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6:水行ですが何か?



 客室に泊まっていたリンネは、パチリと目を覚ます。


「んん……。目が覚めちゃったな……」


 時刻は朝の四時半。いつもこの時間に起きて、朝の儀式をする。

 水行と祈りを捧げてから、献膳と朝食の準備をするため、この時間に起きないと遅れてしまうのだ。

 儀式はきちんと効果があり、定められた修練をコツコツ積めば誰でも神官として瘴気を祓うことくらいはできるようになる。

 リンネの場合、この世界で一番厳しい教会で修行を乗り越えており、その力も強かった。


「水行は続けたいけど……今日はとりあえず祈りだけしよう」


 ベッドから起きてカーテンを開ける。

 薄暗い外は、日が昇っていない。聖都では春の兆しが見え始めていたが、北部の公爵領は冬の寒さがまだ残っていた。

 公爵家から借りた寝衣を脱ぐと、神官服に着替える。


(今日から、公爵家勤めかぁ……)


 リンネは聖都に帰ることはなく、このまま公爵家に残ることになった。もともと自分のものがほとんどない彼女なので、今回ここに来るまでにまとめたトランクの荷物が、全ての持ち物と言っても過言ではない。

 そんな訳で、アンザレア教会堂に取りに戻りたい物もなく、彼らも別にリンネからの挨拶だとかを欲していることもないので、帰る必要がなかった。

 必要最低限の物しか詰まっていないトランクひとつと、己の身ひとつ。

 あまりにも心細い装備で、これからグラジオラス公爵家に世話になる。


 リンネはトランクを閉じると、最後に簡単に髪を結う。昨日洗ってもらった髪は、まだ手櫛がするりと通って不思議だ。せっかくおろしても毛が落ち着いているのに少しもったいなく感じるが、作業の邪魔になるので、普段から髪はまとめている。

 キュッと頭の下でひとつに結ぶと、これでいつもの支度は整った。


「――よし、と」


 リンネは床に座ると、精神統一から始める。

 普段は滝に打たれながらやるのだが、滝がないからといってやらないよりかは、やったほうがいいだろう。

 目が覚めて、他にできることもないので、リンネはじっと教えられた呼吸を繰り返す。

 それからしばらくすると、今度は自分の身を清めるための呪文を唱える。

 

 するとその途中――。

 コンコンコンと扉が軽い音を鳴らした。


「……?」


 まだ一時間も経っていない。

 こんな時間からメイドは働いているのか。

 少し疑問に思いながら、リンネは立ち上がるとドアを開けた。


「――おはようございます、神官殿」

「お、おはよう、ございます……」


 そこに現れたのは、狼の獣人執事レキだった。

 片手にはティーポットとカップが乗ったトレーを軽々持っている。

 リンネは身体の大きい、すっかり大人びた雰囲気の少年を見上げた。


(も、もしかしてうるさかったのかな?)


 彼は只人とは違う五感を持っている。

 まだ人が寝静まった早朝に呪文を唱えていたら、耳障りだったかもしれない。

 得体の知れないやつが、朝から怪しい言葉を読んでいたら、止めに入る気持ちは分からなくなかった。多分、見張りでもしていたのだろう。


「随分と朝が早いんですね」

「教会ではこれが普通で。日課で朝の祈りをしていたんですが……。うるさかったですか……?」


 リンネは正直に告げることにした。

 じっと目を逸らさずに緑の混じった蒼い目を見つめると、彼も納得したようで。


「いえ。ただ、少し物音が聞こえたので、起きているのかと。温かい飲み物を持って来ました」

「……わざわざ、ありがとうございます……」


 気が利いて、しっかりしている人だ。

 が、まあ。主人に近づく悪い虫は排除すると言わんばかりの積極性である。探りを入れに来ていると思うのは、きっと間違っていない。

 とはいえ、何も後ろめたいことなどないので、リンネはそのままレキを部屋に入れた。

 客室のテーブルで、湯気の上るお茶をカップに注ぐ彼を、リンネは見守る。


「どうぞ」

「……いただきます」


 リンネはディアナの記憶から、レキが獣人だと知っている。そして、奴隷として酷い環境にいたことも。

 彼の元の姿は狼であり、何となく人を嫌ってるいる獰猛なイメージだったのだが、仕事は丁寧だ。


(…………。なんだろう。何か憑いてるな……)


 リンネはふと気がつく。

 微力で姿を保てるほどのものではないが、何かレキの影にいる。


(害はなさそう。放っておいても大丈夫かな……)


