3:ひとりで入浴できます
昨日の夕方に倒れたリンネは、その日一日ディアナの恩人として公爵家で世話になることになった。
彼女が起きたのは、十四時。
なんと、夕食は招待されて公爵家の皆さまと取ることになってしまったので、満腹にはならない程度の軽食にサンドウィッチをいただく。
(卵がたっぷり挟まってる……。すごく美味しい!)
教会では、どこもスープとパンのセットが定番で質素な食事が多かった。
教会に預けられる――といっても、迎えは来ないので、捨てられたに等しいリンネは育ててもらっただけでも感謝すべきことで、与えられるものに不満は漏らせない。
ただでさえ、この子は呪われていて変なことばかり言うから教会でなんとかしてくれ、なんて理由で置いて行かれた子どもだったのだ。
この子がいると気味悪いことが起こるから、うちでは面倒を見切れないと、何度も教会を移転させられた。
息苦しい大人たちの空気を読み、できるだけ良い子でいようとするのは、当然のことだった。
リンネは滅多にありつけない、ふわふわしっとりの真っ白なパンにこれでもかとタマゴが挟まったサンドウィッチを頬張る。
こんなに豪華なサンドウィッチは、街の店でも並んでいるところを見たことがない。
(きっと、ディアナ様の「前世の記憶」ってやつを反映したんだろうな……)
リンネはとりあえず、今の心優しいディアナのことを「ディアナ」と認識することにしていた。
見えない人は彼女のことをそう認識するはずなのだから、リンネもそれに合わせる。
そのディアナは自分が転生――生まれ変わって新たな人生を送っていると思っているので、ここに来る前にいた世界と人生のことを「前世」だと思い込んでいる。
前にいた世界での記憶なので、多少齟齬はあるかもしれないが「前世」と表現することにしておいて、情報の整理に問題はないだろう。
とりあえず、後ろに憑いている危ない霊は「悪霊」「悪役令嬢」「悪役霊嬢」あたりで呼び分けることにしておく。
(それにしても、ここが小説の世界って……)
自分の見える力だけでも持て余しているのに、とんでもないことを知ってしまった。
ディアナの記憶からして、小説の舞台と登場人物は確かにこの世界のものと合致していることは、ずてに証明されている。
そしてリンネは彼女から得た膨大な情報に、「リンネ」という登場人物はいないことも把握していた。
ディアナがあの身体に入ったことは物語にはない要素で、その変化が関わるはずではなかった自分を引き寄せてしまったのだろう。
本来なら出会わなかった立場なら知らないフリに徹して、悪役令嬢としての宿命に争おうとしているディアナの邪魔をしないようにするのがベストだと思う。
(まあ、何にせよ、わたしがこの情報を持ってることは隠さないと……)
魂に干渉すれば情報収集できると知られたら、命がいくつあっても足りない。
今回は自分の身体に無事戻って来られたが、あれは命がかかっていたから自分も命をかけただけであり、そう気軽にできることではないのだ。
この気持ち悪い力を知られて誰かに利用されることにでもなったら、いよいよお先真っ暗である。
「ディアナ様も、だから言わないんだろうな」
ディアナが「前世の記憶を思い出した」と家族にも教えていないのは、彼女自身が悪役令嬢だったはずの自分のことを信じていないのと、言っても信じてもらえないと心のどこかで思っているからだ。
記憶を持っていたディアナ本人が口を閉ざすことを、盗み見たようなリンネが他人に語れるはずもない。
「……はぁ。早く、解決方法を見つけないと」
ディアナが心の底で恐れているように、悪役令嬢の魔の手は常に迫っている。
根本的な解決策を見つけなければ、ひとつの肉体にふたつの魂がついている彼女の身には、いつか良くないことが起こる気がしてならなかった。
静かな部屋でひとりで黙々と食事をして、リンネは最後のひと口も飲み込んだ。
