そして居室にて
部屋に帰る道すがらハンナに尋ねる。
「あの、風呂に入りたいんだけど・・・」
「浴場が使用できるのは5日に1度で、次に利用できるのは明後日です。申し訳ございませんが、それまでお待ち下さい。」
あぁ、そうなんだ・・・ そういう習慣なんだ・・・ テンション下がるなぁ・・・
「体をお湯で拭くだけでもいいんだけど、何とかならないかな・・・ 寝ている間、風呂に入っていなかった訳だし・・・」
「かしこまりました。お湯を準備致します。ただ、ヤクモ様がお休み中の間は、私がお体のお世話をさせて頂いておりましたので、気にされることはないと思います。」
「そうなんだ。ありがとう。」
ハンナが少し照れた表情を浮かべる。
笑うと可愛いんだろうな・・・ えっ、ハンナが体を拭いてくれていたの・・・ 普通に恥ずかしいんだけど・・・
部屋に入ると、ハンナが室内にあるドアを開けて説明を始める。
「こちらが洗面室とお手洗いです。お湯を準備してきますので、しばらくお待ち下さい。」
ハンナが準備のために退室する。
衣装棚には寝間着が用意してあった。ネグリジェ型の上衣とズボンだ。
寝間着を持って、洗面室に入る。
洗面室には鏡と洗面台があり、洗面台にはタオル、石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉、髭剃り用のものと思われる短刀が備え付けられていて、その傍らには水の入った大き目の水差しが置かれていた。
部屋の窓際に浴槽が設置されており、片隅には、おそらくトイレと思われる蓋付きの穴が開いた円形の陶器製の箱がカーテンで仕切られて置いてあった。いわゆる洋式トイレだ。
これで、用を足すのか・・・ トイレットペーパーもないし・・・ 日本のトイレは世界一というのは本当だったんだ・・・ トイレに関してはやっていける自信がないなぁ・・・
近い将来の不安と戦っていると、洗面室の扉にノックがありハンナが水差しを持って入室してきた。
ハンナから清拭の手伝いの申し出があったが丁寧に断った。
準備してくれたお湯を使って体を拭き、顔を洗う。そして、用意されていた寝間着に着替え洗面室から出た。
「ありがとう。さっぱりした。」
ハンナが一礼し、質問してくる。
「この後は、どうなさいますか?」
ハンナの声が少し強張っている気がする。
ん? なんだろう?
「今日は色々あって疲れたから休もうと思う。ハンナも下がってくれていいよ。」
「かしこまりました。明日は日課時限に従い午前5時にご挨拶に参ります。それでは失礼致します。」
ハンナの表情から強張りが消え、安心した様子で退室した。
なんだったんだろう? えっ、5時? なんて健康的な世界なんだ。 起きられるかな?
実のところ、別に就寝したい訳ではなく、1人で今日の出来事を反芻したかったので、就寝を理由にハンナに退室してもらったのだ。
美人と一緒なのは嬉しいけど、今は1人で頭の中を整理したいのだよ、魔族の諸君・・・ふはははは!
脳内で青い肌の総統を真似つつベッドに腰かけ、記憶を掘り起こしていく。
転生してからのことやハンナやイルゼとの会話を思い出し、頭の中で整理していく。
魔界のこと、神界のこと、人間との戦争のこと、魔術のこと、獣将軍ハイデの血を受けたこと、魔力測定のこと、そして飼い殺しのこと・・・
飼い殺しについては、私的には何も問題はない。
今後は、地下文書庫か地方勤務を目指すという方針は決まったが、それを認めさせるには後ろ盾が複数必要だ。
今のところ、イルゼとハンナしか面識のある者がいないので、しばらくは周囲の流れに身を任せつつ、人脈の構築に努力することにしよう。
あっ、そうだ、返却された物品を確認しよう。
魔界に運ばれた際に身に着けていたという衣服を確認してみる。
衣装箱には、青と白のアクセントが入った赤い上着、白いシャツ、白いズボン、白い靴下、黒の長靴、腰にぶら下げていた湾曲した剣の鞘、革製の弾薬箱がついたベルト、そして同じくこげ茶色の革製ウェストポーチが衣装箱に入っていた。
しかし、あの黄金色の剣は、どこにも見当たらなかった。
って、あれ? ウェストポーチなんか着けてたっけ? 気付かなかっただけかな? まぁ、いいか。なんだかカッコイイし、腰の後ろに付ければ、今どきの若者風だ。
ポーチの中身を確認するため蓋に触れると、突然脳内に物品のリストがイメージされた。
何これ? 収納魔術ってやつか?
