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輪廻の匠  作者: オオクマ ケン
4/6

    六



 「輪廻の匠」店内

カウンターの上には二枚の紙が置かれていた。

「何これ?」

輪廻はコーヒーを入れたコップを二つ持ってくる。自分の分と唯の分だ。

「私が歴史学の授業で書いた論文の一部よ」

唯が自慢げに話す。

「明治維新に起きたマリア・ルス号について取り上げた文よ。良く調べたでしょ?」

「ああ、『マリア・ルス号事件』ね」

「そうよ、あ、コーヒーありがと!」

そう言ってカップを受け取る唯。

「じゃあ、読ませてもらおうかな?」

「いいよ」



 

 

 マリア・ルス号について     相馬唯

  

  1

 

 マカオ・ポルトガル領

帆船マリア・ルス号は天候の悪化を恐れていた。船長のリカルド・へレイラは航海の行方を練っているところだった。マリア・ルス号は南米ペルーのカヤーオ港まで行くため、これから航海に出ようとしていた。

船の中には二百三十一人の清国人たちが乗せられている。全員、清国のあちこちから生活困窮者たちを労働者としてかき集めたり、騙して誘拐、拉致してきた者たちを苦力クーリーという単純労働者とされた人たちだった。

そして天候を心配しながらも帆船マリア・ルス号は出航した。


 その後、一八七二(明治五)年七月五日夜九時、嵐によりマストを一本折ったマリア・ルス号は航海の途中、緊急に横浜港に入港した。これから航海を続けるためには、そこで船の修理をする必要があったのだ。損傷を受けたマリア・ルス号は、運上所という当時の出入国管理事務所に修理の期間として三週間の停泊許可を求めた。当時は日本とペルーには国交は無かったが、運上所は緊急避難措置として黙認という形で入港許可を出した。

横浜港にはイギリス戦艦アイアン・デューク号の姿があった。しかしへレイラ船長は、それには目もくれずアイアン・デューク号の隣にマリア・ルス号を停泊させた。

 

 その五日後の七月十日深夜、マリア・ルス号から中国広東省出身の木慶もくひんという男が逃げ出した。その男は深夜にもかかわらず、海に飛び込み、泳ぎ彷徨っていたところをイギリス戦艦アイアン・デューク号の乗組員に発見され、引き上げられたのだ。その男はイギリス戦艦に保護を求めた。

 アイアン・デューク号の艦長は日本政府へ木慶の身柄を引き渡した。日本の神奈川県は英国領事からの勧告で一度は保護に応じるが、ペルーでのマリア・ルス号が奴隷船であるということと、その実態を日本政府は知らなかったために、日本側は木慶をマリア・ルス号に返してしまった。

木慶はヘレイラ船長の命令で船員から虐待を受け、苦力全員は監視下に置かれた。

 しかしその四日後、今度は郵安とーあんという別の苦力がマリア・ルス号から海に飛び込み、脱走した。日本政府は郵安を保護した。そしてこれをきっかけに英国領事はペルー船マリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対して清国人苦力を救助要請した。




  2


 第一回裁判


マリア・ルス号の船長リカルド・ヘレイラは裁判所に呼ばれた。

外務省の外務大臣、副島種臣は二十五歳の神奈川県令、大江卓を裁判長に任命した。当時、日本の自治体(都道府県)には司法権を有しており、裁判長は県令が務めていた。八月二十二日に奴隷船マリア・ルス号の出航停止処分、および清国人苦力の全面解放を条件にマリア・ルス号の出港を許可するとした。八月三十日、第一回法廷「苦力への虐待は不法行為。なので開放すべき」との判決を言い渡す。それに対しヘレイラ船長はそれを上告。



 第二回裁判


 マリア・ルス号の船長リカルド・ヘレイラに対し、契約の無効と自殺した二人の清国人を除く、二百二十九人を清国へ戻すことを判決とした。

十月十五日、日本政府は清国人苦力の全員を清国側へ引き渡すこととなった。

リカルド・ヘレイラ船長は情状酌量により無罪。

これは日本にとって最初の国際裁判であり、初めて国際法廷の場で勝訴を勝ち取った事件である。



「どう?良く調べたでしょ?日本もやるわね!こんな歴史があるなんて」

「確かに良く調べている。うん、大体ね。でも不十分」

「どこが?」

「私が書いた続きを見てみる?」

「え、そんなのあるの?」

「ええ。参考にするといいわ」

そう言うと、輪廻は飲み終えたコーヒーのカップを持ったまま、奥に行って紙が入ったファイルを取って来た。

「これよ。読んでみて」

「うん」

ページを開く唯。


 

  3


 裁判の後、ペルー側から日本側の一方的な判決に不服があるとし、リカルド・ヘレイラ船長側のイギリス人弁護人であるフレデリック・ヴィクター・ディケインズから、日本にも遊女、売春婦と言う名の奴隷の存在を訴える申し出があった。

その証拠として「遊女の年季証文の写し」と「横浜病院医治報告書」の二点が提出された。

さらにペルーから特命全権公使オーレオ・ガルシア・イ・ガルシアが派遣され、裁判の不法性を主張。さらに謝罪と賠償を求めて来た。

日本側はその指摘された人権問題に手を打つため、「芸娼妓解放令」を十一月二日に定め、遊女たちを解放したが、「遊女などは人として人身の自由を奪われたものでいわば牛馬に同じ」という名目で「牛馬に借金の返済を迫る理由なし」ということで無償にて解放した。

司法卿の江藤新平による「芸娼妓解放令」は「牛馬解き放ち令」とあだ名が付き、「牛馬切りほどき令」とも言われるようになった。


だがしかし、牛馬に同じと揶揄された遊女たちに行く当ては無いのがほとんどであった。そのため、遊郭に戻る元遊女の姿も見られ、その実態はほとんど変わらないのが現状であった。



「これはどういう事?」

唯は手が震えた。

「マリア・ルス号の事件の顛末よ。日本政府はお金に困って身売りされた幼い娘が遊女になったのに対して彼女たちのことを『牛馬』と言い切ったのよ」

そう言う輪廻。

「そんな……!」

「だってこれが全貌ですもの」

「じゃあ、その遊女たちは?」

「書いてあるでしょ?また遊郭が復活してほとんどの遊女が戻ったのよ。だってその子たちは他に出来ることが無かったんだもの。それは現代でも通じるものよ。体を売るだけで何万円と稼げるんだから、他のことが出来なくてもいいって思う娘もいっぱいいたのよ。金銭感覚がマヒするの。だから風俗は一度足を踏み込んだら抜けるのがとても難しいの。今もそうよ」

「な、なんてこと!」

「それに、そうして生きていくしかない人もいるってことよ。あなたや私は恵まれている。そう思わない?」

「そ、そうだね」

「あなたの論文の参考にするといいわ」

「そうね、ありがと。そうする。これで結論が変わったかな?」

そう言うと、唯はため息をついた。

「これが本当の『マリア・ルス号事件』か……」




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