エピローグ【stand by me】
一万字書いたのでクッソ長いのでご容赦ください。
目を覚ますと白い天井が目に入り、ここが何処だか分からなかった。
今まで学校にいたはずだろ。
唇に違和感があった。声を出そうとしても口が開かない。かなり焦った。
口周りを恐る恐る触れると紐が縫ってある感触。
この時は実験施設か精神病棟に収容されたのかと恐ろしくなった。不明な所に連れて来られたというストレスにマーターズのラストシーンが重なって過呼吸を起こした。
口で息が吸えない苦しみ、くわえて鼻呼吸をするのを忘れてしまい酸欠になりかける。
いち早く気が付いて駆けつけてくれた看護師さんに鎮静剤を打たれるところで、ようやくいま俺がいるのは病院だと悟つた。
次に目を覚ましたら顎の骨が粉砕骨折している事を伝えられた。顎の形成が整うまで抜歯は無理な点としばらくは奇麗な発語が出来ない事の二点を教えてもらった。
顎が砕かれたのが原因で気を失ったんだろう。
ツイてないんだな。
顎に組み込まれたワイヤーが外せるまで、俺は筆談を余儀なくされた。
何もしなくとも顎の毛細血管に電撃が走ってしまい、常に痛い。
凄く煩わしいが抗生物質を点滴に流されて緩和される。
鏡を覗くと唇と目以外を包帯でぐるぐる巻きにされている。内出血の腫れと顔の骨格が変形でこうなったんだろう。
アニメの世界でだけでしかやらない事をまさか自分が体験するなんて思いもしなかった。というかどんだけ強い力で殴ってたんだよあいつ。
先生の話を聞くにあれから丸一日麻酔で寝ていた。
麻酔と鎮静剤でまだ頭が回っていない。しかし鮮明に昨日の事は覚えている。
初めて他人の為に怒ったこと。それは心の中で妙な満足感があった。人を殴ったことの快感ではなく、心中で渦巻いていた陰鬱な雰囲気を振り払われた瞬間だった。
「唯一!起きて良かったよ」
目を覚ましたことを病院の先生から連絡を受け、母さんが駆けつけてきた。手にはボストンバッグが握られている。
しばらく病院生活を送るので着替えと嗜好品が入っていた。
「心配したんだから」
身を案じてくれた母さんの声から安堵が感じられた。本当に心配をしていたようで申し訳なさがある。
‟迷惑かけてごめんね”
手帳に字を書いた。母さんは涙を我慢している。でも俺は目頭にある痕を見つけてしまった。
五日、時間が経過した。痛みでベットから離れられず動くこともままならなかった。
ただ身動きが出来ないで日々が流れた。
五日目になって痛みは緩くなった。そして、大来先生と教頭先生が謝りに訪れた。
「お前ら三人は少しはしゃぎすぎたな」
ベッド脇にある丸椅子に座った大来先生は俺が気を失うまでの前後を話してくれた。
合唱の時間直前まで和山と西(俺)が来ないのを危惧して、大来先生が呼びに行ったら馬乗りになって俺を殴り続けていた姿を発見した。
その光景はまさに異様だったそうだ。
木目調の床には俺が吐いた血なのか和山の拳の血なのか判別がつかなくなっていた。
イチ教員の本来の仕事として仲裁に入って、一発、先生も殴られた。それでも必死に鬼の形相の和山を羽交い絞めで静止させ、落ち着かせる。
普段の和山からは想像もつかない言動から想像のつかない行為に彼が和山なのかを疑ったそうだ。そしてその頃にはどこで聞きつけたのか、ギャラリーも溢れていた。
そして救急車で俺は緊急搬送される。
麻酔を打たれ手術をすることになり、まる一日寝ていたという事だ。
‟面目ないです”
客観的に自分の事を言われると背中がこそばゆくなった。空気を読んで笑ってみようと思ったがワイヤーで顔を固定されていて表情筋が動かせずにいた。
「大っぴらには言えないが和山と西が退学する流れになったよ」
「ん゛っ」
俺は驚きのあまり喉から音が漏れた。表情は作れないがきっと度肝が抜かれた顔になっていた。
「学校祭が終わったあと、和山と西が行っていた過去の行為の証拠が、関係各所に配られた。PTA、教育委員会、校長のもとに匿名でさ。
それで内申は取り消されて上層部の強制力も振るわれた。和山の本性というか意外な一面を目撃した後でこれだったし、既成概念を取っ払われなかったら擁護してたかもしれなかったな。まあ確証は無かったが大分グレーらしい話は教師間で小耳に挟んでいたし、溜まっ大きな埃が吹き出てしまった。そういうことだ」
「高杉君が引き金になったおかげで芋づる式に見抜けなかった過去の事件を暴けた。今まで見て見ぬふりをしていた生徒、教師一同を担当して私が謝りに来ました」
校長は丸椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
搬送後に都合良く和山の悪行がバレる。綾瀬がそういう事をしたんだ。そして俺はヒーローに祭り上げられた。
しかし菜乃花は今、どんなことを考えているのだろうか?一番信じたかった人が実はあの高校で全員を苦しませていた。
いじめの主犯だと知ったとき、どれだけ心を病むのだろうか?
