第3話 芽生えた不安
――こ、これって……マズかったんじゃ……!?
つい先ほど気合を入れたにもかかわらず、マノンはもう思考をぐるぐると巡らせていた。
正確には、窓辺に干していた侍女用の衣装に着替え、鏡で自分の侍女姿を見た時に、ハッとしたのだ。
鏡には、濃い青色の髪を顎の先まで切り揃え、華奢な身体をわなわなと震わせている自分の姿が写っている。どこからどう見たって、侍女用の衣装は不釣り合いだ。
だが、マノンはそれよりも別のことに危機感を覚えていた。
――お嬢様に、起こしていただいちゃった……!
侍女たるもの、自分の主人よりも早い時間に起床して身支度を済ませ、自分の主人の起床時間に合わせてお越しにいくものだ。剣士協会で先輩剣士に散々言われたというのに、マノンはすっかり眠りかけてしまったのだ。
弾かれたように部屋を飛び出し、マノンはまだ着慣れない衣装を揺らして一階のダイニングへと走った。
「も、申し訳ありません…!!」
ダイニングフロアに入るや否や、頭を深く下げる。
きっと次に飛んでくるのはタリス家の者からの怒りの声だ。ニーナの父・イーサンだろうか、母のカミラだろうか、雇われたメイドたちだろうか、もはや全員かもしれない。
そんなことを高速で考えていると、
「マノン、おはようございます。ずいぶん早かったですわね」
もぐもぐと口を動かしておかずを食べながら、ニーナが驚いたように、けれどのんびりとした口調で言った。
「朝食に呼ばれてから五分と経たずに準備を済ませる。侍女として素晴らしい心がけだ」
「もう少しゆっくりでもよかったのに、真面目な方ね」
感心したように頷くイーサンの横で、カミラが口元に手を当てて穏やかに微笑んでいる。
「…………え?」
周りに立つメイドたちさえ、マノンを怒る気配はない。
マノンは面食らってしまった。てっきりニーナに起こさせるなんて、とか、寝坊するなんて、とか、何かしら説教を受けると思っていたのに。
「どうしましたの? 早くお座りなさい。せっかくの美味しいご飯が冷めてしまいますわ」
「は、はい、失礼しました……!」
ニーナに促され、マノンは慌ててニーナの横に着席した。
テーブルに並べてあるのは、栄養をしっかり考えてあると一目で分かる色とりどりの食材だった。
表面のバターがこんがりと焼けたパンに添えられているのは、みずみずしい緑色や赤色の野菜の数々。
あまりにも美味しそうな朝食にマノンが見とれていると、正面の席からクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
ビクッと肩をすくめたマノンが正面を見ると、マノンの正面の席には一人の男性が座っていた。短い茶髪をところどころ跳ねさせつつ、しっかりまとめてセットしている。
「ふふふ、君、面白いね」
海のように真っ青な瞳が細くなり、親しみやすい笑顔を作る。
「も、申し訳ありません……!」
誰一人として、マノンの行動に否定的な意見を持つ人はいない。
だけど、そんなみんなの寛容な言動にどう反応すればいいのか分からず、マノンはただ頭を下げることしかできなかった。
* * *
朝食後、二人で廊下を歩いている途中で、マノンは思わずため息をついた。
朝は寝坊してニーナに起こしてもらったし、朝食の時も誰もマノンを怒らないことに面食らってしばらく棒立ちになってしまった。それに、初対面の男性にまで笑われてしまった。
起きてたった三十分ほどしか経っていないのに、もう反省することばかりだ。
――侍女として、もっとしっかりしないと……!
