1:公爵令嬢の後ろに悪霊が見えます
生まれた時から、他の人には見えないものが見えていた。
時々ふと日常の端に現れるそれは、この世ならざるもの――。いわゆる幽霊や怪なんて呼ばれるものたちが、その少女にはハッキリ見えた。
それがどうやら自分以外の人間には見えておらず、見える方が普通ではないと知ったのは、確か文字を覚えた頃のことで。
口に出してはいけなかったことだと理解した時には、すでに彼女は悪魔憑きだと両親に教会に捨てられていた。
そして、その先でも、不可解な動きを見せることで気味悪がられ、教会でもたらい回しにされた。
見えないものが見える自分がおかしい。
だから、気味悪がられるのも仕方ない。
どこに行ったって自分と同じものを見て、完璧に理解してくれる人はいない。
見えるせいで苦労することばかりだった。
そんな経験をして育ったため、普通の人と同じように、見えるはずがないものには出来るだけ見えないフリをして生きていこうと。
平穏を望んだ彼女は、一応育ててもらった教会に恩とお金を返すべく、なるべく目立たないようにひっそりと神官を目指して生きていた。
それなのに――。
『返せ、ワタシの身体をカエセェエエ!!!』
早朝、突然叩き起こされて向かった先は、北部に門を構えるグラジオラス公爵領の城。
説明もそこそこに五日にも渡る長旅で疲れた身体を休ませることも許されず、案内された部屋で――。
大きな寝台に横たわる令嬢を目にするのと同時に、その少女――リンネの耳にしか届かない声が彼女を硬直させる。
「公爵様。神官としては未熟なものの、悪魔祓いに特化した者を連れて参りました。彼女が必ず、お嬢様を目覚めさせるでしょう――」
「なんでもいい。とにかく、ディアナを無事に目覚めさせろ」
神父と公爵がやり取りは、最早意識の外。
ベッドの上で目を閉じた、自分と歳が近そうな銀髪の美少女からリンネは目が離せなかった。
彼女は、この国で皇室にも比類するほど絶大な権力を持つ、グラジオラス公爵家の令嬢――ディアナ・グラジオラス。
数年前はわがまま令嬢として有名だったが、ある日を境に人が変わったように更生し、今では天才と呼ばれる令嬢だ。
そんな彼女が突如倒れて気を失ってから、三週間。
才能に溢れ、見目麗しい娘を溺愛する公爵は国中の優秀な医師をひとり残らず集めたが、昏睡の原因は不明のまま。
ついに、あまり良い関係とは言えない教会にまで公爵が助けを求めたというのは、衝撃的な出来事だった。
(……どうして、こうなった……)
しかし、どうやら教会の高位にいる神官でも太刀打ちできなかったらしく、変わり者として煙たがれていたリンネにまで声がかけられた、今日。
『許せない許サないユルセナイユルセナイ――』
誰にも理解されないリンネの瞳に映るのは、黒い瘴気をまとう悪霊。
美しい令嬢の枕元に、本人と瓜二つの容姿をした霊が憑いていた――。
◇◇◇
多分、これは成功させないと大変なことになる。
自分が公爵に斬り殺されるなんて可愛いくらいで、もしかすると教会と公爵家の殺し合いにでもなるのではないだろうか。
リンネは目の前の状況を見て、そこまで悟った。
「…………死力を、尽くします。お嬢様に触れることをお許しいただいても、よろしいでしょうか……」
「許可する」
まだ十五歳で、神官の見習いをやっている自分がここに呼ばれたのだ。一縷の望みに懸けられたのだと、嫌でも分かる。
(――いや、教会から公爵への生贄として捧げられたと考えるほうがしっくりくるか……)
ディアナを助けられなかったら、自分に罪を着せて彼女の暗殺を図るぐらいのことはしてしまいそうな組織だ。
腹を括ると公爵の許しを得て、彼女はベッドの脇に跪いた。
『カエセカエセカエセカエセカエセ』
「…………」
本当は、絶対にこんなヤバそうな悪霊とは関わりたくない。今すぐにでも逃げ出して、教会に帰りたい。これ以上、普通じゃないと言われたくない。
それでもリンネはここに連れて来られてしまったからには、自分ができることをしないと今後の居場所がなくなる。
何より、人の命が掛かっているのだ。
曲がりなりにも人々に救済を与えるべく存在する教会に身を置く者として、逃げ出すことは許されない。
(こんなの、わたしに何とかできるのかな……)