それは想像の域で留まっているから計り知れないな。かける言葉は思いつかない。
菜乃花の幸せを傍観するだけでいいと思っていたのに自分で課した目標を見失った。
大来先生と校長先生に何一つ言わず、帰ってもらった。口を縫われているようなものだから無理もないけど、安易にできていたことが出来ないでいるのって辛いんだな。
菜乃花もこんな気持ちなんだよな。
会話についての難しさを考えていると病室をノックする音が聞こえた。
「いよっ」
綾瀬だった。
「入院生活には馴染んで来たか?」
先生たちが座っていた丸椅子に無礼にも座る。コイツとは喧嘩別れしたはずだったんけどな。
‟何しに来たんだよ”
書き殴りのメモの見せる。
「別に、何してんのか気になってさ。普通に生きててよかったわ。相変わらずぼけーっとつまんなさそうな顔をしてんのは変わってないけど」
大きなお世話だし、その発言にむっとくる。俺の事を俺以上に理解してる、そんな風に取れて嫌気がさす。
‟和山と西を摘発したのお前だろ。どうしてあんなことしたんだよ”
「・・・・・・・そっか、おまえからしたら俺のやったことは悪に見えるのも間違いじゃないよな」
俺だって和山のしてきたことは到底許されるべきではないと思う。だがそれと同一に菜乃花の幸せを暗に壊してしまったとも言えるのではないかという疑問がある。
「これは俺の贖罪でもあるんだ。俺が出来る贖罪は罪の清算じゃなくて藤川さんが幸せになる事さ。藤川さんにとっては和山がお前を殴り倒す直前まで幸せだったかもしれなかった。だが、その幸せは誰かの不幸の上で積み上げたモノだと知ったら藤川さんは喜ぶのか?」
俺は綾瀬の目を直視できなくなった。病室の外からは人の声が沢山聞こえる。一般利用でのお見舞いの時間になったからだろう。
足音が張り詰めた糸のような静けさの病室から響く。
‟あの子なら嬉しいはずないな”
綾瀬は一拍、間を置いて言う。
「俺も同意見。ていうか良識がある人間ならそうだろうよ」
まぁねそれもそうか。
「話し戻すけど、それでもし藤川さんに許されるなら何ができるか散々悩んだんだ。
俺は過去にいじめの片棒を担いで後悔していた。そんな人間が真っ当な生活を送っているのには矛盾がある。法や警察で罰するには年月が経ちすぎていた。そこでもしも藤川さんと同じクラスの人間の中に俺と同じ心境に悶えている人がいたとしたら?気づいたんだ。少しでもいいからその人達から、又はその人の人脈の中で西や取り巻きがしてきたとされる悪事の数々をかき集めることにした。
話してくれた人たちは言葉にはしなかったが一様に憑き物が取れた顔をしていたよ。その顔を見て俺の積もった罪悪感が救われた気になったよ」
俺は鼻で笑った。
「何がおかしいんだよ」
俺は軽く笑うと首を振って教えないという意図を発した。
綾瀬が他校の生徒と会う時間に俺は何もしていなかった。家で引きこもったり菜乃花の幸せを祈祷していた。学校では俺がきっかけで和山と西は退学にまで押し込んだ風になったが縁の下の力持ちで全ては綾瀬の働きによって長きに渡って陰湿に行われていたいじめ問題が終息となった。
‟先生から聞いたよ。匿名で封書を教育団体と校長に送られてきたって。大層大きな所を味方につけたな”
文字を書くことの煩わしさと戦いながら読める字の作成に勤しんだ。
「当たり前だろ。権力のある団体を動かさないと小さい規模じゃ揉み消されてしまうよ。それでさ和山のしていたことがあまりにも触法行為なもんで聞き取り調査で警察まで介入したらしいぜ」
そうか、高校は最底辺なランクだ。だけど警察が介入しだすような生徒を置いておきたくはないもんな。腫物は摘出したい、到って簡単な道理か。
‟しれっと法に触れることをしたといっていたがそれについては聞いていいんだろ?”
