十四話【言葉のいらない約束】
目が覚めると昼過ぎ。二人は仕事に行ったようで家の中には俺しかいない。冷蔵庫には母さんが俺用に野菜炒めを作ってくれていた。
口がいたくてこんなに食べらんねえよ
悪態を内心で突くも高校男児からすれば平均的な量が盛られていたので平らげられた。
きっと子供に対する怒りはあるものの、それでも飯は作ってくれた。それが母親の責務だと考えているんだろう。
不甲斐無い俺の介抱をしてくれる母親の背後が涙腺を熱くした。
何も言わないが母さんは皿を出す。
「ありがとう」
いただきますと細い声で言う。両手を合わせてから頬張った。
居間には誰もいない。静かな空間と水の張られたシンクに皿が置かれている。
外出禁止を命じられているが家の中にはいたくなかった。
俺の中で信用できる大人、俊夫さんのところに向かう。
身体の内部にはダメージが残っている。
「歩きたくねぇ・・・・・」
闇雲に自転車を棄てた自分を呪う言葉を吐く。
駄菓子店に着くと引き戸をスライドした。その途端に愛維さんが俺の顔に驚いていた。俊夫さんも愛維さんの隣で同じく目をまん丸くする。
お客さんなんか一人もいない店内で高い声が響いて耳がキンとする。
「うっるさいなぁ」
「わりーわりー。何があったんだよ」
「綾瀬と喧嘩した」
「珍しいな」
「初めてだからさ、喧嘩なんて。こんな風になっちゃった」
「そうかそうか、作業所に入って男同士で訳を訊こうか」
来いよ、俊夫さんが手招きして暖簾をくぐる。
そして俺は朝の事をすべて説明した。見た聞いたで感じた気持ちは混ぜず、記憶にある事実を言語化した。
二人とも狭い空間で胡坐をかく。俺は膝に手を置いている。何度も頷いてくれた俊夫さんは腕を組んでしっかりと訊いてくれた。
一から十まで話し終えてから俊雄さんは口を開けなかった。沈黙が生まれる。
「・・・・・・綾瀬の言う事は突飛な気がするな。でも、俺も分からなくもない。倫理観的には認める部分もある。俺でも手を出すか危ういわ」
「だよね」
「そうだな。口に出していいことも悪いこともあるっちゅうに勿体ないな」
一度肯定されるとそれは俺のすべてを認めてもらえた気になり俺はさらに言葉を厚塗りする。
「いじめや排斥するには力が無かっただけでさ。おれならもっと深入りせずとも、もっと寄り添えたさ」
何も考えないで口に出していた。きっと俊夫さんも俺の意見を汲んでくれるに違いない。
「いや、」
ピリッと空気が変わった。俊夫さんの目の色が変わるように声に重みが乗る。
「いいか、唯一その考え方は違うんだ。今のその発言はね唯一にも当たる言葉なんだよ。知った風に他人の性格まで口出すのは間違いだからね?
他人のせいには簡単に出来るんだ。でも罪のなすりつけあいはただ単に思考放棄してるだけ。そうやって現状から逃げるとね、その分しっぺ返しも大きくなる。みんな上手く分かっていないだけでさ、愛も憎しみも与えれば巡り巡って戻ってくるのよ。知らないから人に優しく出来ないんだ」
俺のしていた事は自身に返される。自分が嫌いな人達を遠ざけていれば真っ当な人間だと思っていた。だが、気が付かないうちに薄々、染みついてしまっていたらしい。
心が通じ合わない人間に俺がなっていた。
俊夫さんは煙草に火をつける。狭い部屋の一つしかない窓から日光が降っていた。紙の方に光が当たり、燃えている紙は白い煙ではなく薄い青の煙がゆらゆらと宙を漂っていた。
口から煙を吐いて
「大概はね変わらない人たちの方が多いんだ。でもね、そうなるなよ。悔しいとまた立ち上がろうと躍起になるのを普通にしなよ。学校で復習するように、優しさを人から学んで活用すれよ。
現状を変えるのに臆病になって一歩踏み込めないんだ。今は。
綾瀬も唯一も周りとは見え方が違うだけ。辛いことがなにかって今回から判断してみなよ」
タバコの煙を吸って、吐いた。
「年を重ねれば人は賢くなり卑怯な手口を思いついては人を見下す。でもそれは強さじゃないよ。本当の強さってのはいつまでも人と長く笑えるように関係を保てる人のことだよ」
そういうとタバコ臭くない方の手を俺の頭に置いて触る。狭い部屋からはやにの臭いが充満していた。
何度もこの部屋で笑ったり悩み相談を綾瀬と二人で聞いていた。張り替えていない黄ばんだ壁に成長の歴史を感じた。
「これが大人になっていくっていうことなのかな?」
「そうだよ。いろいろな人に教えてもらって、自分の価値観が育って自分の中の大切なのモンが出来上がるのが大人さ。まだまだこれから理解するまで難しい問題と衝突する。でもいつか分かるから焦んないで手に入れたいものを逃さない努力をしておきな」
俊夫さんは俺の顔をしばらく幽霊だと笑って馬鹿にされた。
お菓子を持たされて帰らされた。夕方まで話していたようで母さんが居間に立っていた。
「おかえりさない」
「ただいま」
俺は朝の事を引きずっているからまた愛想のない言葉で返答してしまった。
「顔洗ってらっしゃい。治らないうちに外出たら不審者呼ばわりされるよ!まーた警察の方に呼ばれたくないんだから早く治しなさいよ」
調理場からは魚が焼けるにおいに醤油が焦げた匂いが立ち込めていた。
お腹が空いてしまう。何があっても家族を恨んでも家族はこの人達だけなんだ。
「かあさん、ごめんよ」
「もう友達失くしちゃ駄目だよ」
俺には一切振り向きもしなかった。言えただけでなにか重りが取れた気がした。