◇
「あ、あ、あ、あの!? じ、じ自分でできままますす!?!?」
軽食を食べた一時間後。
リンネは盛大に取り乱していた。
「恥ずかしがらないでください。ディアナ様もこうして入浴されています」
教会の人間なのに優しく接してもらえるのは嬉しいが、入浴くらい自分ひとりでできる。
浴室の前で、リンネはメイドたちに服を脱がされそうになるのに抵抗していた。
一介の神官見習いだというのにお嬢様待遇で、メイドは世話を焼く気満々だ。
服を剥がされそうになって、リンネは一張羅の青いスカプラリオを必死に押さえる。
「ほ、本当に自分でできますので――!」
「この後、ご夕食は当主様も同席されるのですから、最善を尽くして身支度を整えなくてはなりません。――さあさあ!」
「うっ、それは……」
そう言われてしまうと、これが仕事のメイドたちのためにも大人しく従ったほうがいいと思えてしまう。
しばらく黙って目の前のアンジーと名乗ったメイドを見つめたが、最終的に彼女の無言の圧に負けたのはリンネだった。
「……昔やんちゃをして、傷の多い身体で申し訳ないんですが、よろしくお願いします……」
観念して先に断りを入れると、自分でスカプリオを脱ぐ。下に着ていた白いトゥニカに手をかけると、手慣れた距離の詰め方でアンジーが「こちらがやります」と言わんばかりに作業を変わった。
「…………」
そして、顕になった肌を見てメイドが息を呑んだ音を、リンネはハッキリ捉える。
たまに出会ってしまうタチの悪い悪霊たちに追いかけられたり、驚かされたり。運が悪いとちょっとした事故になって、怪我も増えた。
(まあ、それだけじゃないんだけど)
自分がやった訳ではないのに、物が壊れたらお前がやったのかと罰で教育係に鞭打たれていた。
本当の犯人が幽霊か人間なのかは、時による。
ただ、ポルターガイストを起こせるほどの幽霊は頻繁に現れないので、大体は人や自然の仕業だ。
(教会には、憑かれた人やモノが集まってくるからなぁ……)
普通に息を潜めて目立たないように生きたいのに、どこから噂を聞きつけてきたのか、見えるリンネに構って欲しがる霊が手を出してきた。反応しては負けだと分かっているのに、そうもいかないのが現実で。
自分がやったことではないと言っても、結局は彼女が責任を負わされる。
まあ、嫌われ者には傷がお似合いということなのだろう。
「……なるべく傷には触れないように洗いますね」
「いえ……。もう古いものばかりなので、あまり気にしないで洗っちゃってください」
余計な気を使わせてしまって申し訳なく思いながら、リンネは笑って答えた。
全て服を脱ぎ終えると、やっと浴室に入る。
恐れ多いことに、この城で自慢の大浴場に入ることを許されたので、誰もいない大きな浴槽が彼女を出迎えた。
「うわぁ! あったかいお風呂だ……!」
ほんわかと湯気が立つ湯船を見て、目を煌めかせた。
リンネは現在、教皇が住う聖都にあるアンザレア教会堂に身を置いており、教会の中でも最も厳格だと言われる環境にいる。たらい回しにされた最終駅だ。
聖水と呼ばれる滝の水でしか身体を清めることができないので、温かい湯で身体を洗えることが嬉しい。
穢れがあるから気味の悪いことを起こすのだと指導を受けていたリンネは、効力が落ちるからと、冬も冷たいままの聖水で身体を清めていた。
感動で声を振るわせた彼女に、控えていたメイドたちは目を丸くする。
広さについて驚くのは分かるが、温かい風呂なんて当たり前のことを口にしたのが違和感だったのだ。
「本当にわたしが入ってもいいんですか……?」
リンネは、感無量で湯船を見つめたまま告げる。
「ディアナ様と当主様から、最大限のもてなしをと仰せ使っております。遠慮なさらないでください」
「……ゆ、夢みたいです。こんな神官の片隅にもおけない小娘にここまでしてくれるなんて、公爵家の方は寛大なんですね……」