 見なかったフリをして、リンネは目を逸らした。


「いつもこの時間に朝の日課をしているんですか?」

「……そうです。教会にいた時は水行をしてから朝食を準備していたので、四時半には目が覚める体質になっていて」


 嫌がらせをされることもなく、淹れてもらったお茶は美味しい。彼の淡々とした言葉遣いなども意外に思いながら、リンネは顔を上げた。

 昨日はほぼ言葉を交わさなかったが、レキから質問されて快く答える。

 自分のことを客人だなんて思っていないし、敬われるような立場だとも思っていない。


(これから、使用人として居させてもらうみたいだし……。執事の彼とは仲良くやりたいんだけど……)


 なるべく無害をアピールできるように、彼女は少し細かく自分のことを伝えた。


「まだメイドさんたちも起きてないですよね。わたしのことはお構いなく……」


 苦笑しながら、放っておいて大丈夫だと言ってみる。


「……六時にはメイドも動き出すので、その時間に伺うように伝えておきます」

「はい」


 レキの返事にリンネはこくこく頭を縦に振った。


「……あ、あの。このお城の近くに川や滝とか、井戸はありますか?」


 温かい紅茶が冷めないうちに飲みつつ、彼女は躊躇いがちに側に立って控えている彼に尋ねる。

 ディアナの記憶から井戸があることは知っていたが、果たしてレキはそれを教えてくれるのか。

 リンネは答えを待つ。


「裏に以前まで洗濯に使っていた、地下水を汲み上げている井戸があります」

「……その井戸って、わたしが使うこともできますか?」

「できますよ。誰でも使えるので。……まさか、水浴びでもするつもりですか?」

「そうです」


 ちゃんと教えてくれたレキに、彼女は真顔で頷いた。

 水には霊力が宿っていて、リンネの力を高めてくれる。自分の身を守るためにも、これをやらない手はない。すっかり習慣になっていて、水を浴びないと身がシャキッとしない。


「迷惑にならないよう、皆さんが起きる前に行ってきます」


 彼女はすぐに椅子から立ち上がり、トランクバッグを手に持った。


「レキさん。すみませんが、案内をしていただいても、いいでしょうか……?」


 突然動き出したリンネに、レキはぽかんと目を丸くしている。


「…………こっち、です……」


 リンネの圧に押されたレキは、彼女を案内した。





 ◇





「――な!?」


 リンネの行動に驚愕の表情で息を呑んだのは、レキだった。

 井戸に案内すると、リンネは持っていたトランクを開けて白い布を出したかと思えば、徐に服を脱いで行衣をまとう。


「……!」


 外で女子が着替える時点で目が飛び出るのだが、唖然として固まっていたレキは、彼女の背中に残る傷をばっちり見てしまう。

 彼はそれが見覚えのある、鞭に打たれてできる傷だと分かって二度驚いた。


「なん、で……」


 どうして、寄付金を巻き上げてぬくぬくと肥えているはずの神官に、そんな傷があるのか。

 レキは信じられない気持ちで彼女の背を見ていた。

 そしてリンネはこの寒い中、井戸の水をバシャアアアと浴び出して。

 呪文を唱えながら、せっせと水を汲み、頭から水を被る姿は彼にとって衝撃だった。


「…………」


 レキはやっと目を逸らしたが、他の誰かがこれを見たら、一体どう思うだろうか。

 水行なのだから、こうなることは予想できたはずなのに、まさか本当に全身に水を浴びるようなことをするとは思わず、彼は狼狽えた。

 彼女は真剣に水垢離をしているだけなのだが、どうも見てはいけないものとしか思えない。

 しかし、止めるタイミングを逃してしまい、レキは何も言えなかった。

 その代わり、我に返ると慌ててタオルを取りに城内に戻る。


「……あいつ、本気で極めてる神官なのか……?」


 大人の高位神官ですら役に立たなかったのに、彼女がディアナを治せるなんて信じていなかった。

 きっと教会側の何かしらの策略で、公爵家に寄生するために、ディアナと年の近い娘を寄越したのだと。リンネのことなど全く信用する気がなかった。

 あまりにも異質な少女神官のことを、警戒しないわけがない。


 しかしそれでも、彼女が教会でそれなりに苦労と努力をして育ったことは、この水行でレキには分かってしまった。

 冬終わりの早朝に躊躇なく水垢離をし、嫌な顔ひとつせず黙々と呪文を唱え、その背中には無数の傷跡。全部、普通じゃない。


 疑う以前に、リンネの存在自体が未知数だった。






 何十分とやられたらどうしようかと思ったが、レキがタオルやらなんやらを持って帰る頃には、リンネの水行は終わっていた。

 水を浴びるのは止めてその場に膝をつき、指で宙に五芒星を描きながら呪文を唱えている。


「……!」


 レキは背中側からリンネに近づき、彼女の身体が震えていることを知った。この寒い中、地下で冷えた水を浴びているのだから、当然のことだ。