「おう。どうせ匿名が誰なのかなんて気になるやつなんかいないんだ。種明かしはしておくか。あの学校には隠しカメラと録音機を仕込ませてもらった。唯一の教室と男子ロッカーの中にな。もちろんロッカーの中については承諾済みだ」
俺は許可してないぞ。
「和山と西は巧妙にいじめの証拠を隠すのが上手くてなかなか尻尾を出さないとおもったから、癸に言ったのと同じ言葉を言ったら協力してくれたよ」
なるほどねぇ。ま、たしかに和山と同じ部活をする生徒はいじめの格好の的になりうるか。いじめによって一人で抱え込んでいる問題に救いの手を伸ばした。その人からしたら藁にも掴むような想いなんだから、協力してくれたのか。
じゃあ
‟教室のどこにカメラを置いた?”
毎日ではないが学校に来ていた。変わった場所の違和感を感じるはず。それに三十人がいる場所でカメラがあれば必ず誰かは気付く人がいる。この三十人の目をかいくぐって全体を撮影ができる場所なんてあるのか?そんなの不可能だ。
「分からないのも無理もない。黒板のところにいつ使うのか分からないブラウン管テレビが天井に括りつけられてあっただろ。そのテレビに細工をして小型のカメラを埋め込んだんだ。小型だが電池は8時間持つ優れものでね。毎朝誰よりも早く登校するのは骨が折れたし誰かに見つかると言い逃れも出来ない。かなりひやひやしたよ」
まさに青天の霹靂という事だ。
「だからこそ大きなリターンが帰ってきた。学祭のあの日、和山が自分の口でいじめをしてる発言を録音もできて裏付けが取れた。どれだけ被害を受けた人の供述を募ったってお前も言ったように台本だと切り捨てられればそこで終わり。でも本人が言っているシーンがあれば、まぁ判断材料の質が上がるよね。おれとしてはお前が和山に殴られているシーンがキーになったとも言えるけど」
自分の行いを誰かに見られていると思われると急に恥ずかしくなってきた。あれは俺のいわば自己満足みたいなものだったし。
「ま退学の後押しになったのはあの動画を見た人が真っ当な教育者だったってところだろうね。学校や会社で欲しいのは協調性がある人、つまりは根がいい人や真面目な人だ。育てれば伸びる人材の足を引っ張る人が和山になる。あいつの凶暴性が精神的に強く印象つけられたんだろうね」
俺の不幸は綾瀬の思惑にとっては幸という訳か。それにしても俺の代償は大きすぎる気がするのは些か腑に落ちないな。
綾瀬が自分の膝を叩く。パンと気持ちのいい音が鳴る。
「にしても、お前があんなことをやらかすとは思いもしなかったよ。自分の都合じゃ動かないお前がだ。誰かの為に殴られるなんてな。まぁあの朝の件もあったけど本当にお前は成長したってか遠くに行ったみたいな気がするよ」
綾瀬からそんな言葉が出てくるとは・・・。
‟菜乃花と友達になれたからだよ”
俺は書き足した。
‟俺は綾瀬が羨ましかったよ”
「なんでさ」
‟あの祭りのあとから人が変わったように一つの事に夢中になっていた。そに姿勢が俺には真似出来ない”
綾瀬はけらけら笑った。俺は頭にハテナマークが生えた。
「なんだよ、お前もおんなじ気持ちだったんだな」
どうやらそういう事らしい。俺は綾瀬と深く知ろうとしなかったんじゃなくて、もうすべてを理解していたうえでお互いの目標に食い違いがあっただけだった。
見えてる部分は一緒だったらしい。
先に気が付いた綾瀬が笑い、俺も後になって今まで衝突していた訳が納得できて肩で笑った。
一通り笑って気が済むと綾瀬は俺の目を見て、
「あの時は殴って悪かった・・・・・・」