ゲームのアイテムボックスのように収納物品が脳内に展開される。
ご丁寧に説明文まで展開される。
えーと、何々、金貨1000枚、懐中時計、沈胴式単眼望遠鏡、以上!
えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! 金貨1000枚? データ引継ボーナス? って、日本円でいくらなの?
身に覚えのないポーチが返却され、その中身が金貨。怖すぎる。世の中、そんなうまい話があるはずがない。いつでも返せるよう金貨は使わないでおこう。
お金は使わないにしても、どうやって取り出すんだろう?
私が前世にてゲーム等で経験した知識を総動員し、いろいろ試してみる。
ポーチに手を置くと、先程と同じく収納物品がイメージされる。
心の中で呟く。
金貨5枚、展開!
金属音をたてて、金貨が床に転がった。
ほうほう、なるほど。
続いて念じる。
金貨5枚、収納!
床に転がった金貨のうち3枚が収納され、脳内リストの数字が増えた。
あれ? どういうこと? 目視確認が不足していたのか?
2枚の金貨をしっかり認識し、再び念じる。
金貨2枚、収納!
残りの金貨が収納された。
オッケー! なぁんとなく、分かった。
返却された衣服や装備を使って、収納や展開を繰り返してみる。
どうやら、収納したい物品をしっかり認識すること、展開したい物品は、個数までイメージしておくことが重要ということが分かった。
アイテム収納か・・・ 異世界転生らしくなってきやがった。
コソ泥の3代目の相棒を務める髭のガンマンのように嘯く。
返却された衣服等は何かに使えるかもしれないのでポーチに収納したが、ふと疑問を感じた。
あれっ? 魔族は収納と転移は使えないはずでは・・・
記憶が蘇る。
【魔族になれたら、きちんと代償は払うから、それでゆっくりのんびり魔界ライフをエンジョイしてくれたまえ!】
声の主が一体誰なのか全く分からず、軽薄な声と言い訳じみた話し方が妙に私をイライラさせるが、これが声の主なりの代償なのだろうか。
考えても仕方がないので納得することにした。
とりあえず、このポーチは重要アイテムのような気がするので、常に身に着けておくことにしよう。
懐中時計を取り出し時間を確認すると、午後11時を過ぎていた。
よし、異世界転生らしく、もう一つ試してみよう。
「スティタァス、オォープン!」
何も起こらない。すごく恥ずかしい。アラフィフの叫ぶ台詞ではない。
最後の最後で、どっと疲れてしまった。
明日も何かあるに違いないので、ベッドで横になることにしたが、脳内に両親と兄の姿が浮かんだ。
両親は、どうしているんだろう?
あちらの世界では、私が亡くなって既に半年近くが経過しているだろう。
とっくの昔に葬式は終わっていて、それぞれに忙しい日常を営んでいるはずだ。
別に親兄弟と特別に仲が良かったわけではない。特に兄嫁との関係は最悪だったな・・・
実家のパン屋は、幼馴染と結婚し子供が2人いる兄が継いでいて、私がいなくなっても家業は何も問題はない。
確かに親より先に死んでしまったことについては、申し訳ないと思うが、特に元の世界に未練はない。
妻子はおらず、恋人もおらず、友人と呼べる者もいない。
職場の人間関係も殺伐としたものだったし、今頃は私の空席を埋める補充が行われ、それなりに業務が流れていることだろう。
私は、役人の仕事に職人技は必要ない、誰が就いても業務が流れなければならないと常々考えていたのだが、自分の業務が簡単に補充されると思うと何とも言えない気持ちになる。
代わりがすぐに見つかる仕事・・・ 悲しんでくれる友人はおそらく無し・・・ 寂しい人生だったな・・・
押し寄せる前世の悲哀を振り切り、眠りについた。