東の空に青い鳥
青い空に鳥は飛び立ち、鳥ではないものも飛び立った。
晴れ渡る空間に太陽の光を浴び、核弾頭がキラリと光る。
そこは一面の花畑だった。白くて小さな花が地面を覆って咲き乱れ、そよそよと風に吹かれている。
正しくは花畑ではなく野原だ。人の手が入ったような整った花ではなく、素朴な野花の原。
だから、気を使うことなく敷物を敷いてお弁当もできる。
今は一組のカップルがそこにいた。
淹れたてのお茶を渡されて、若い男がふうふうとティーカップを吹いている。 若い女との間にはチョコ菓子の箱が開けて置かれていた。
静かでささやかなお茶会だった。そこに、声をかける者がいる。
「あのう……すみません」
男女は振り返った。
そこにいたのは整ったとは言いがたい身なりの中年男だった。袖や裾の擦り切れた服は叩けば埃がよく飛びそうだし、ボサボサの頭はいつ櫛を通したかわからない様子。ただ、自分の姿をよくわかっているのか、少し離れた場所で恐縮しながら頭を下げている。
「すみません……東は、こっちの方向でいいでしょうか」
と、花咲く野原の向こう側を指差した。
「東?」
カップルの男の方が、指をあげ頭をめぐらせて
「あっちが南、こっちが北……ええ、だいたい合ってますよ、そっちです」
と請け合った。
「ああ、良かった。ありがとうございます」
言われた方角を見やった中年男に、若い男は聞いた。
「行くんですか? 何もないですよ、この先」
「ええ、行きます。何もなくても、行くのです」
「そっちは本当に山なので……町は今来たところから下って、国道に出たところで右に行けば近いですが」
「いえ、大丈夫です。東に行かなきゃならないんです」
ここで若い女が口を挟む。
「あなた、疲れてるようだけど大丈夫かしら。お茶でも飲みません? 少しですけど」
中年男の喉がごくりと上下した。よほど喉が渇いていたのか、とたんに嬉しそうな笑顔を見せて口調が早くなる。
「いいんですか? じゃあお言葉に甘えまして……すみませんね」
そそくさとビニールシートに膝を寄せて、紙コップの紅茶を両手で受け取った。
「ああ、美味しい。ありがたい」
熱いお茶を懸命に飲む中年男に、若い女は興味を見せて少し前のめりで質問する。
「なんだか事情がおありのようだけど、あなたどこから来たの?」
中年男は茶を啜りながら、こともなげに答えた。
「カリフォルニアです」
思わず黙った男女に、慌てて説明を付け加える。
「あ、出身という意味なら日本ですけど。ここに来る前にいたのはカリフォルニアです。戻ってきてしまいました」
「どういうこと? 戻ってきたって、お仕事か何か?」
「いえ、仕事は随分してません」
やっと飲める温度になった紅茶をじっくりと呷って、中年男はしみじみと言った。
「そうですね、お茶のお礼にお話しましょう」
一緒に礼を述べるように、ピルピルと軽快に響く鳥の声が挟まる。
「私も以前は普通の会社員でした。ですが友人に騙されて、共同で出資した事業が焦げ付き、借金を負いました。友人は逃げて連絡が取れなくなり、困っていたところ親が倒れました。ちょうどそのころ不景気のあおりで、勤めていた会社が倒産。借金も返せなくなって破産宣告しました。親を亡くし、私も病に倒れ、入院していた病院から出てきた時、帰る家も無くなっていました。借金のカタに差し押さえられてしまったのです」
「それは……まあ……なんというか」
何ともかんとも、言い辛い感想を挟もうと、若い男は苦しげに呟く。いやいや、と中年男は手を振ってみせた。
「昔の話です。大丈夫ですよ……さて、全てを無くした私は絶望しました。どこにも行くあてもない。ぼうっとしながら町をただ歩いていると、路地の隅に机を出している老婆がいました。占い、とテーブルにかけていた布に書いてありました。占い師だったんです。私は……何故だか私は、そうしなきゃいけない気がして、ふらふらとその前に立ち寄り、聞いたんです。『私はどこへ行けばいいんでしょう』と」
当時の苦境を切に訴え、時には感情あふれて涙ながらに語るのを、老婆はずっと、黙って聞いたという。そして最後に言ったのだ。
『東に行くといい。そこにアンタの幸せがある』
