手の病
私が県展に出した作品が、最優秀賞に輝いたということで、美術館にやってきた。特設の会場には、私のものと並んで、他の受賞作品も飾られていた。
写真のようなリアルさで描かれた、道路、校舎、遠景の山々、人、人、人の波が、僅かしかいない見る者を圧倒している。一通り、作品を鑑賞し終えた私が、それら作品群を、ソファに腰かけながら遠巻きに見ていると、私と同じ高校生であろうか、二人組がやってきて、すげぇな、と、私の絵の前で一言、心底感心したという様子で零すのが聞こえた。そんな小さな呟きすら、聞き漏らすことができない程に、静かな美術館であった。
二人組は、私を見つけると、軽く会釈して去っていった。彼らがいなくなったのを見計らうと、私は、あるはずもない人目を気にかけながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。革靴の音がうるさい。
十数歩の歩みによって、私は自身の絵の前に到着する。夕闇の中に佇む校舎を描いたものだ。本物の校舎と寸分違わぬ、写実に徹した絵は、審査員には“上手い”と判断されたのだろう。
「違う」
ぽつりと、口の端から漏れた声は、思った以上の反響を伴って、美術館から返ってきた。凪いだ湖に石を投げ込んだようで、気が引けたが、学芸員も警備員も、誰も注意をしに来ないということは、つまり、私は意見表明を許されたということである。
「絶対違う」
二つ目の言葉にも、誰も気に止めることはない。私に美術館からの是認が下ったと考えていいだろう。ならばと、私は肩から下げていた麻のバッグの口を開いた。
「止めなさい、君」
私が手を伸ばした、その時であった。誰かが私の肩を掴んだ。思わぬ阻害に、喫驚して声を上げそうになる私に、その人物は、美術館だぞ、と遠回しにたしなめた。
「私の作品ですよ」
「でも、皆が見たがってる」
「賞を取ってなかったら、見に来ませんよ」
それは、ただ絵を見せられた時と、ゴッホだ、或いはピカソだと言われた絵を見せられた時の感想が、大きく異なることからも分かるだろう。大抵の人間は、絵を見ていながら、絵を見ていない。
「それに、私の絵なんて、人に見せる意味がないんです」
「何故、だって、本当に良い絵だよ」
私は、無遠慮な賞賛を加える青年に、覚えず唇を噛んだ。分かっていないならばともかく、周りの人間は分かろうともしない。私の、絵を描くという行為に、本当の意味は未だ含まれていない。色の着いた習作を描き飛ばしているにすぎず、真に絵を見んとする人間にとっては、ここに並ぶ絵の大抵のものは、甚だ面白くないものとして終始するだろう。
「これは、こんなものは写真です、絵じゃない」
「んー、つまり君は、リアルに描くだけが絵画じゃないと言うんだね」
私は頷いた。確かに、私の思い描く理想は、リアリズムとは一定の距離を置くものだ。衝動、情念、パトス、エロース……、それらを煮詰めれば、非現実が塗りたくられた、心の内奥が見えてくるに違いない。それを描くべきであるのに、絵筆は上手くは動いてくれない。
「……どうやら君は、僕の友達とウマが合いそうだ。どうだい、彼のアトリエに行ってみるのは」
彼は訳知り顔で指を立てた。私が訝ったのはいうまでもない。いきなり美術館で話しかけてきたと思えば、素性の知れない、彼の友人のアトリエを紹介される。裏がありそうだと考えるのは、無理ないことだ。それでも私は、不思議と興味を持った。無理解な学校の人間は、上手い上手いと褒めそやすばかりで、私の絵を、写真と見比べることしかしない。彼らに比べれば、青年の友人なる人物の方が、私の考えに理解を示してくれると、そう思えたのだ。
落ち葉が風に導かれるように、私は青年の跡を着いていった。彼は、屋根の瓦の落ちかけたような、古びた一軒家の前で立ち止まった。
「ここが、彼のアトリエ。まぁ、実像はボロアパートなんだけどさ」
庭草は伸び放題で、敷石がなければ、立ち入ることすら厭われる。私は口を結んで、青年の後ろを歩いていく。
「おい、開けてくれ、僕だ」
インターホンを無視して、青年が乱暴に扉を叩く。そのインターホンであるが、見たところ、壊れているようだ。音がならないというのならば、ガラスの耳障りな音を出した方が早い。そんなことを考えている内に、家の中から、どすどすと音を立てて、誰かが近づいてくる気配がした。
それは、若いのか、老いているのかすらも分からない、怪異な容貌の男であった。猫背であるために、背が高いのかも分からず、伸びた髪を無造作にピンで止めた間から、濁った目が覗いている。その男は、青年の顔と私を見比べると、どうやら何かを察したらしく、爪の割れた黒い手で、中に入るように示した。
「お、おじゃまします」
引き返してしまおうかとも考えた私だったが、男の肩越しに、家の中の様子をうかがったことで、その気も失せてしまった。
玄関から続く廊下には、ゴミと共に画材が氾濫している。カップラーメンの容器の上に立てかけられた真新しい絵筆は、一見すると豚毛のようであった。そして、その奇妙なカーニバルの繰り広げられる、小さな大通りを見下ろす形で、何枚もの絵が額に入っている。それらはデッサンのようであった。黒鉛の重なりは、滝の飛沫の如く、紙面に迸っている。
「おい」
額の絵に見入っていた私の後ろで、低い声がした。件の男のものであろう、意外にもその声にはハリがあった。
「何で連れてきたんだよ、お前さぁ……」
「分かるだろ。ほっとけないんだよ、昔のお前みたいで。永川さんみたいな人は、今いないだろ」
「…………」