恥ずかしいのか頬を掻く。俺は何もメモに字を書かなかった。あいつの胸元に掌を差し出す。
二人は強く握りあった。それだけでいい。それで通ずる意味もあるのだと菜乃花から学んだ。
面会時間のギリギリまで綾瀬は病院にいてくれた。俺がメモに気持ちを記すのがめんどくさいのを察してくれてか綾瀬は一方的に話してくれた。
今じゃ他愛もないが西と和山を陥れる為に奔走していたあらすじを話してくれた。
「ほんとに疲れたんだぜー」
綾瀬が言うと俺がにっこりと笑って、それが相槌に代わりになった。
陽が傾く頃に綾瀬は学校鞄を手に持ってイスから立ち上がる。
「早く治して学校来いよな。一人で登校するのは寂しいんだよ」それは俺のセリフだ。とは言えず、喉元で押さえた。
「じゃーな」
手を振って見送った。
次の日、意外な人が面会に訪れた。ベッドに座って本を読んでいた時だった。
「初めまして」
スーツ姿で鼻の下と顎におしゃれな髭を生やしている伸長180センチ声の巨人が俺のもとへやってきた。肩幅も広く威圧感がずっしりと感じられる。
誰、と思っている矢先
「藤川菜乃花の父です。娘がお世話になってました」
静かに、一文字ごと噛み締めるように言った。語気が臆してしまう圧を感じる。険しい表情からは感情が読めない。気を引き締める。
「唯一君、だよね?」
張り詰めた緊張感を醸し出す人だったがどこか優しい人のように感じられた。多分何もしなくとも外敵が寄ってこない空気を作っちゃう人なんだ。
うんと一つ俺は頷いた。
「うちの娘が・・・・・・菜乃花が人とは違うのは知っているよね?」
俺はまた一つ、頷いた。菜乃花の障害、場面緘黙という一点を指しているんだろうな。そう察した。俺は自分の座り方を正して猫背をやめる。大事な話を向き合う姿勢をとる。
「菜乃花のクラスの一人がいじめをしていた件で保護者会が開かれました。その時に唯一君が暴行に遭った事と菜乃花が苛められていたのを親同士で噂しあっているのを聞きました。娘は優しい娘でね。前にいた中学校でも同じような体験をしました。父親の俺にその時も一切教えてくれませんでした。今回もそうです。
菜乃花は家だと何事もなかった顔でまだ小さい妹の世話を焼き、家事を卒なくやってくれる。菜乃花は平然と家の事をしてくれるのは学校で何もされていないからだと思ってました。俺はそれにかまけてまた、見抜けなかった」
菜乃花のお父さんは今にも泣き崩れそうだった。親だから心配する気持ちは判る。それが普通なんだろうけど毎日、注力するのも難しい。
言葉から伝わる菜乃花を大切に思う心は、とても優しい。人は環境や他人のせいにしてその場から離れようとする。でも少しでも自分の行いで改善できたらと自責の念を抱いてしまう。
答えが見つからない悪循環にはまるがそれは誰かのために己を犠牲にしないとできない一種の優しさだ。
‟菜乃花は自分自身より相手の幸せを願える人です。—————だから菜乃花は耐えられたんだと思います”
「君は菜乃花の事をよく見てくれていたんだね。だからかな、前に一度、君の名前は伏せていましたが自分の口で自分の日常を喋ってくれたことがあるんです。
ピアノを聴いてくれた人がいるんだ。その人と友達になれたんだ。私がしてみたかったことも一人だと出来ないのをその人が肩代わりしくれて私が経験したように思わせてくれるんだって。周りよりできることが少ない私にこんな世界もあるんだよって教えてくれて簡単に連れ出してくれる。勇気をくれたとね」