それにしても、朝食の時にマノンの正面に座っていた茶髪の男性は一体誰なのだろう。
マノンがタリス家に来た初日は、ニーナ、イーサンとカミラ夫妻の三人しか挨拶しておらず、あの男性の姿は見ていなかった気がする。
大勢いるメイドのうちの一人ならば、見逃していたり記憶に残っていなかったりといった理由で初対面だと勘違いしてしまうこともあるだろうが、あれほどイーサンに似て体つきのがっしりした男性を忘れるはずがない。
ということは、あの男性は初日に出会わなかった人ということだ。
「あの、お嬢様」
「どうしましたの? マノン」
マノンよりも少し先を歩いていたニーナは、マノンに声をかけられて後ろを振り返った。
「お食事の席にいらしていた殿方は、どなたなのですか?」
「殿方……? ああ、お兄様のことですわね」
「ニーナ様、お兄様がいらっしゃったのですね」
マノンはあの男性――ニーナの兄の姿を思い出していた。体つきや顔つきはイーサンに似ているものの、優しそうな笑顔や澄んだ瞳、スラっとした長い手足はカミラそっくりだ。
何より、笑った時の表情がニーナを彷彿とさせ、やはりあの男性もニーナと同じタリス家の人間なのだと納得できる。
「ええ。お兄様は魔法協会の仕事で忙しいから、久しぶりにお会いしたけれど」
「魔法協会、ですか……?」
「やあ、ニーナ。二日ぶりだね」
マノンが魔法協会について詳しく聞こうと口を開きかけた時、後ろから男性の声がした。
マノンよりも後ろに視線を移したニーナの表情が、パァッと明るくなる。
「お兄様!」
「こちらが噂の新しい侍女さんかい?」
軽く手を振りながら歩いてきた男性は、マノンを手で指し示してきた。
そういえば、軽く喋った――正確には「面白いね」と笑われただけで、しっかりと挨拶をしていなかった。
マノンは慌てて身なりと姿勢を整え、侍女としてのお辞儀をした。
「初めまして。剣士協会所属、第二剣士、マノン・スワードと申します」
「僕はジーク・タリス。ニーナの兄で魔法協会会長の助手をやっているよ。よろしくね、マノンちゃん」
「は、はい……! よろしくお願いいたします」
マノンやニーナよりも背が高いジークを見上げ、マノンはもう一度頭を下げる。
そんなマノンに、ジークは質問を投げかけてきた。
「マノンちゃんは、どうしてうちに来たんだい?」
「ニーナお嬢様に剣術を教えるため、です」
マノンがタリス家に来た理由――イーサンとカミラ夫妻から依頼があったことを、同じ家族であるジークは知らなかったのだろうか。確かに、ニーナが言うように魔法協会の助手としての勤務が忙しいのであれば、仕方ないのかもしれない。ずっと家に帰っていない可能性だってある。
「そうか、剣術を。またお父様とお母様が余計なお節介を焼いたのか」
「え、えっと…………」
「タリス家にはいらないよ、剣術なんて」
じゃあね、と軽く手を振って青い瞳を細め、ジークは去っていった。
振り向きざまのその瞳には、光が灯っていなかったように、マノンには見えた。
マノンが不安になっていると、その横でニーナが憤慨したように腰に両手を当てた。
「全くもう、お兄様ったら。せっかく久しぶりにお会いしたのに。お仕事がたくさんあってお忙しいのは分かりますけれど、剣術がいらないなんて、そんな言い方はないですわ」
「わたし、あまり歓迎されていなかったのでしょうか……」
思えば、今朝もマノンが寝坊してきたことにタリス家のみんなが怒らなかったのは、ただ寛容だったからというわけではないのかもしれない。マノンをあまり歓迎していないからこそ、マノンに対して無関心だから、寝坊などの小さなことでは何も言わないようにしたという可能性も充分に考えられる。
だが、そんなマノンのネガティブ思考を打ち切ったのは、ニーナの明るい声だった。
「そんなことありませんわ! 何より、お父様たちが剣士協会に依頼してマノンに来てもらったのですもの。お兄様が勝手に言っているだけのこと、気にしないでくださいな」
「お嬢様……。ありがとうございます」
ニーナにお礼を言いながら、マノンは改めて気付かされた。
冷静に考えれば分かることだ。剣士協会に侍女の依頼を出したのは、他ならぬイーサンとカミラ夫妻。そんな二人が依頼を出しておきながら、実はマノンを歓迎していなかったなんて、おかしな話である。
――でも、今後のわたしの侍女としての言動を見て、幻滅させてしまう可能性は充分ある……。
ニーナの両親に、そして剣士協会にマノンの派遣を後悔させないかどうか、この先のマノンの行く末は全てマノン自身にかかっている。
頑張らなければ。
マノンは身が引き締まる思いを抱きながら、改めてそう決意した。
「さ、剣術の稽古に行きますわよ、マノン」
ニーナは太陽のような笑顔で、マノンの手を引いて歩き出した。