映画「虐殺器官」感想
アマゾンで「伊藤計劃論」を販売しております。興味を持った方は是非どうぞ。
映画「虐殺器官」を見ました。感想としては(やっぱり、厳しかったか)という感じです。そもそも原作は微妙なニュアンスを含んだ、それ故豊かな作品で、それが伊藤の独特な文体によって表現されています。それを映像にするのは難しいのですが、大切な部分は骨抜きになり、物語や饒舌な政治哲学などの骨格だけが残ったという印象を受けました。
作中の言葉で言えば「人は見たいものだけを見」ます。製作者は自分の認識力の範囲内で制作物を作ります。鑑賞者は自分の理解力にしたがって作品を見ます。したがって、AとBが全く同じ映画を見て「面白い」と二人共言ったとしてもその内容が全く違う事はありえます。
「虐殺器官」(以下、原作は「原作」と呼ぶ)を作った製作者は、原作をおそらく、ユニークな哲学が散りばめられた作品と読んだのでしょう。少なくとも、原作をナイーブな一人称が重要となる小説作品としては読まなかった、読んだとしてもそれほど重視しなかったように思われます。
そもそも、原作はどういう話でしょうか。僕は、原作は二つの物語が交差して、それが一人称の語りによって統御されているのが特徴であると考えます。(自分は、伊藤はこれをテッド・チャンから学んだと考えています)
一つの物語は、「僕と母の物語」で、もう一つは「僕とジョン・ポールとルツィアの物語」です。そうしてこの二つの物語が一番最後に、主人公を挟み撃ちのような形で破滅させます。主人公「僕」は狂気に陥ります。
原作は何よりも、主人公のナイーブな一人称で語られています。この一人称における語りの不安定さ、青臭さというのが作者が苦心した所でしょうし、この語りが全てを統御しているというのが何より重要となってきます。そこでは、殺し屋である主人公が自らの苦悩を(テクノロジーによって)感じる事ができない、その焦燥がうまく語られています。そうして、あらゆる事が「仕事ーシステム」に吸収されている為に、苦悩にも葛藤にも到達できず、主人公は成熟できない、だから彼の語りは未熟なのだ、という計算が作者の方にあります。これは作家としてかなり高度な技術と言えるでしょう。
他のSF作家なんかで、未来のテクノロジーをリアルに描ける才能がある人もいます。しかし、それはただ展示会のようにテクノロジーを見せているだけだったりします。そういうものに、背後から根拠や意味を付け加えるというのは至難の技です。伊藤計劃はそれを「虐殺器官」という作品で一応やり通しました。とはいえ、「虐殺器官」はデビュー作ですし、完全にうまくいった作品とは言い難いでしょう。ただ、テクノロジーの問題を個人の苦悩や葛藤、生とは何かという文学的問題とスムーズに繋げたというのは、伊藤計劃の独創であったと思います。これは伊藤はまだ完全にやり通せなかったと思いますが、彼はそういう方法論を先達から学んで自分の中に構築したと思います。
他の人も言及していますが、伊藤計劃は作中の様々に盛られたテクノロジーの問題や、政治哲学の問題をあくまでも一人の人間の苦悩や葛藤を通じて描こうとしていたのであり、その為にもうひとつの物語、「母との物語」が大切になってきます。伊藤計劃はただ、社会に対する言及だけを良しとしたのではなく、それに対して言及したのは『誰』なのだという問題を常に考えていた。そしてその『誰』=『僕』にとって、母親が自分を愛してくれていたに違いないという感情は非常に重要なキーとなってくるわけです。
ちょっと僕も語りたい部分が語れていない気がしますが…映画に戻りましょう。映画「虐殺器官」では母親の話は完全にカットされています。尺の都合でカットするのはわからないでもないですが、これをカットするというのは、主人公の一人称の語りが何故そんな語りなのか、それを示すという意味でも母との物語は原作にとって必須なものだという意識がなかったのではないかと感じてしまいます。
また、映画版は、原作に比べればニュアンスがかなり削ぎ落とされています。確かに、原作は暗い話ですが、同時にユーモアもあり、滑稽さもあります。そこには優れた作家にはよく見られる「矛盾」があります。ここで言う「矛盾」とは、ユーモアと深刻さが同居するようなもので、言ってみれば葬式の時にプッと噴き出したくなるような感じです。この時、この人が噴き出したからといって、この人が故人の死を悲しんでいないと考えるのは早計です。人間の感情とか無意識とかは普通思われているよりも遥かに複雑なものですが、我々はそれを単純・平板化して見ます。ベストセラー作品を見ると、そこでは大抵人間の平板化が行われています。逆に言えば複雑な作品でも、単純に見たい人には面倒なニュアンスは排除してストーリーや出来事のみを追うのでしょう。