彼女は手のひらを合わせて、合掌した。
教会で染みついた感謝を現す仕草だ。
ディアナの持つ前世の記憶にも同じ習慣があり、その文化が小説にも反映されているのかもしれない。
「リンネ様、こちらにどうぞ。湯船を楽しめるように、身体を洗ってしまいましょう」
「はい……!」
リンネは我に返ると案内された洗い場に移った。
花の香りがする洗髪剤が、彼女の肩まで伸びた短めの茶色い髪を泡立てる。
「いい香り……。これって、ルーナ商会で人気の洗髪剤ですよね?」
「はい。そうですよ」
シャンプーとリンスというこの洗髪剤は、ディアナが十歳の時に開発、発売したものだ。
これを使うと髪がサラサラになると、瞬く間に広まったもので、教会の神官たちもこぞって購入していた。身体を聖水で清める行為と、入浴という行為は別のものとして扱われるもの。身を清潔に保ちたい綺麗好きが多い高位神官には特に人気だった。
「わたし、ずっと使ってみたかったんです。まさかこんな贅沢な形で使わせてもらえるなんて思いませんでした」
髪の艶が見ただけでも違うので、見習いや下っ端神官からは憧れの視線が送られていた。
リンネもその内のひとりで、いつか自分でお金を稼げるようになったら買おうと心に決めていた。
「喜んでいただけてよかったです。髪を乾かしたら、きっともっと驚かれますよ」
「――! それは楽しみです」
アンジーにされるがまま、綺麗に洗われてリンネは思う。
(もう二度とこんな経験、できないんだろうなぁ〜)
公爵令嬢とほぼ同じ待遇で、メイドに身体を洗ってもらって、豪華な温泉に入るなんて、人生でこれが最後だろう。
しっかり味わっておかねばと、リンネは幸せを噛み締める。
全身綺麗に洗われると、ついに湯船に浸かる番だ。
「こ、このお風呂って、ディアナ様もお使いになるんですよね……?」
準備が整って、あとは一歩足を踏み出すだけなのだが、リンネはすでに十二分な高待遇を浴びるほど受けて怯んでいた。
「掛け流しなので、お湯は入れ替わりますよ。お身体が冷える前に、ゆっくり浸かってくださいませ」
萎縮するリンネが面白いのか、アンジーは目元を緩めて微笑んだ。
「そ、その。いつも聖水で身を清めているので、もう、十分すぎるといいますか……」
「聖水、ですか?」
「はい……。教会の近くを流れる滝の水をそう呼ぶんです」
温かいお湯を使って身体を洗ってもらい、すでに身体はほかほかしている。水だったら、こうはならない。
「身体は綺麗にしていただいたので、出ても大丈夫ですよね」
「…………」
リンネは一歩後退り、湯船から離れた。
「もしかして、いつも冷たいお水で?」
「はい」
「お湯には浸からないんですか?」
「わたしは見習いなので、湯船に浸かることはないですね」
「そ、それでは冬は? 寒い季節には流石にお湯を使いますよね?」
とても驚いた顔で質問されて、リンネはひとつずつ答える。
「……普通はお湯を使いますが、わたしは修行の一環で季節に関係なく聖水で身体を清めています」
「――な! なんてこと!」
アンジーは愕然として、大きく開いた口に手を置いた。
そんなに驚かれるとは思わず、リンネはぴくりと肩を揺らす。
「こんなに細い身体なのに、季節に関係なく水行させるなんてっ」
「あ、あの、わたしが落ちこぼれだから、課されているだけなので――」
「そんなことは、どうでもいいんです。子どもにこんな傷までつけて……。お風呂から上がったら、ちゃんと薬も塗りましょう」
「えっと……」
何やら熱く語り出したアンジーに背中をそっと押され、リンネは湯船に導かれる。
「ちゃんと入ってください。でないと、私がディアナ様からお叱りを受けてしまいます。百を数えるまで出たらダメですからね!」
「!?」
これまでとは違って有無を言わさぬ対応だ。