もしもいま声が出せるのならなんと言えるんだろうか・・・。否定するはずだ。違います。それは俺のわがままです。でも身勝手で振り回すのは嫌だったから必死に悩んで考えて、誘ったら了承してくれる口実でしたと。
信頼の眼を直視できずに頷いて返答するしかなかった。
菜乃花の父さんは俺の目を見て言ってくれている。そこには俺になにか期待しているような物言いに感じられた。自分のやりたかったことの真意とはかけ離れているんだ。
声にだして言えれば期待や感謝を裏切ってしまう。そんな出来た人じゃないと証明したいのと失望される怖さ、感情のジレンマで板挟みになる。もういっそナメクジのように溶けてしまいたかった。
「ありがとう。君と関わっていたこの数か月、娘は今までにないほど笑ってくれていて明るかったんだ」
午前中の厚い雲を貫く白い西日が太いレーザー大地に照射される。
院内からは温かい空気が流れ出でる。灯油のにおいが鼻孔に入り込んでくる。
頷きと首を振る中間点みたいな相槌をするのでおれにはやっとだった。菜乃花の父さんはにっこりと笑う。人の良さそうな笑みだった。厳格そうに思ったのは根はやさしい人だからこそ、身を粉にして仕事するからだ。
それが家族を護るのに必要だからだったんだろう。
「菜乃花が唯一君を受け入れたのがすこし分かった気がするよ」
お父さんは天井を見上げた。
「でも、いじめがあると分かった以上ここには暮らせない。だから本当は担任の大来先生にしか伝えてなかったけど、明日にはこの町を出ます。実は今日ここに来たのは君がどんな人なのか確かめたくて来たんだ。それと菜乃花と仲良くしてくれたのに何も言わないで引っ越すのはかわいそうでさ、恩人の君には一応伝えたほうがいいのかと思ってさ」
ゆっくりと俺の目が大きく開く。退院後にも菜乃花に会えると信じ切っていた分、理解するのに時間がかかる。脳内で菜乃花のお父さんが言った言葉が二回リピートされた。
「我が家には母親がいない。だから菜乃花を護れるのは俺だけです。菜乃花がこの学校で同じようにいじめに遭う可能性があるかもしれないのならその芽は完全に潰すよ」
‟なら俺がまた止めます”
荒々しく字を書きなぐる。
俺が菜乃花の父さんなら俺も同じ選択を選ぶ。自分だけでは力不足なら極端だが環境を変えてあげることもまた救いの一手だ。分かる。だが・・・だが・・・。
自分のわがままな思考が無数に思い浮かんでは丁寧に消される。正論にならないわがままと決定されたことを覆せない相手の覚悟。目まぐるしく思考と錯誤をするがどれも打開策にはなりはしない。
「・・・・・・・・」
‟それでもだめですか?”
菜乃花のお父さんは黙り、しぶしぶ首を縦に降ろす。
「親はさ自分の子供たちが幸せであるのを願う。だから少しでも傷ついて家に帰ってこられるのが恐いんだ。でも唯一君がいたら娘は安心だ。それで君が苦しめば菜乃花は自分の事以上に傷つくと思うよ。三度目は無いようにしたい。分かってもらえないかな」
何を言っても決心は揺らがないんだろう。引き留めるのは俺のわがままだ。菜乃花の幸せを願う一方で俺は失うのかと喪失感で、つい力が入りすぎて、手にあったメモをくしゃくしゃに折り曲げてしまった。
そして俺は静かに頷いた。
「ありがとう」
そう言って菜乃花のお父さんは病室から出て行った。
俺はしばらく白い天井を眺めて放心していた。自分がどうこうできる問題じゃないのは分かりきっている。菜乃花の転校を止めることが彼女の幸せなのか?もし、あっちの学校でまたいじめが起きるの可能性だってない訳じゃない。なら現状、元凶のあの二人がいない方が幸せなのではないか?