原作はその文体から、色々な感情がうねるように表白されていて、それこそが伊藤計劃が一人称にこだわった理由でしょうが、映画では、全体的に深刻なだけの話になっています。そこでは原作では発生していた滑稽さとか、様々なニュアンスが排除されているように見えます。それと共に、主人公の魅力も減っていると思います。主人公は能力の高いイケメンエリートにしか見えなくなっている。これだとどうしても、原作の良い部分がなくなっていると感じられてしまいます。
もっとも、映画自体は相当頑張って作られたのだなと感じますし、「これ以上」を求める方が無理なのかもしれません。形を変えて本質を残すというのは「無理」というぐらいに難しい作業なのかもしれない。
何度も言いますが、原作はうねるような語りを主軸とした一人称小説です。この語りの波の中で、読者はシェパードという主人公の感情の流れを体験します。それと同時に、実際現在の世界で起こっている情勢、その帰結にも想像を巡らせるのを要請されます。例えば、先進国の人間が安くて良い商品が買える為に、後進国で少年少女が奴隷のように働いていても、我々は平気でショッピングに行き、デートに行き、友達と映画を見ます。それを「おかしい」と言うと「おかしい」と言う方が間違っていると言われます。企業は「お客様第一」と考えて、従業員を蹂躙したり自然を蹂躙したりするかもしれない。しかし、それが「お客様第一」であるのはとにかくも真実だったりします。
こうした情勢に対してまともに怒るというよりも、それらの全てを、シェパードという一人の人間の視野、思考、感情によって語りきりたいというのが、伊藤計劃という作家の、正当な作家的願望と言えるかと思います。
だから、もしこの原作を映画化するというのなら、自分であればそれを中心に作ります。主人公のシェパードがどんな人間か、彼は何を見てどこにたどり着くか、それを主軸にします。それは自分がよく言う、「世界とは客観的なものとしてあるのではなく、主体に映った客観としてある」という話に繋がってきます。もっと言えば、純粋な客体世界などないというカント的なものです。
ですが、映画は、そういう風ではなく、事実の集積としてのストーリーがあるというようになっていました。そこで、主人公が何故あのような決断に至ったのか、わかりにくくなってしまった。映画だけ見ても、そこで語られている政治哲学とか、感覚が麻酔されている状況などは興味深い。ですが、「それら」を統御しているのが「主体」であるという認識が希薄です。その為にわかりにくい作品になったかと思います。
原作の最も重大なポイントである結末部を、引用してみようと思います。これが原作の一番大事な所と思えるからです。
『ぼくは罪を背負うことにした。ぼくは自分を罰することにした。世界にとって危険な、アメリカという火種を虐殺の坩堝に放りこむことにした。(略)
とても辛い決断だ。だが、ぼくはその決断を背負おうと思う。ジョン・ポールがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。
外、どこか遠くで、ミニミがフルオートで発砲される音がする。うるさいな、と思いながらぼくはソファでピザを食べる。
けれど、ここ以外の場所は静かだろうな、と思うと、すこし気持ちがやわらいだ。』
(伊藤計劃 『虐殺器官』)
映画では、製作者は、主人公がジョン・ポールの遺志を引き継いだという風に描かれていました。しかし原作で、ここはかなり微妙なニュアンスの箇所です。それと共に、文学的にも最も優れた部分と言えると思います。
原作における主人公は、僕は『気が狂った』のだと思います。ただ、狂気というのは内部においては正当化されています。この事を我々は普段、徹底的に考えてみません。何故かと言えば、我々は我々が正常だと考えているからです。人にこの問いを何度かぶつけてみた事がありますが、基本的にはスルーされました。彼らにはそもそも僕が何を問うているのかがわからなかったのだと思います。
僕は主人公は『狂った』のだと思います。具体的には原作『ニュース・クリップで適切な文法で~』以下の文章です。ここで、一人称の調子が若干変化しています。これは狂気の後の、地獄そのものの世界です。しかし、真に地獄の住人になった人間には地獄は『地上』なのです。例えばこんな文章ーー
「こうなることはわかっていたから、ぼくは家に食料をたっぷり溜めこんであった。それを狙ってやってきたこそ泥をライフルで射殺したが、その死体はまだ玄関に転がっていて、どうしたものか実に悩ましいところだった。」
