第八話 【俺よ届け】
三科と会合を経た翌日。
以前なら菜乃花は生徒が殆ど出入りしてこない時間帯から教室にいた。ノートと教科書を広げて、彼女は不安そうな目で予習と復習を繰り返し行なう姿がそこにあった。
菜乃花のそういった姿を偶にだが早く来てしまったときに目撃していた。しかし最近は唯一の方が先に到着するようになった。菜乃花と遭遇する機会が減った。
教室には、まだ誰も来ていない。
木の枠で囲われる内窓へ日光の白いレーザーは全体を照射する。
二階の高さまで茂った木々。グラウンドからは朝練をする野球部の掛け声がこちらにまで響く。
唇や手先が乾燥するようになった。季節の変わり目を肌で感じ取れる。ただそれだけで気持ちに変化はない。
どっしりと席に座る俺は頬杖を付く。体感以上に心に余裕がないことに気がついた。
何も考えていなかったら頭の中で彼女の顔を輪郭まではっきり想像してしまう。
「菜乃花。菜乃花。・・・・・・なの、はな」
小さくか細くここにいない人の名前を呼ぶ。これは淡い期待だ。不安定ながらも平穏に過ごす小さな背中を俺はじっと眺めていたかった。
首を菜乃花の空いた机へと向ける。
なんか、情けないな俺。
いつも菜乃花は和山とホームルームの十分前にやって来た。和山の隣を菜乃花が歩く。そんな短時間で距離を詰められるものなんだなと感心をするものの憎らしい。
和山の横を離れる際、菜乃花は微笑んでいるのを俺は見逃さない。いつもそういう表情をする。
この前の祭りで俺に零した菜乃花の笑みとは感情の深さが違う笑み。
ホームルームが終わると大来先生が俺の前に来た。タバコ臭い。
口を開かずとも圧を感じる。
「おまえ放課後に残れ」低い声で熱のない言い方をする。
思い当たるのは昨日の花瓶を外に放り投げた事。
悪いとは思っていない。ただ相手にしたくなくて、首を振るのでさえ億劫だった。顎を前に出す行為を取り、分かったと応答した。
「そう、じゃあちゃんとこいよ」
いつもよりも大きな足音を立てて教室を出て行った。
教室から出て行った数秒、小さく笑い声がした。いつも通りのクラスの騒音の真っ只中から判然と聞こえる。
いつも通りに授業中は寝た。一時限目の物理でアインシュタインの話を先生が持ち出した。彼は一日十時間は眠って、数々の閃きで世界に光をもたらした。
なら俺もそれにあやからせてもらおう。机に腕を置いて頭を伏せる。癸がどんなに人間像だったのかを思い出す。
癸は短気な性格だった気がする。衝動的な問題を突発的に起こしていたからだ。
特に印象的だったのはいつも通りに授業が進んでいたのに癸が急に暴れ出した。理由までは知らないが癸は療養期間という実質の停学を処分された。
その後、謹慎が解けてから退学する。
相手の方はただの被害者として碌な聞き取りもないまま何事もなく登校していた。
今にして癸が本当は被害者だったのかもしれない。この学校で退学をする生徒のほとんどが西里見が関わっているらしい。その噂は本当だと思う。西とその取り巻きがなにかしているであろう行為を俺も目撃したことがあるからだ。
イジメは確実にある。女子同士のいざこざじゃ済ませちゃいけない決定的な境界は越えているんだ。世間様の見立てではイジメられた人は可哀想な存在で終わるだけ。残酷でも苦しく生きながらえないといけない。だから抗ったんだろうな。
そう言えば菜乃花は癸の事を今、どう思っているのだろうか?嫌っている?後悔している?