それはこの町に残って欲しい口実なのか?
菜乃花のお父さんの立場になって考えてみた。男手一つで大切に17年育てた大事な娘を虐めによって殺されたら寂寥感で胸がいっぱいになる。自分の子供が大人になるにつれて成長した姿を自分の目で見れないのはどれほど親として哀しいものがあるか。最善の処置が引越だったんだろう。
快晴が眩しい。
結局綾瀬や俺がやったのは無駄じゃなかったんだ。このまま和山を付け上がらせれば菜乃花は果予代中学で受けたお腹の傷よりも被害の大きい結果が起きていたっておかしくはないんだ。自分の感情だけが先走る。冷静に考えてみる。今、俺のできることは何だろうか?
—————翌日俺は病院を抜け出した。
朝八時頃に味の薄い病院食を食べる。パジャマから私服に着替える。カバンに荷物を詰めると腕に刺さっている点滴を抜いた。痛みはない。
看護師さんにバレないよう廊下を歩き、裏口から病院を抜け出した。久々に吸った外の空気は冷たい。ひんやりとした冷気を肺にこれでもかと入れた。今日が終わるとまたしばらくは外は眺めるだけなんだろうし、目いっぱい味わいたかった。
手元に金はない。タクシーを呼ぼうにも払えないから自分の足で菜乃花の家まで向かう。
菜乃花の家がある住宅街から近い距離で病院が隣接されている。なので移動するのには体力面では困らなかった。だが、一週間をベッドの上で一日を過ごしていたので動くだけで息が切れる。それに口呼吸を制限されているから相乗効果で倍疲労が溜まる。
ジャンバーを着ていけばよかったと空を見た。厚く黒い雲が太陽を隠している。国道からは吹く凍てつく寒い風が町、はたまた住宅街に注がれて身体の感覚を奪われていく。秋が終わると冬が告げる。
今日に限ってなのか、車が良く道路を走る。俺を通り過ぎるたびに寒さが身体を刺すようだった。うるさいエンジン音と排気ガスの臭さを病院から出て濃く感じられる。
菜乃花の家からは手元に金はない。タクシーを呼ぼうにも払えないから自分の足で菜乃花の家まで向かう。
菜乃花の家がようやく見えるところまで辿り着いた。家の前には引越センターのトラックが停められていて荷台からは段ボールを運ぶ従業員と菜乃花のお父さんの姿があった。
俺は駆け足で近くまで行った。足に伝わる衝撃が強くなると体を巡り、顎に病院で感じる以上の電流が走った。
家の前に着くと、菜乃花の後ろ姿がガラスから映っていた。普段着であろう白のワンピースとすったばかりの墨みたいに黒くて長い髪の毛。朝なのに陽は雲のおかげで隠れている。町という小さな世界のトーンを一段下げたように薄く暗い午前中。あの夜と同じ状況を想起した。
ピアノの音が鮮明に聴こえてきた。これはドビュッシーの【月光】だった。静かでゆっくりとした音色は、伴走者の心が綺麗じゃないと表せないかのような音楽だ。入院生活が恐ろしく暇だったので趣味じゃなかったがスマホの動画サイトでオーケストラやピアノの音楽を嗜んでいた。一日中リピートして流していたから音楽の知識が多少身に着いたようだ。
「どうしたんだい、唯一君」
ベッドで寝ている野郎が突然の来訪してきて戸惑っている菜乃花のお父さんだった。
‟最後に菜乃花さんに会いに来ました。なにも言わずに来てしまい、申し訳ございません。”
俺はこのメモを見せると頭を下げた。
返答がない。俺は無言の間が絶えらず顔を上げた。
俺を間近で見下ろす菜乃花のお父さんは何かを考えている素振りで何も言われない事の見えない圧迫感で押しつぶされそうで冷や汗が背中から流れる。
「待ってください」
そう言って菜乃花のお父さんは家のドアを開けて中へ入っていた。ピアノを弾く菜乃花の耳元でお父さんは何かを囁いているのを遠くから俺は眺めた。何を伝えているのかは分からないが悪評だったら嫌だな。