垢だらけの肌着の上から、湿疹の胸を掻きむしる男は、青年の言葉を無言で聞いていた。しかし、青年の言葉を聞く限り、この垢の男も、私のように迷ったことがあったということか。
「見してやれよ、お前の作品。卒業製作だっけ?」
青年は、胸ポケットから煙草を取り出しながら、部屋の奥、薄桃のカーテンで区切られた、外の光すら届かないような、森林のような一角を指し示した。垢の男は、青年から箱を奪い取ると、煙草一本を口に咥え、足元の紙の山を踏み分けながら、奥へ奥へと進んでいった。
「ん」
垢の男が持ってきたのは、サイズ三十号程の、埃を被って白くなったキャンバスだった。男は、落ちていたタオルで、表面を乱雑に拭いた。現れたのは、一つの巨大な目だった。
「これは……」
私は、開いた口が塞がらなかった。巨大な目が、絵と正面から向き合おうとする人間を、捉えて離さないのだ。キャンバスの横に広々と描かれた目の上下は、眼球の丸みを暗く投影している。瞳には、たった一つの光が映り込んでいる。その光が、蛍光灯のものなのか、ランプのものなのか、ただ絵を見ただけでは分からないであろう。
しかし、私には分かる。感じるのだ。これは延々燃え続ける火の明かりだ。その揺らめきが、怪しく迫る目を、暗闇に描き出すのだ。そして、その火の正体とは、即ち――。
「……ジッポーだ」
「そういうことだね」
絵に見入っていた、というより、引き込まれていた私を、二人の大人が見つめている。口には煙、手には炎。彼らはこの火に導かれて出会い、この火の明かりで切磋琢磨した。そして今、火は私の目の前で燃えている。この連綿と続く灯火こそが、青年が、そして、垢の男が伝えたかったことなのだろうと、私は悟った。
「何で、こんな目を描けたんですか」
写実でもないが、抽象化された訳でもない、ただそこに開かれているとしか、いいようもない目には、絵具と共に様々な感情が内包されている。私が求めているのは、その内包であるのだ。私は、中空を見つめ、何事かを考えている垢の男が、二度、三度と煙を吐き出すのを見ていた。やがて男は、言葉を探るようにゆっくりと、話し始めた。
「中学からずっと、人物画を描いてて。んで、初めは、表情とか動作とか、とにかく写実的に描けって言われてて。だけど、んぃや、何か違ぇぞって、思い始めたのが、大学二年の夏?」
「秋頃じゃない?」
「んー、そうか。まぁどうでもいいんだけど。それで、結局何を描くのかっつった時にさ、他人が写実で描けない部分まで書き込んでやろって思って。で、目を書くことにした」
目というのは不思議なものだ。意識的に動かすことのできる表情や手足と違って、如意にならない。垢の男は、鏡と睨み合う内に、嘘で塗り固めることの不可能な、瞳を、目を突き詰めようと考えたのだ。その虹彩を、瞳孔を描き切り、眼球の奥にあるものまで、描き抜いてやるという意気で。
「それで、このザマ。完全にハマっちまったよな、ははは」
煙草を口に咥えた男が、足元の紙に手を伸ばす。そこには、キャンバスに開かれた目よりも、一回り小さい目が、黒一色ながら、爛々と輝いていた。
「これじゃ、駄目なんですか」
「どう見たって違うね」
垢の男は、しかし、キャンバスの目にすら、満足していないようであった。私からしてみれば、何段階も高次の絵画であったが、男の脳にある、真の意味での目は、どうやら、さらに多くを語りかけるらしい。
「……それで、どうだい。全てを描いてしまおうとするコイツの生き方、描き方は。まぁ、こうなりたくはないだろうけど」
「あっ、ぅるせぇ、いちいち言うなよ」
さて、私はどうしようか。私は男の顔と自分の手を、じっと見比べた――。
それから、四十年程の月日が経った。私も既に還暦間近だ。月日が流れるのは早いもので、結局、今になっても描きたいものを描けていない。ただ、忍従して描いた絵は、好事家には売れるために、画廊を設けて、幾らかの金を稼げるようにはなった。
「よう、売れ行き上々か?」
そんな私に、老いた私に、親しげに声をかけてきたのは、あの時、美術館で出会った青年である。かつては爽やかで、柔和な顔が印象的であった彼も、今となっては、背も縮み、髪も薄くなってしまった。
「相も変わらず、閑古鳥ですよ」
乾いた声で自嘲的に笑うのは、嫌いじゃない。
「それは結構だけど、ところで、アイツに見せられるようなものは。まだできないか」
「私が死ぬまで無理なんじゃないですかね」
店の奥をうかがう青年、今となっては老人だが。私は頭を掻きながら応えた。店の奥は、基本的に私と彼しか立ち入らない、聖域なのだ。
そしてそこは、私がやり損なった絵画で溢れている。一面に、手、手、手の景色。キャンバスからメモ帳まで、ありとあらゆる紙に描かれている。
私は、運命の一日を通して、手を書き続けようと決めたのだ。一時期キュビズムも参考にしてみたが、一向に上手くはいかなかった。しかし、流石に四十年も続けていれば、及第点に僅かに届かないというような、そんな作品も出てくるものだ。
「これ、持っていってください」
「んん、これは……、あぁ、アイツの手じゃないか」
「木炭と黒鉛で真っ黒な、節だった手です」
「デューラーか」
「構図は似ていても、描いているものはまるで違うでしょう。この指は、虹彩の筋を描ける指です」
「もう少しだろうね」
「えぇ」
そこで私と彼は、何だかおかしくなってきて、思わず笑ってしまった。まったく、一枚だって売れたこともないのに。この営みは、何枚も描いては捨ててしまうようなものなのだ。赤字だ。困ったことに、私たちはそれを痛快に思っている。あぁ、何ということか。この手の病は、どうやら治りそうにない。