自分じゃない人の感情を察するのでさえ俺は一苦労する。表情から汲み取るなんて難儀だな。顔すら思い出せない人をどう思えと・・・・・・。そんなに頭が柔らかくない。
だから一度、会って話をしてみたい。そういう欲深い興味が湧いた。
「何を話そうかな」
授業が終わり間近に迫って時間が余った。先生が過去に体験した話をしてくれる。
「これは先生が学生だった頃ね。その日は真夏日で暑くてさ、教室の窓を開けた奴がいたんだ。しばらくしてそこから蜂が入り込んだんです。すっごいでかい蜂で皆んな大慌てさ。
そこで1人ささっと前に出てくれたんだ。その人は慌てることなく教科書を丸めるとすぐに蜂をは叩いたんだ。でも当たり所が悪くてな~。
その人には悪いんだけど、そいつ前髪が無くてな。いわゆる若年ハゲってやつさ。毛の無い広いおでこに蜂がパチャンと潰れて蜂の血がたらーとこぼれてきたの。落ち武者に見えた」
先生が笑いながら話していて、教室の皆もつられて笑っていた。
長い時間を机で腕を組み、体勢を変えずにいると喉ぼとけが痛くなる。大来との面談が刻一刻と近づいていって凄くめんどくさく感じた。
怒られるだけで終わってくれればいいんだけどそんなことある訳ないよな。
放課後になる。人の波に乗って席を立つと生徒達が遮られた。西の奴め。俺の腋を2人で固めて行動を抑止する。
正義感に駆られて動く人がいるならとっくにこんな目には逢っていないのだよ。だから西 里美のだと分かった。
体中から汗が湧き出す。心臓を繋ぐ血管が細くなるような苦しさが大来を目の前にしてあった。
教室で教卓を挟んで大来との面談が始まった。どちらかというと取り調べのほうが似合っていた。放課後の学校祭準備は別室で行うことになる。
「先生はどうして高杉に時間を充てているのか判るか?」
「昨日、俺が花瓶投げたからですか?」
「そうだ」
大来はすらすらと俺の発言をA4の白紙に記す。フランクフルトサイズの太い指で小さな文字を均一な大きさで書く。
「なんでそんな事をやった?」
「なんで?」
行動の理由を聞かれたのが意外だった。素っ頓狂な声で聞き返してしまう。
俺が花瓶を投げた前後を知らないで訊いているのが伝わった。俺の脳裏には、菜乃花の机に置かれた花瓶が鮮明に映る。でも先生にはこの一件の詳細に興味がないんだ。
俺の向かいに大来先生がいる。間に仕切りはなくメモの内容が目に入ってしまう。
≪本人には自覚あり 反省は無い≫
ほんの一言、俺が返答したというだけなのに俺の言い方やニュアンスだけですべてを決めつけられる。
できるだけ穏便に素早くこの時間を終わらせたかったが、俺は感情の昂りを深呼吸して宥める。後味が悪い終わりを迎えてしまいそうだ。
「なぜ、その花瓶を投げた?二階から物を投げたらどうなるのか想像が着かなかったのか?」
「ついカッとなってしまいまして」
「その時その場所に居合わせた人がいたらどうなってた?もしも先生だったら、高杉、なんとかできたか?車だったら弁償ができたか?高校生というのは中学生より理知的に動けるはずだぞ。それが出来ないのは馬鹿だぞ。お前はどうなんだ?」
矢継ぎ早に大来は正論を言う。
「同じことを言うが、この世にはヒヤリハットという言葉がある。今回は何事もなく事態が終わったがも
しその行いが大事故に至っていたら、という可能性の意味だ。自分の行動に責任を持って欲しいんだ」
大来は口数が増える度に一音にかける熱が増していった。
間違ったことは言っていない。だが、それは教師として、人間としてのこうであるべきだという理想の押し付けにも捉えれる。
説教する側は自由に感情を吐けて楽でいい。
とどのつまり「未然に防げ」「自分の行動の結果を常に考えろ」
そこに人情を挟む余地はない。無茶難題だ。競馬で賭けた馬に後悔していると口に出す結果論みたいなもん。
感情的になっているときに俺は未来を予想できるほど頭が良くない。ていうか普通の人だってきっと考えないといけない時にしか考えられないと思う。
常に幾千ものパターンを考えるのは無理。
物を落としたことは俺が悪いだろう。大来の発言自体は腹に据えかねるが何も言い返すことはしなかった。
俺はもう口を開くのでさえめんどくさくなった。沈黙が居心地の悪い空間を形成し始める。
とうとう秒針が動く音が異常に大きく聞こえるようになる。時計の細かいネジが動く稼働音すらもこのままだといつか聞こえてきそうだ。
青春なんて程遠い苦い時間。長く椅子に縛れてあばら骨に巻く毛細血管が痛くなる。