菜乃花はお父さんの顔を見て口を開けて何かを話していた。場面緘黙は確か信頼のおける環境や人とは話すことが出来るという文面を放課後の図書室で読んだのを思い出した。
俺はまだその位置には立てていないのは親は安寧の対象なのは当然だろうが少し悔しさが先にあった。
菜乃花が家から出てきた。俺の方へ向かう。
さてここから俺が自分の気を引き締めないとな。愛の告白をするわけじゃないがなんだか緊張してきた。
挨拶のつもりで菜乃花に手を振る。菜乃花はいつも通り健康な顔をしていてすごく落ち込んでいるという風ではなく安心した。
俺はメモで‟ひさしぶり”と書いて見せると菜乃花は頷く。そして無言の空気が生まれた。会話に制限がある同士だから重たい空気を壊すのが難しい。世間話を筆談でもすればいいのかもしれないがそんなことをするために病院を抜け出したわけじゃない。
カバンの中から手紙を取り出して手渡した。可愛さなんて欠片の無い手紙だ。ルーズリーフを折りたたんで便せんにしてメモ用紙二枚を入れただけの安っぽい手紙だ。
そして俺は帰った。映画だとヒロインに自分の気持ちを伝えると振り返らず真っ直ぐ帰路を目指す。俺は菜乃花から送られているであろう熱い視線を背中で応える。ハリウッド映画だとここからエンドクレジット。背後は爆炎で終わり。本当に起きたらただの大惨事だから起きないが。
「へっくしゅん!」
片方の鼻の穴から水が滴り落ちる。カッコつかねえなぁと背を縮こまらせてとぼとぼ歩いた。
—————あ。
空からは今年初の雪がぱらぱら降り始めた。気だるそうに教室の窓から一望できた秋の訪れは暫くして冬の再来となったようだ。
ぽっかりと心に開いた気がした。風通しの良い穴。
これからの学校生活及び人生は平々凡々の人生だ。何一つ変わらない毎日を大きくない幸せに費やして死んでいるような生活を生きるのは目に見えていたのに菜乃花と過ごした時間が俺の人生に平坦な人生にでも意味をもたらしてくれた。
凛としてはいても儚げで微かな弾みで壊れてしまいそうな、君を、俺は、今も、今までも、これからも笑わない。
自分の人生は人と比べて不幸だと汚い酒場や底辺で生きる事を強いられた人間がよく口にする。
明日から、寝ても覚めても君の事を思い出さなければいいな。
もう何回、君の顔を考えていたけど。何回も君は俺の心を触れ合わなかった。
君の生活で俺の顔を思い出してもらえた事はあったんだろうか。
どうせ情けない顔しか思い出さないんだろうけど。
人は事象は違えど、必ず多幸感に包まれて天寿を全うする。でも生きている間は終わりの来ない劣等感で常日ごろ苛まれ蝕む。気付いた時には真っ当な人生を生きれない身分になり果てて後悔する。
人は産んでくれる親と環境は選べない。だからこそ自分らしいレールの敷き方で未来という足場を固めるんだ。
時にそのレールからはみ出してしまうのもまた人間だ。バタフライエフェクトのような確率で起きてしまった外部的な要因で人生を絶望するのと自分で蒔いた不幸を自分で刈り取れず収拾が付けられず人生を破綻させてしまうのとで2ケースある。
長くなったが後悔や絶望とはこれから挑戦する際に生じる枷ではない。前へ前進する糧になる。人は初めて優しさや愛、友情の真価を見出せるのかもしれない。
人間を嫌って辟易とせずに生きる処世術が身に着いたようだった。
読んで頂きありがとうございます。
高杉唯一の物語は終わりです。私の遅筆で幼稚な文章力で綴った物語はこれで幕閉めです。長きにわたり、私の物語を読んで頂きありがとうございます。
もう一つのエピローグは藤川菜乃花のエンドロールという意味を込めて書きました。そちらもご愛読いただけると光栄の極みです。