 神官と関わったことがないので、何故こんなことをするのかと理解に苦しむ。


「――――終わりました。すぐに着替えますね」


 最後に合掌してそう言ったリンネに、レキはすぐタオルをかける。


「あんた、こんなことを毎日やってるのか」

「……は、はい。毎日やってます」

「普通に考えて、風邪引くだろ。ディアナ様にでも移ったらどうするつもりだよ」


 本気で驚いており、彼の言葉が砕けた。

 リンネはパチパチと目を瞬き、肩をすくめる。


「一応、ここ二年は病気をやってないので、大丈夫だと思います」


 修行の中では、三十日間、三時間おきに水行するようなものもあるので、あれと比べれば楽なものだ。他にも飲まず食わず寝ずで祈りを捧げたり、声が枯れるまで『聖呪言書』を読み続けたり。この程度で風邪など引かない。


「これも神官として必要な修行ですので、どうかご容赦を……」


 リンネはぺこりと頭を下げる。

 昨晩から色々と悩まされることばかりで、渦巻いていた思考がすっきりしていた。

 風邪を引かないためにも、水行が終わったらしっかり水気を拭き取って着替えるのが先決だ。

 彼女はかけてもらったタオルで水気を拭き取る。


「……まさか、またここで着替えるつもりじゃ……」

「……? はい。風邪を引かないように、早く着替えますね」

「…………正気かよ……」


 レキは額に手を置いた。予想外のことを当たり前の顔をして言ってくるのだから、調子が狂う。


「こんなところで着替えさせるかよ……。……後でディアナ様にも言わねーと……」


 彼は素早くリンネの荷物をまとめ、軽いトランクを片手に持つと彼女を振り返った。


「こっちに来い。使用人用のシャワールーム貸してやるから……」

「お、お手数おかけします」


 リンネは慌てて立ち上がる。

 ただ水行していただけなのだが、迷惑をかけたみたいだ。

 裏口から入ると、リンネは大人しくレキに案内されて使用人たちに与えられた部屋に通された。


「ちゃんとお湯を浴びてから、出て来いよ」

「……はい」


 トランクを押し付けられ、彼女はこくりと頷く。

 これ以上、床を汚すわけにもいかないので、レキの言う通りに従った。

 お湯を浴びて身体を温め直し、髪もドライヤーでしっかりと乾かして。

 使用人用のシャワールームにも、高い石鹸が置いてあることに感動しながら、リンネは着替えを終えた。


「すみません。教会ではこんな感じで男女関係なく滝行するんですが、余計な手間を……」

「…………」


 外で待っていたレキに、リンネはしょぼんとして頭を下げる。

 余計な手間をかけてしまって、初日の朝から幸先の悪いスタートを切ってしまった。


「……別にいい。それより、人々を救済するっていう教会の神官サマは、鞭なんて物騒なものを振るうのか?」


 一度素を見せたことで、隠す気を無くしたらしい。

 荒い言葉でレキに尋ねられて、リンネは何と答えるか迷った。


「……まあ、人によりますね。神官も人間なので色々あります」


 犯人が教会の人間だということは、バレているようなので、彼女はそれとなく答える。


「……あの神父にやられたのか?」

「いえ。彼とは滅多に顔を合わさないので……」

「なるほどな。当主様があんたの滞在を許した理由が、なんとなくわかった――けど」


 レキの鋭い眼差しがリンネに刺さった。



「ディアナ様や公爵家に害をなそうとしたら、迷わず殺す。たとえオレの首が飛ぶことになっても」



 彼は自分の手だけを獣化させ、リンネの首元に鋭く尖った黒い爪を置く。


(……わあ〜〜。わたし脅されてる……!)


 一瞬のことだったので、何をされたのか分からなかったが、リンネは恐る恐る視線を落として、首にある獣人の手を見て自分が脅されたのだと知った。

 しかし、まあ、教会に集まってくる悪霊たちに殺されかけり、修行で幻覚を見たりと、命の危険に対する感覚が鈍っているので、彼女の顔に恐怖はない。

 むしろ相手に殺す気がないので、余裕だった。


(流石、小説で「番犬」って言われる人だな……)


 本当に小説通りで、恩人のためなら命を賭けるレキの人格に感心して、彼の顔を見つめる。

 本来、その敬意を向ける対象はディアナではなく、これから出会うはずのヒロインなのだが、根の性格はシナリオに左右されないということなのだろう。


「…………」

「これは警告だ。おかしな真似はするなよ」


 黙っていると、レキはそっと爪を離した。


「……ぜ、善処します……」


 リンネが自らの意志でディアナや公爵家に害を与えようとすることはないだろう。

 ただ、おかしな真似をするなという点には、不安が残る。

 リンネは引き攣る頬で頷いた。


 




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