとマノン自身が強くなって、ジークの言葉を堂々と否定できるようにならなくては。そして、同時にニーナの侍女としての責務をもっと果たさなくては、
そんなことを考えながら、気づけばマノンは深い眠りに落ちていた。
* * *
その頃、ニーナはベッドの上で目を開けた。マノンよりも早く就寝準備はしていたものの、今日のマノンのことが気になって何度も目が覚めてしまうのだ。今目覚めたのも、三回目である。
不安になっていても仕方ない。直接マノンのところに行って、確かめた方が早いのは確実だ。
ニーナはベッドから起き上がって部屋を出ると、マノンの部屋に向かった。
部屋の前に着き、小さく深呼吸をしてからドアをノックする。
「マノン、夜分に申し訳ありません」
――やっぱり、もう寝ているわよね……?
そう思いながらも、ニーナはそっとマノンの部屋のドアを開け、中に入った。
マノンの体調があまりにも心配で、この目でマノンの無事をしっかりと確認しておきたかったのだ。
無詠唱魔法で掌に小さな炎の玉を生み出し、それを明かり代わりに灯す。
炎の玉に照らされたマノンは、すぅすぅと寝息を立てて眠っていた。
昼間、倒れた直前のように顔色も悪くなさそうだ。ニーナはホッと胸を撫で下ろし、マノンの部屋を後にした。
そのまま自分の部屋に行き、寝ようと思ったニーナは、ふと一階がまだ明るいことに気づいた。
両親の就寝はニーナより遅いものの、日を跨ぐような時間まで起きていることはほとんどない。
不思議に思ったニーナが一階に降りてダイニングに行くと、いつもの席にイーサンとカミラが座っていた。二人とも、ニーナが今まで見たこともないほど暗い表情で俯いていた。
明かりがついているはずのダイニングに、重い空気が漂っていた。