第1話 新米令嬢
――ほ、本当に、来ちゃった……!
マノン・スワードは震えていた。主に緊張とプレッシャーと未知の恐怖で。震えるあまり、衣装のスカートをキュッと握りしめた。昨日初めて袖を通した侍女用の衣装が、汗で肌に張り付く。おまけに、顎の先まで伸びた紺色の髪も。
剣士協会の第三剣士として剣士見習いになったのが二年前、十五歳の時のこと。それから先輩剣士による拷問の如く猛特訓の日々を重ね、つい数ヶ月前に第二剣士へと昇格した。
ホッとしたのも束の間、第二剣士となったマノンに課せられたのは『侍女実習』だった。
その実習先が、マノンの目の前にそびえ立っている宮殿のような大邸宅だ。
この大邸宅に住んでいる令嬢の魔法の実力はこの町で最も高いらしい。それでも魔法だけでなく剣術も鍛えてほしいという依頼により、マノンが派遣されることになったのだ。
唯一の不可解な点は、令嬢の元に実習へ行った剣士たちが毎年半年も経たずに帰ってくることである。しかし、緊張とプレッシャーと未知の恐怖で押し潰されそうなマノンには、その理由を考える余裕などなかった。
実習先に来てしまったものは仕方ない。第二剣士として責務を全うしなければ。
「え、えっと、とりあえず呼び鈴を――」
「やっと来てくださったのね!!」
マノンが震える手で呼び鈴を鳴らそうとした瞬間、勢いよく扉を開けて飛び出してきたのは、一人の少女だった。
「ひいぃっ!」
「あなたが来られるのを今か今かと待ち侘びておりました……あら?」
少女はやっと気づいたのだろう、ブルブルと震えながら頭を抱えて丸くなっているマノンに。
「もしもーし。大丈夫ですの?」
ツンツンと肩をつつかれ、マノンはますます縮こまってしまう。側から見れば、その姿はまるで敵から身を守るダンゴムシのようだろう。
剣士として恥ずべき行動。しかし、今のマノンにはそれを気にする余裕などこれっぽっちもない。
マノンの肩をつつくのをやめた少女は、しっかりと膝を折ってしゃがみ込んだ。
「突然大きな声を出して申し訳ございませんでした。驚かせてしまいましたわね」
マノンの肩にそっと手が置かれ、マノンは思わず肩を縮めた。だが、その手つきは先ほどまでとは違ってとても優しいものだ。
本当はいい人なのかもしれない。
マノンがおそるおそる顔を上げると、柔和な笑みを浮かべる少女と目が合った。
あまりの美しさに、マノンは我を忘れて見惚れてしまう。
肩まで伸びた美しい金髪の一部を側頭部で二つ結びにしている。彼女が身を包むのは煌びやかな真紅のドレスだ。
「あなたが、わたくしの新しい侍女ですの?」
「え、えと、は、はい、わたし――じゃなくて、私は、そのっ」
「落ち着いて。ゆっくりで大丈夫ですわ」
ほら、深呼吸、と促されるまま、マノンは少女と一緒に深呼吸をする。不思議と、それだけで落ち着くことができた。
マノンは立ち上がって背筋を伸ばし、改めて少女に向き直った。
「本日より、ニーナ・タリス令嬢の侍女として着任いたしました。剣士協会所属、第二剣士、マノン・スワードと申します。よ、よろしくお願いいたします」
「まぁ、やっぱり! あなたがわたくしの新しい侍女ですのね! 遠い所からはるばるありがとうございます。わたくし、ニーナ・タリスですわ」
ドレスのスカートを細い指でつまみ、優雅にお辞儀をしてくれる少女。
侍女にしては活発すぎると思っていたこの少女こそが、マノンの実習相手である令嬢、ニーナ・タリスだったのだ。
マノンの身がより一層引き締まる。
「お嬢様の侍女として、お嬢様の剣術の腕をしっかり上げられるよう、誠心誠意尽力いたします。何卒、よろしくお願いいたしします」
「ええ、よろしくお願いします。ですけど……」
にこりと微笑んだニーナは、その頬を引き攣らせた。
どうしたのだろうかとマノンが不思議に思っていると、
「わたくし、畏まられるのがあまり好きではありませんの。わたくしは偉い立場の人間でも何でもないのにへりくだっていただくと、鳥肌が立ってしまうというか……。どうぞ、気軽な言葉遣いで接してくださいな」
「あ、ありがとう、ございます……」
大邸宅のご令嬢だから、てっきり高飛車で自分より立場の低い者たちを見下しているのだとばかり思っていた。そうではないことを知り、マノンは偏見を持っていたことが恥ずかしくなる。
「そうだわ、あなたのためにお茶を用意して待っておりましたの! 是非召し上がって」
差し出された手におずおずと手を伸ばせば、ニーナはマノンの手を取って大邸宅の中へ入っていった。
「え、えっと……お邪魔しま――」
これからマノンの住居になる大邸宅への記念すべき挨拶は、思わず呑んだ自分の息にかき消された。
――す、すごい……綺麗……!
