【夫と星を眺めたい】その1
それは珍しく雪の降らない聖日の事だった。
庭園付きの広々とした日本家屋。
手入れされた中庭を一望出来る場所に置かれた二人掛け用の木製の長椅子に、初老の女性がひとりで腰掛けていた。その長椅子は夫の手作りで、庭に出て夜空を眺めるのが好きな妻のため、若い頃に作ったものだった。不器用なくせに張り切って作るものだから、案の定寸法を測り間違えて少し傾いてしまっている。けれど、今ではその不器用さすら愛おしいと、彼女は年季の入った長椅子をそっと撫でた。
「貴女は本当に、此処で星空を見るのが好きですね」
庭を眺めながら待っていると、肩にストールを掛けられた。振り返ると湯気の立つマグカップを持った夫が微笑んでいる。その顔に浮かぶ優しさはいつもと変わらぬままで、人生のなかで一番愛したものだ。吊られて、自然と、笑みが零れた。
「今夜はとても素晴らしい夜になりそうだわ」
凍てつくほどの冷たい風が吹雪くなか、一台のソリが空を飛んでいた。ビュウビュウと吹く煩わしい風の音に負けじと、僕は声を張り上げた。
「アイス!!」
決して食べたいわけではない。この極寒のなか、冷たいアイスクリームを食べることを想像するだけでお腹を壊してしまいそうだ。
見渡す限りの雪、雪、雪。
前の国を出発して数時間もすれば、同じ景色ばかり見るのに僕はすっかり飽きていた。次の国は随分と遠くにあるため、到着まで時間がたっぷりあるのだ。狭いソリのなか。吹き荒れる雪。テレビもなければ、ゲームもない。とくれば、やれることは限られる。脳みそをフル回転させて知識と記憶を絞り出す高度かつ知性的な暇潰しをするほかないってわけだ。
「到着するまで皆でしりとりをやろうよ」
と言い出したのは僕だった。
しりとりは僕にとって都合の良いゲームで、単なる暇潰しであると同時に、前世にあったものが今世にも存在するかを知る手段のひとつなのだ。
本来、しりとりという言葉遊びはこの世界になかった。けれど、家族や従者達に広めたのは僕だ。周りの大人達はルールを直ぐに理解し、僕の暇潰しにいつも付き合ってくれた。そうして城から出たことのなかった幼い頃は、この遊びを通じて様々なことを学んだのだ。電話やインターネットなどの通信技術や、電車や飛行機といった交通機関が前世より遅れていることや、人々の妄信的な信仰心などもしりとりで知った。この世界ときたら、移動手段は徒歩か馬車が主流だし、遠方とのやり取りだって手紙か伝書鳩を飛ばすときたもんだ。そして魔法が当たり前のように存在し、世界中の人々が聖人をまるで神のように崇拝している。
正直、僕にはサンタクロースが絶対的存在という世界観にてんでついていけず違和感しかないのだけれど、この世界の住民にすれば僕の言動の方が不可思議らしい。時折、この世界に存在しないものの話をするたびに、家族や従者の面々は揃って首を傾げるのだ。
「ストック」
シャープが欠伸混じりに答えた。
「クリスマス」
間髪入れずにクランプスが続く。
「スマホ」
「なんそれ?」
何となく思い付いた単語を言えば、すかさずシャープが口を挟んだ。しまった。そういえば電子機器の類いは存在しないのだった。
隣で爪を研いでいたクランプスが「またか………」という顔をしている。クランプスは僕のことを、13歳にもなって未だに空想の世界に入り浸る困った子供と思っている。
「えーっと………便利な機械の名前だよ」
「はー?お嬢の作ったヘンテコ空想造語を使うんとかズルくね?」
「造語じゃないし!あるとこにはあるんだって!いいから、ホだぞ、ホ!」
「えー」
「ホ!」
不服そうなシャープを宥めてしりとりの再開を促す。シャープの疑問は最もだが、僕がうっかり口を滑らせるたび、いちいち流れを切られては面倒だ。
「シャープ、口答えするんじゃありません。早くホから始まる単語を考えなさい」
「クランプスさんはお嬢に甘すぎじゃね?もういい大人なんだしさー、そろそろ空想ごっこ止めさせた方がいいじゃんよ」