しかし、今まで色んな霊を見てきたが、人間にここまで執着する霊は見たことがなかった。
とりあえず、一見しただけでもディアナが目を覚さないのは、この霊が原因だということだけは確信できる。
ただ、たとえ見る力がなくても、神官たちが正しい手順で祈祷をすれば悪い霊は天に昇るはずなのだ。
彼らが対処できなかったものを、自分が何とかできるのか。
リンネには不安しかなかった。
「……失礼します……」
悪霊とは決して目を合わせないように気をつけながら、彼女はディアナの手を取る。
白くて手入れの行き届いた美しい細い手だが、触れてみると何箇所か皮が固くなってタコができていることに、少し驚いた。
(すごく、努力される方なのかな……)
令嬢の手に触れるなど、これが初めてだ。
ペンや剣を握ってできたと思われるタコを意外に思いながら、リンネは壊れ物を扱うが如くそっと両手でその手を握る。
(魂に干渉するのは、自分もこの身体に帰って来られないかもしれないから、本当はやりたくないけど……。やるしかない……)
覚悟を決めると、リンネは目を閉じて集中した。
そして、眠る公爵令嬢の魂に触れた途端。
(――――なッ、何、これ……!!!)
膨大な量、リンネの中に流れ込んで来たのは魂の記憶――――。
ここではないどこかの世界で暮らしていたら、突然この世界のディアナ・グラジオラスになっていた。
きっと前世の自分は過労死して転生したと分かったが、その転生先はなんと、前世で読んでいた小説の悪役令嬢。
皇室を凌ぐ力を持つグラジオラス公爵家で、甘やかされて育ったディアナの人格は最凶最悪だった。
彼女の義弟や、奴隷の執事を初めとして、色んな男性キャラを苦しめた元凶であり、非道な性格はまさしく「悪」そのもの。
そんな彼女の末路は――死あるのみ。
この物語のヒーローは、帝国の第二皇子だ。
陰謀渦巻く皇室で生き残るべく、後ろ盾のない第二皇子が苦肉の策として傲慢令嬢ディアナと婚約を結んだが、運命の出会いを果たしたヒロインに救われ、困難を乗り越えて皇帝の座につく。
その過程で、ディアナ・グラジオラスは死ぬ。
それだけのことを、このサイコパスなお嬢様は物語の内でやってのけたのだ。
つまり、シナリオ通り進めば「私」は処刑されて死んでしまう。
また死ぬなんて嫌だ。死にたくない。殺されたくない。
けど、何より、傷付けたくない――。
この身体に転生したのなら、彼らを苦しめることなんてしたくない。
私はこの世界を知っている。未来を分かっている。
悲劇を回避して、悪役令嬢の被害をできるだけなくしてしまおう。
そのためには、まず、これまでの行いを反省して、信頼を取り戻さないと――。
魂に干渉したリンネには、無限にも思える時間と情報が流れ込んでいた。
それは、触れた魂の人生を追体験させられるようなもので、この身体に入った魂に一体何があったのかを全て教えてくれる。
「――――こ、こんなことって」
目を開くと、リンネは愕然としてディアナの顔を見た。
体質のせいなのか、魂の記憶を取り込んで理解するのには困らなかったが、彼女に起こった現象はとても信じ難いものだった。
(……彼女はこの身体に転生したと思っているけど、本当は憑依したんだ……)
今のディアナになったのは、八歳の時。すでに七年前のこと。悪霊がこれだけ強くなるわけた。
公爵が目覚めを待っているのは、悪役令嬢ディアナではなく、多分違う世界からきた魂の方だろう。
(この霊が、祓えない訳だ……)
神官たちが、身体を呪っている悪霊を祓えないのは当然だ。
何故なら、肉体を呪っている方が身体の主だった魂で、いわば生き霊。神官に祓えるのは、悪霊になってしまった死んだ霊だけなのだ。
つまり、理を正すために祓われるべきなのは、乗り移ってきた方の霊。
この身体の本来の主であった悪役令嬢ディアナの魂が身体を「返せ」と呪っているのは、必然のことで、この悪霊を消滅させるのは殺人も同じ――。
「何か分かったのか」
「――ッ、」
驚きを露わにしたリンネに、側で見守っていた公爵から声がかかった。
ハッと彼を見上げると目があって、リンネは我に返る。
(ど、どうしよう。きっとこれは、眠っている魂をあの世に還してあげれば収まる。――けど)
悪役令嬢に身体を返して、全く違う人格が現れたら、どうなる?