幼子に言い聞かせるようなアンジーに流されて、リンネは結局温泉に浸かることになった。
「お、お邪魔します……」
自分でもおかしなことを言っているとは思ったが、メイドたちに監――見守られて、恐る恐る湯に足をつけた。
そのままゆっくり肩まで沈むにつれて、リンネの表情は崩れていく。
「んん〜、あったかい――!」
湯にほぐされ、彼女は満面の笑みで言った。
こんな温泉を独り占めなんて最高だ。
リンネの顔付きが変わったのを見て、メイドたちも一安心だった。
(こんなに気持ちよく落ち着けるの、いつぶりだろう)
教会堂から離れることは、ほとんどない。
なぜなら、リンネには子どもの駄賃程度しかお金がないからだ。散歩くらいしかできることはないし、雑用を押しつけられるので出かける時間も限られる。
働きたくても、神官として未熟な者は、稼ぐことが許されない。衣食住、生活に必要なものは全て教会側が用意するので、お金は必要ないものなのだ。
たまに外で気分転換できるようにと与えられるのは僅かなお金で、正式に神官とならない限りはその額が増えることもない。
いつもあの、息苦しい教会堂で過ごすしかなかった。
曰く付きのモノを清めて欲しいだとか、呪いをもらったとか。霊体は留まる場所やモノ、人がないと形を保てないらしく、憑かれた人やモノが教会には集まってきた。
神聖な場所だから悪い霊なんて出ないというのは、見えない神官たちの思い込みで、霊は光に引き寄せられてくるようだった。
神官たちが怪しいものに祈祷をするのが教会のできること。
それでは、対処できるものにも限りがある。
リンネには、彼らが祈祷をしているのを遠くから傍観する霊が見えた。
自分と同じように見える人が教会にならいるかもしれないと、ずっと探しているのだが、なかなか出会うことはできなかった。
嫌な感じとか、瘴気が見える人は見たことがあったが、霊の姿を見るものがいない。
今回、ディアナを目覚めさせるために、きっと教会は手を尽くしたはずだ。
それなのにリンネが来るまで誰も解決することができなかったことから、教会の神官には霊を見ることができる者がいないことが濃厚になってしまった。
(教会に帰ったら、わたし、どうなるんだろう。……どうやってディアナ様を起こしたのか尋問されるとか?)
果たして、口で説明して何とかなるだろうか。
怪しい術を使ったとか言われて、さらに事態が悪化したらどうしたものか……。
教会は潔白と神聖さを重要視する。
疑わしきものは、すぐに祈祷。聖水で清める。
曰く付きの神官見習いなんて、風評被害も考慮すると、いつ追い出されてもおかしくない。
リンネの周りは、おかしなことが起こりやすいのだ。彼女自身が、災いの子だと誤解されるくらいには……。
その真実は霊が原因で、リンネは被害者である。
この世に留まりすぎると霊は悪霊になってしまうから、変化して悪さを起こされる前に彼女は時々、霊たちを成仏させていた。
彼らは、人とは違って壁もすり抜けて来るので、不意打ちは日常茶飯事。
驚きを表に出せば周囲に不審に思われる。
自然とポーカーフェイスも身についた。
(そういえば、この城に来てからあまり霊を見な――)
リンネはハッとする。
古い建造物には霊が留まっていがちなのだが、この城に入ってから全く霊を目にしていない。
城に着いた瞬間から何となく、大きな霊がいるのはヒシヒシと察知していて、嫌な予感しかなかったのに、あの悪役霊嬢しか見ていない――。
(……なんでだろう。先に来てた神官が全部祓ったのかな?)
ここは、代々特殊な力を受け継ぎ、圧倒的な軍事力を誇り「死神の一族」とも呼ばれるグラジオラス公爵家の城だ。
霊が出てこないなんて違和感しかないが、こうしてゆっくりできるのだから、ありがたく過ごさせてもらおう。
リンネは深く考えるのはやめて、強張った肩の力を抜くと銀色の瞳を閉じた。