外装はさることながら、大邸宅の中も宮殿さながらの美しさだった。あまりの眩さにマノンの目は釘付けになった。心なしか、隣のニーナが誇らしげな表情を浮かべている気がする。
これだけ豪華な邸宅なのだから当然だ、とマノンが納得していると、
「……ニーナ?」
「ひっ!」
肩を縮め、情けない悲鳴をあげたのはマノンではない、ニーナだ。いつの間にやってきていたのだろう。ニーナの背後に立つ女性に気付き、マノンも内心驚いてしまう。
少し暗めの金髪の女性はニーナよりも美しい紫色のドレスに身を包み、両腕を組んでニーナを見下ろしている。その眉は訝しげにひそめられていて、マノンでもすぐに分かった。
この女性は、相当怒っているのだと。
「いつまで経っても帰ってこないから来てみれば……」
「お、お母様……!!」
壊れかけのロボットのように背後を振り返ったニーナに、なおもニーナの母は冷たい視線を送り続ける。
「早くマノンさんをお席にご案内しなさい。せっかくのお茶が冷めてしまいます」
「え、えへへ、申し訳ありません、お母様。……どうぞ、あなたのお席はこちらですわ」
そうして通されたのは、広々とした茶室だった。個室が一、二戸は入るほどの長い部屋に、煌びやかな装飾の施された椅子が縦列に一席、横列に四席。綺麗なテーブルクロスが敷かれた長机が部屋の中央に置かれていた。
剣士協会にいた時とはまるで違う。剣士協会の机や椅子は全て木造で、テーブルクロスのような敷物はなかった。やはり、見習い剣士と大邸宅のご令嬢とではその差が歴然だ。
こんな豪華な椅子に自分が腰をかけてもいいのだろうか、と戸惑いつつもマノンがゆっくりと座ると、ニーナはマノンのすぐ隣、ニーナの母は既に着席していた男性の横に腰をかけ、メイドたちが注いでくれたお茶を片手で指し示した。
「遠くから来ていただいてお疲れでしょう。お茶の一杯でも召し上がって」
「あ、ありがとう、ございます……」
マノンはお辞儀をしてから、カップを両手で持ってお茶を口に含んだ。
今まで味わったことのない、けれどほのかな甘さと上品な口当たりのするお茶だ。マノンは思わず目を丸くした。
「お、おいしい……!!」
「お口に合ってよかった。タリス家自慢のお茶なのよ」
ニーナの母が優しく微笑む横で、男性が厳かに咳払いをした。
さっきの言動が侍女としてふさわしくなかっただろうか……。
マノンの背筋が徐々に冷たくなる。
だが、男性はマノンの言動に対しては何も口を挟まなかった。
ニーナの母の隣に座っているし、この男性がニーナの父親だろうか。焦茶色の短髪は綺麗にセットされており、軍服のような服越しからでも分かる筋肉質の身体が、只者ではないことを物語っていた。
「私はニーナの父、イーサン・タリスだ。こちらは妻のカミラ・タリス」
ニーナの母・カミラが礼をするのに合わせて、マノンも一礼。
「よ、よろしくお願いいたします。本日より、ニーナ・タリス様の専属侍女として着任いたしました。剣士協会所属、第二剣士、マノン・スワードと申します」
マノンの言葉に頷いたニーナの父・イーサンは、厳かな表情を崩さずに続けた。
「早速本題に入るのだが……。君は何故、ニーナの侍女として我がタリス家に来たか理解しているか?」
「は、はい! 魔法の腕が超一流なお嬢様に、剣術の腕を磨いて剣術の腕も一流になってほしい。そんなご両親の願いがあると伺っています」
「うむ、その通りだ。侍女という立場だろうが、君はニーナに剣術を教えてくれればいい。私たちの身の回りの世話などは、この者たちがやってくれるから気にするな」
「は、はい、畏まりました」
確かに、タリス家にはマノンの他に何人ものメイドがいる。マノンたちのお茶を注いでくれたのもこのメイドたちだ。マノンの立場はこのメイドたちとは少し違い、剣術を教えるニーナ専属の侍女ということのようだ。
パチンと軽快に両手を叩き、お茶を飲み終えたニーナが口を開いた。
「というわけで、マノン、今から少し付き合ってくださる?」
「は、はい、お嬢様のご要望とあらば、何なりとお申し付けください」
マノンが姿勢を正してお辞儀をすると、ニーナは一段と声を高くして顔を輝かせた。
「わたくし、魔法の特訓をしたいんですの!」
「「……ニーナ!?」」
イーサンとカミラは愛娘の信じがたい発言に、顎が外れたように呆然とし、目をぱちくりとさせていた。
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