きっと、リンネが悪魔をこの身体にいれたとか、そんなことを言われて殺されるに決まっている。
真実を言ったって、それを証明できないのだから、誰も信じてはくれない。また頭のおかしい子だと言われるだけだ。
それに、本来のディアナが戻ってきたら、物語のシナリオのような悲劇が起こってしまう可能性が高い。生き霊なのに、ここまで瘴気をまとう霊になるなんて、基本的な考え方が残忍な人間くらいなのだ。
「公爵様にお伺い、します……」
「なんだ」
リンネは緊張でカラカラに乾いた喉で、声を振り絞る。
「あなた様が目を覚まして欲しいお嬢様は、七年前に階段から落ちて気を失ってから、心を入れ替えて公爵令嬢として相応しくあろうと努力なさる方で、お間違いないですか」
「――!」
「なぜ、それを――」
彼女の質問に公爵家は目を見開き、側に控えていたメイドのひとりが驚きの声をあげた。
「どうやら、今までの使えない神官とは違うみたいだな」
公爵はメイドと顔を見合わせて、リンネの言ったことが事実であることを確認すると、そう口を開く。
「この際、その質問の真意は問わない。お前の言う通り、私たちが待っているのは、自分の身を顧みず常に誰かのために尽力する、心優しい娘だ。――それが叶うなら何を犠牲にしても構わない」
公爵の意志を確認して、リンネは迷いを捨てた。
「――わかりました。必ず『彼女』を起こします」
やるべきことが定まった。
リンネはディアナに向き直すと、再び手を握って意識を集中し、呪文を唱える。
『ヤメロ、カエセ、ワタシの身体なのに!!!』
黒い瘴気を発する悪役令嬢が怨念のこもった声で叫んでいるが、耳を貸す訳にはいかない。
まずはこの悪霊のまとっている瘴気を祓って、呪いを浄化する。
『ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメ――』
リンネは負の感情から生じる瘴気を抑え込む。
死んでいない霊を完全に消すことはできないが、一時的に肉体に害をなす瘴気を消すことはできる。
(あなたは、しばらく大人しくしててください)
瘴気を取り払うと、悪霊は浄化されて大人しく眠りについた。
次は眠っているディアナを起こす作業だ。
リンネは呪文を切り替える。
この身体の主ではない魂との繋がりに、綻びが生まれたせいで目が覚めないことは、さっきの干渉で分かっている。
身体と魂を繋ぎ直せば、目を覚ますだろう。
事情を知らない神官たちが行った祈祷などのせいで、魂が傷ついてしまったのを修復しつつ、ディアナに憑いている魂の形を捉えて、身体に定着させていく。かなりの集中力がいる作業だ。
(これで――魂の定着はできた)
額に汗を浮かべながら、リンネは必死にディアナの身体を整えた。
体調が優れない人を癒すものとして使われている呪文が、上手く作用してくれたみたいだ。
「――ディアナ様。こっちです。お目覚めください」
あとは、意識の奥に沈んでしまったディアナの名前を呼び、戻ってくるように導くだけ。
「公爵様も、お名前を呼んであげてください」
知らない声が呼ぶより、身近な人の声の方が届くだろう。
リンネが彼を呼ぶと、公爵は躊躇なく令嬢の隣に膝をついた。
「目を覚ませ、ディアナ。みんなお前を待ってる。――ディアナ」
そして、彼が名前を繰り返した数秒後……。
「――――んっ。……お、とう、さま……?」
擦れてはいるが凛とした、声が部屋に響いた。
紫色の瞳を開いたのは、公爵の溺愛するディアナ・グラジオラス。
「ディアナ!!」
「えっ。ど、どうしたんですか、お父様!?」
公爵に抱きしめられた美しい令嬢を見て、リンネはホッとする。
「――終わった……」
自分のやるべきことはやった。
これで教会の面子も保たれ、不毛な争いも避けられただろう。多分……。
(疲れた。もう、意識が――)
安堵して力が抜けたのと同時に、リンネはそのままベッドの隣に倒れた。
見切り発車の闇鍋です。お手柔らかにお願いします…
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