「お前の意見は聞いてません。主人をお待たせするんじゃない」
「へーいへい……………そんじゃあ、ホーリアキャロル」
クランプスの援護射撃もあって、シャープが渋々従った。
「ルーキー」
爪研ぎをしながらクランプスが言った。
「キーホルダー」
今度はちゃんと存在する物を言った。
「ダ………ダー………………ダーマインクラウス」
「はいストップ!」
少し考える素振りを見せたシャープが言葉を絞り出した。今度は僕が待ったをかける番だった。
「何だよそれ!?僕には文句言うくせに、お前こそ適当に変な言葉作るな!」
「ベファーナお嬢様、落ち着いて下さい。座らないと危険ですよ」
思わず立ち上がって抗議する。僕が暴れたくらいでソリはびくともしないけれど、クランプスは諌めるように言った。
「因みに、ダーマインクラウスはホーリアキャロル城で給仕係をしている眷属悪魔です。空想の産物ではなく、実在しますよ」
「………………マジで?」
「マジです。何度かお嬢様の部屋に朝食を運んでますから、会ったことがあります」
「………………マジで?」
「マジです」
気まずい沈黙が流れた。
いや、気まずいのは僕だけだが。だって仕方ないだろ。城にはたくさんの眷属悪魔がいるし、僕は物覚えが悪いから各々の名前を把握しているわけではない。クランプスのように常日頃からそばで仕えている従者の名前を記憶するので精一杯なのだ。自分に言い聞かせるように心のなかで言い訳する。
「従者ん顔も存在も忘れてん上に、名前にまでケチ付けんなよなー、カワイソーじゃんよー」
「そうですね!ごめんなさいね!」
「お嬢てばひっでーの」
「だからごめんてば!」
ここぞとばかりに追い打ちをかけるシャープの性格は悪い。先ほど僕がゴリ押ししたたことを根に持ってやがる。仕返しが出来て嘸や満足だろう。すっかり上機嫌なシャープに思い付く限りの悪態を吐くと、クランプスが呆れ顔をした。
「次は私ですね。スープ」
僕とシャープの口論を遮るようにクランプスが静かに言った。有無を言わせぬ圧力を感じて、2人同時に口を閉じた。
「………………プレゼント!」
自棄になって僕は叫んだ。
「トウェインバニーニ」
「はいストップ!!」
迷うことなく言ったシャープに、再び立ち上がって抗議する。この流れからすると、恐らくトウェインバニーニも眷属悪魔の名前なのだろう。そして僕はソイツの顔も存在も知らない。つまりシャープは僕の記憶力の悪さを鼻で嗤うために、同じやり取りを繰り返すつもりなのだ。そんなに僕と喧嘩がしたいのか。宜しい、ならば戦争だ。
「名前はズルいだろ!城で働いてる悪魔がどんだけいると思ってんだよ!百は超えんだぞ!?そんなの圧倒的に同僚のシャープが有利じゃん!」
「ズルくねーし。名前はダメって最初に言わなかったじゃんよー」
「言わなかったけど!知らない名前が出るたびに罪悪感がすごいんだからな!めちゃくちゃ苛まれるんだからな!」
「知んね。悔しかったら眷属悪魔全員の名前覚えてたらいんじゃん?」
「ぐぬぬ………僕が物覚え悪いの知ってるくせに意地悪だぞ………!」
「お嬢って頭悪いもんなー」
「お前はもっと発言をオブラートに包めってば!」
「だってホントのことじゃんよ」
せせら笑うシャープに殺意を抱く。すっかり言い負かされてしまった。腹いせにソリの縁を掴む鋭い鉤爪を力いっぱい殴るけれど、僕が右手を痛めただけで終わった。
「確かに底意地が悪いですよシャープ」
両手の爪を研ぎ終えたクランプスが参戦した。サンタクロースへの忠誠心が強いこの従者は何時だって僕の味方なので、これほど心強いことはない。自分が不利になることを察したシャープが口を噤んだ。
「いいぞ、もっと言ってやれクランプス!」
「そもそも、トウェインバニーニという名の眷属悪魔は存在しません。捏ち上げた単語で主人を誂うのは止めなさい」
「………………………え?」
今なんと?