「実に悩ましいところだった」という箇所に注意しましょう。ここで、主人公はそれ以前であればこんな風な反応はしなかったはずです。作品全体を俯瞰すれば、彼は冷血漢ではありません。むしろ、必要以上に色々な事を気にする繊細な男です。その繊細な男が感覚をテクノロジーによって鈍麻させられ、システムに吸収され、「有能な殺し屋」になれてしまうというのが現代の悲劇だと伊藤計劃は感じていたと思います。ですが、この箇所では主人公の心は壊れているが為に、その一人称も破壊されています。その為にこのような、死体に対しても、舌なめずりするような、今すぐにでも奇妙な高笑いをしそうな、そんな感情が文章として現れているのだと思います。
それに対して、映画版の終わりは、ラストをそれなりに整ったトーンで終わらせてしまいました。製作者は最後のシーンの意味を読みきれず、ジョン・ポールの遺志を継いで殺戮をするというような話にしてしまいました。その為に、主人公の一人称の語りが歪んでいく様が全く現れず、見ていると、この主人公が一体どんな人間なのかよくわからないままになってしまいました。
原作は基本的には一青年に起こった悲劇であって、逆に言えば、我々がシステムとかテクノロジーとかを過大に広告しているとしても、それは文学的には(小説的には)一青年の告白とか心情によって回収されうるのだという作家的心情とも繋がっていくでしょう。あるいはこれが間違っていると言うなら、こう言った方がいいかもしれない。テクノロジーやシステムがどれほど進歩しようと、我々は人間である、と。人間が人間である限り、苦悩や葛藤は存在し、文学や芸術は存在しうる。逆に言えば、我々から苦悩や葛藤が消えたならば、それは人間ではないと言えるかもしれません。この問題について伊藤計劃は次作で検討したと言えるでしょう。
さて、映画のラストは「これが僕の物語だ」というセリフで終わっていました。他の人も指摘していましたが、原作のラストを省くというのは、やはり問題があるという気がします。これは母親の話を削ったのよりも問題で、最後の主人公のセリフ「~すこし、気持ちがやわらいだ。」というのは重要で、ここで完全に心がぷっつりと折れて、精神が葛藤するのをやめてしまったわけですが、にも関わらず、ここには安堵とか休息とかがあります。
ここで主人公の「語り」はねじれて、狂気に至ってしまったのですが、これは語られず示されます。語りそのものの変化によって主人公の内情はまさに示されます。通俗作品では狂人は狂人として、善人は善人として、悪人は悪人としてでてきますが、ここで主人公の語りはその語りの変化によって示される。何故そんな風な念のいった方法論が取られるかと言えば、そもそも人が狂人であるか正常であるかは分割もできず、決めつける事もできない。理性的に考えればそこにはある心情、言動をする人間がいるにすぎない。だから、僕が主人公が「狂った」と判断したのも、語りの変化からそう判断して、強引に規定したというにすぎない。この規定や対象化に対して、人間存在は反抗するものであると思いますが、人々の認識に合致「したい」作品は人間を類型として示します。その方がわかりやすいからです。
長くなりましたが、要するに、映画版では、ところどころに興味深いテーマや哲学、テクノロジーなどが映像として、会話として伝えられますが、主人公が単なるエリートイケメンになってしまっている為に単調な作品になったと思います。原作において、主人公は外面的にはそう見えたのかもしれませんが、内面は外面とは違っていますから、この差異をどう処理するかというのが問題になっていたかと思います。映像表現はそもそも三人称的ですから、出来事を描くのは便利ですが、心情を描くのには工夫がいる。もちろん、映像で人間を描くのは可能ですが、その場合、原作で現れていた主人公の内面をどう映像で捉えるかという課題は映画では実行されておらず、取り組まれてもいないように見えました。
トータルで見た時、映画版「虐殺器官」はそこそこにユニークな、面白い知見も入っている作品ですが、全体的に単調な陰鬱さで起伏のない作品になったと思います。原作は陰鬱なようで、様々な感情や滑稽さも取り入れられています。そういう単調さと豊かさが映画版と原作では違っています。そうしてその豊かさは、類型を破って語りが溢れてくる、なおかつその語りによって様々な問題を統御しつつ、主人公の狂気に至るまでの過程として描かれているわけですが、それを映像はうまく体現できていないと思いました。もちろん、映像作品によって「虐殺器官」と同等かそれ以上の傑作を作るのは可能でしょうが、そうなるとまた原作者とは違う才能と違う方法論を用意しなくてはならない。
作品の価値はストーリーやキャラクターだけに求められるのではなく、作品全体を更生する哲学(作者の魂)とそれが現れてくる細部との対象関係がより重要になってくるかと思います。そういう意味では、そうした全体に結晶できなかったのが、映画版「虐殺器官」だったと思います。