「……なので、私は東に行くことにしました。幸せが待っているのなら、どこまでも行こうと。何しろ、行くあてがないのですから、どこに行こうと自由です。それからずっと東を目指して旅してきました。長い長い旅でした」
「ずっと……東を」
「ずっと東を。海に当たり、私は船に乗りました。大きな山もありました。踏破するのも、随分と苦労しました。いろんな国に渡り、雑用で小銭を稼ぎながら、方向だけは間違えず東へ東へとやってきたのです」
そしてここに至るのだ。途方も無い話に男女はしばらく黙って野原を見た。白い花が思い思いに、ふわふわと揺れていた。
「だから、行かなければなりません。ごちそうさまでした。私は旅を続けます」
「あ、でも、ねえあなた」
若い女が急いで止めた。
「あのね、この世は終わるのよ?」
「はい?」
立ち上がりかけた中年男性は中腰のまま動きを止めた。
「この世の終わりなの。みんな死んでしまうの」
「この世、ていうか、地球は終わらないな。人類は終わりそうだけど」
若い女の説明に、若い男が頭を掻きながら補足する。
「ニュース、見てないんだな。世界の偉い人たちがケンカしてね。交渉決裂でドンパチやっちゃったんだ。あっちの国からこっちの国にミサイル撃ったら、こっちの国からそっちの国にも報復ミサイルが飛んだ。一回飛んじゃったらやられる前にやらないといけないから、世界中のミサイルが我先にと飛び出して、今、地球の空は大渋滞なんだ」
「今の戦争って早いのね。何事も急かされる世の中だからね」
「あと数分なのか数十分なのか知らないけれど、もうミサイルは遊覧飛行を終えて落ちてくる頃だ。高性能な核シェルターを自宅の庭に持ってる金持ち以外は、みんな最期の時を過ごしているよ」
ああ、それで、と中年男は頷いた。
わざわざ重いティーセットをピクニックに持って来たのはそのためだったか。恋人と二人、綺麗な景色の中でゆっくり過ごすのは、確かに人生における理想の引き際だ。
「それは知らなかった……いや、でも、それなら尚のこと、邪魔しちゃ悪いですよ」
よっこらしょ、と中年男は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「ご親切に、ありがとうございます。私は行きます。それが私の生き方なので」
東に、幸せが待っているので。
小さくもしっかりと言葉にする中年男に、カップルはもう止め立てしなかった。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい。お幸せに」
「ありがとう。あなた方も」
「ええ、ありがとう」
鳥が鳴く。蝶が飛ぶ。
のんびり続く、長閑でささやかなお茶会だった。
「いい天気ねえ」
菓子をひとつ摘んで若い女は言った。
「ピクニック日和だわ」
「うん」
残された男女の頭上に、縦横無尽、白い軌道が空に升目を描いていった。
……さて、先を目指す中年男は野原を越えて雑木林に足を踏み入れていた。
涼しい木陰に木漏れ日が落ちている。さくさくと落ち葉を踏みしめて林道を行くと、向こうに木々の切れ目が見えた。
中年男は、そこにたどり着いた。林の出口にパタリと足を止め、枝葉のフレームをつけた光景を、しばらくの間じっと眺めていた。
「ああ」
低く呻き、よろけた体を立ち木に手をついて支える。その場に膝をついた。嗚咽がもれた。
流れる涙をそのままに、中年男は必死で目を見開こうとしていた。そこにあるものを、余す所なく焼き付けようというように。
「ついた……やっと来た。ああ…………幸せだ」
その瞬間、世界は真っ白に染まって動きを止めた。
彼が見たものは何だったのだろう。
この世のものとは思えない声を持つ鳥だろうか。えもいわれぬ芳香の花だろうか。それらの、とても美しいものだったろうか。
あるいはこの旅を終わりにしてくれる獰猛な獣なのだろうか。逆説的に。
それとも、東へ、東へ、一心に進んだ幸せの在り処は、この星をぐるりと回って再び巡り合ったものなのかも。新たに手に入れたものではなく、いつかあそこに置いてきたものだった……?
いずれにせよ、その瞬間、彼は確かに幸せだったのだ。
あなたは何だったと思いますか?