「トウェインバニーニは存在しないの?」
「実在しません」
「つまり?」
「シャープが適当に創作したのでしょう」
呆れ顔をしたクランプスが言った。なるほど、つまりシャープは僕を誂って遊んでいたというわけだ。困り慌てふためく僕の姿に内心ほくそ笑んでいたというわけだ。シャープを睨み付けると、誤魔化すように下手くそな口笛が聞こえた。全然誤魔化せてないけどな。
「ふッ………………ッざけんなよ、このクソカラス!!僕の罪悪感を返せ!!」
「ベファーナお嬢様、お口が悪いですよ」
「お嬢は何でんかんでも信じすぎんよなー。悪いヤツに騙されんか心配なるんよ」
「心配なるんよ、じゃねーわ!平然と僕を騙そうとしてるお前が一番悪いヤツだろ!!」
減らず口を叩くシャープに負けじと言い返すものの、ちっとも悪怯れた様子もない。
シャープは眷属悪魔のなかでも新参者だ。まだこの世界に悪い仔が溢れていた頃、仕事中の親父にスカウトされて眷属に加わったらしい。相手が誰であろうと物怖じしない性格を気に入られたというが、親父は全くもって悪魔を見る目がない。シャープは豪胆なのではなく、ふてぶてしいだけなのだ。憎々しい口ばかり利いていたら、いつか絶対刺されるぞ。多分僕に。
荒ぶる僕の心境に呼応するように、先ほどから吹き荒んでいた雪風がいっそう強くなった。
寒いわけではないが、つい前世の癖でワンピースの襟を立てると、勘違いしたクランプスが自分の上着を僕の肩に掛けた。こういうさりげない気遣いが出来る眷属悪魔は少ない。クランプスのような男が前世にいれば嘸や女にモテただろう。
「………ありがとう」
「お気になさらず」
しかも女殺しな微笑みのオプション付き。ここまで完璧だと僻みも妬みも抱かない。むしろ僕もこんな風に余裕のある男になりたいと憧れてしまう。今の性別は女だけど。シャープも従者の端くれならば、少しはクランプスを見習うべきだ。彼の角か爪の垢を煎じて噎せて嗚咽しながら吐き出すほど飲ませてろうかと考える。
「………にしても、ひどい吹雪だ」
「だよなー。ちょー寒い………」
ぶるりと、シャープが巨体を震わせる。相変わらず寒いのが苦手らしい。雪空のなかソリを運搬するサンタクロースの従者として、それってどうなの。
「いつもそればっかだね、お前」
「えー?だって寒いもんは寒いんよ。お嬢だって、実は寒いんじゃんね?やせ我慢してんじゃんね?」
「ねーわ、僕等が寒さに強いのは知ってんでしょ」
ノエル一族の聖人聖女は体の構造が常人のそれとは似て非なる。吹雪のなかの移動や極寒の土地での仕事も難なく熟せるよう、僕等の皮膚は断熱性が非常に高い。それは皮下に分厚い脂肪を蓄えているアザラシやオットセイと似ていて、体幹部の熱を外に逃がさないのだ。海生哺乳類のような脂肪層こそないものの、僕等は南極のような寒冷地でパンツ一丁で駆け回っても平気なくらい頑丈なのだ。「子女がはしたない」とクランプスに怒られるからそんな事しないけど。
「性懲りもなく下らない発言をして主人を煽るのは止めなさい、シャープ」
戯れ言ばかりのシャープをクランプスが窘めた。手のかかる子供に言い聞かせるような口調だ。
「お前は口よりも翼を動かすこと。予定時刻に間に合わなければ承知しませんよ?」
「よく言うわー、クランプスさんだって今の状態けっこー楽しんでるじゃーん」
その時、僕は聞き逃さなかった。
口達者なシャープがボロを出した瞬間を。
「あ!!!」
「ギャッ!?しまった!!」
僕が大声を出すと、自分の失態に気付いたシャープが叫んだ。クランプスが迷惑そうに耳を塞いだ。
しりとりの良いところは、ルールが単純で分かりやすい点だ。前の人が言った語の、語末から始まる語を順番に言い続ける。そして語末に【ん】が付く語を言った者が負けとなる。途中から単語ではなく会話文でのしりとりに変化していたが、些細な事は気にしてはいけない。肝心なのは、シャープが語末を【ん】で終えたってことだ。
「やったー!シャープの負け!」
「己しりとり苦手だわ………難しいんよ………」
項垂れるシャープの姿に、思わずガッツポーズをする。いつもは饒舌な従者が押し黙るさまはとても気分が良い。ふふん、油断してベラベラと舌を回しているからそうなるのだ。
「そうだ!せっかくだし、一番多く負けたヤツは罰ゲームすることにしようぜ!」
「言っとくけど、自分が優勢になった途端に理不尽なルール追加すんの、お嬢ん悪い癖だかんな」
「何しよっか?」
「すんげー楽しそうじゃんね」
僕の素晴らしい提案にシャープが顔を顰めた。いつもは何でもかんでも悪乗りするくせに、いざ自分が損をするとなると気乗りしないらしい。わかりやすいヤツだ。
「ではペナルティとして黒星の数が一番多い者を短剣で刺しましょう」
代わりに、珍しく乗り気なクランプスが挙手した。しかし罰ゲームの内容があまりにも度が過ぎていて、今度は僕が顔を顰めることになる。クランプスが懐から取り出したナイフをちらつかせた。お前いつも持ち歩いてんの?
「ペナルティが重すぎるわ………それ罰ゲームじゃなくて拷問だよ」
「命のやり取りをしてこそ、真の戦いなのでは?」
「ただの暇潰しにそんなの求めてないから。命がけでしりとりするヤツなんかいないってば。クランプス、いいからナイフを仕舞え」
「では一番黒星の多かった者は、一番白星を多く獲得した者の命令を訊く、というのは如何でしょう?」
ナイフを鞘に戻しながらクランプスが言った。先ほどよりもましな提案だったが、シャープが異議を申し立てた。
「そんなんお嬢が勝ったらいつもと変わんねーじゃん」
「確かに」
従者は主人の命令に絶対服従。
これはどこの世界でも同じようだ。
眷属悪魔はサンタクロースの言うことならば、下らない我が儘でも恭順しなければならない。とんでもなく劣悪な職場環境。過労死は必然的。不死身の悪魔じゃなければとても務まらない仕事だ。どうせクランプスは僕を勝たせようとするし、シャープは放っておいても自滅する。僕が命令して、それに彼等が従うというのはあまりにも不変的でつまらない。どうせならば普段と違うことがしたいと僕は思った。
「では………勝利を掴む為に、私も本気を出しましょうかね」
けれど、直ぐに考えを改めた。首を回して肩慣らしするクランプスの発言に、僕もシャープも戦慄を覚えた。元々冷えていた空気がさらに凍り付いた気がする。
このクランプスという悪魔は冷静で理性的に見えて、その実無茶苦茶な事を平気でする。サンタクロースへの忠誠心は高いが、自分の意思はちゃんと持っている。だからその行為が多少乱暴でもサンタクロースの為になると思えば強引に実行する。一時期新人の眷属悪魔の教育係をしていた頃は、指導が厳し過ぎてあの楽観的な親父が待ったをかけたほどだという。
そのクランプスが主従関係なく相手を服従させる命令権を手に入れればどうなるか。一体どんな(クランプスにとって)愉快で、(僕等にとって)苛酷な罰ゲームをさせられるか。想像したくもない。
クランプスの命令は、イコール僕等の死に直結する。
その時、僕とシャープに芽生えたのはクランプスを勝たせてはならないという共通認識と、自分が最下位になりたくないという敵対心だった。
「これは………本腰いれんと命の危険があるじゃんよ………!」
「負けられない戦いが、ここにあるッ………!」
「さて、次はベファーナお嬢様からですね。どうぞ」
「イエッサー!!」
「おんしゃぁああ!やんぞぉおお!!」
斯くして始まったしりとり勝負は、クランプスの圧勝で終わった。一番多く負けたシャープは、次の国に到着するまでずっと啜り泣いていた。