飛行機のエンジン音がコンクリートの天井から聞こえた。入道雲が空を泳ぐ。俺の脇から冷たい汗が流れる。
上からの轟音が鳴り止んで
「お前が本当の事を言えば返してやる。それまでは水を飲みに行くことすらさせない」
「なら考えてください。教室に花瓶なんてなかったじゃないですか」
「わざわざ持ってきて落としたんだろ。お前みたいな年頃は反社会的な言動に左右されやすいんだ。何かに感化されてよ。自分を表現したかったんだろ、どうせ」
教卓に肘をかけて大来が黄色い歯を俺に向ける。んちゃっと口内の水が弾けた。
俺は鼻から空気を吸い、ため息のように深く吐く。
「・・・先生は藤川菜乃花の机に花瓶が置かれたことは知っていますか?」
「そんな話はしていない」
驚いた様子はない。
やっぱりな。昨日、花瓶が教室の上から落としたのが俺だと教師たちは知っている。だが、前後の情報が曖昧だ。
誰かが俺の仕業だと情報を操作して告げ口をしたんだろう。皆目、見当は付くが憶測で決めつけると尾ひれがついて余計にややこしくなる。
ずっと大来の正論を話させてペースを握られるのは気持ち悪い。俺が悪かったですと認めて負けるようなものだったから俺が、切り返して真実を伝えてみせる。
俺は昨日の詳細を伝えた。伝わるように主語と述語を整えて伝えた。
「ふむ。大体分かった。だが・・・・・・そんな情報は信憑性に欠けるなー」
「そんっ、な」
言葉に詰まる。
もしも、上手く事が進めば大来は絶大に使える切り札になる。そう思って俺はこのクラスの問題について知っていることを可能な限り大来に教えた。
西里見だって、教師からしたら目に余るほど素行の悪い生徒だろう。
誰の目にも留まらない場所で誰かを傷つけるあの女の情報を先生は共有し、知っているはずだろう。
「そうなると高杉の、お前の憶測になるんじゃないのか?たしかに西は落ち着きがない。それ故、クラス全体に眼が行き届く。そうして最前列で行動ができる。このクラスだってまとめてるのも西だ。退学した生徒の事はもう関係ないんだ。警察に立件したって今更立ち会ってくれるってか?さっきも言っただろう高杉」
————自分の行動には責任を持て・・・・・・か。
自分の自信が崩れ落ちる音が聞こえた気がした。頭の中でベルリンの壁を壊すハンマーを持ったおじさんたちが笑っていた。
「あー高杉」
大来は引き出しを開ける。
「丁度、作文用紙が三枚あるから今日中に反省文書いて提出しろ。それで帰っていいから」
そう言って居残りという取り調べの幕が降ろされた。
大来が教室を立ち去ると足音が聞こえなくなるまで心はここになかった。
廊下から音が消えて我慢して抑え込んでいた感情に歯止めが効かなくなる。際限なく溢れる激情。
俺は教卓にこぶしを振りかざす。衝撃音が響く。教卓の上に置いてある物が揺れて、もう一度力いっぱい腕を振った。
拳を槌にして殴る。小指全体が鈍く痛む。
ひたすら悔しかった。俺の意見を聞き入れてくれなかった。理解も検討も菜乃花の擁護もなし。
質の悪い正論より大来という人間の心の狭さを憎む。
俺は教卓でうずくまる。右手で渾身の力で左腕を握る。身体が軋む。
一通り俺が気持ちを発散出来たら反省文なんて書かずに帰ってやる。
「あれ、高杉、何してるの?」
唐突に和山の声が背中からした。
「別に。残らされただけだし」
「そういえば呼ばれていたもんな。あいつデリカシーないよな。人前で用事を伝えなくったっていいのになー。あんなの公開処刑だ」
後ろを振り返って和山を見る。棘がある言い方をした。ここに菜乃花はいない。よかった。こんな気持ちの状態で笑えない。
早々に帰ろうと俺は椅子から立ち上がる。
「待てよ」
和山はさわやかな笑顔で俺に接近する。
一番会いたくなかった。俺も和山の好感度は高い方だ。それでも個人的にいけ好かないんだ。極力、一緒の空間にはいたくない。
「高杉・・・・・・お前は大丈夫か?」
和山は俺を心配した。その言葉から嘘偽って人をあざ笑う気持ちがない。純粋に心配されているだけだった。
俺と和山はそこで初めて目が合った。張り詰めたピアノ線のようないつ切れるのか分からないから気を遣う。プツンと音を立てて自分が傷つくのを恐れてしまう。
荒んだ雰囲気を纏う空間であいつは俺の気持ちを落ち着かせるために朗らかに笑った。まるで空気に花が咲いたようだった。
長いまつげを携えた瞳には自信と優しさに満ち溢れている。その目で見つめられると心が溶けてしまう。人嫌いの俺は反射的に眼を逸らした。
魔法使いかカリスマかよ。
「・・・・・・」
和山を無視して俺は、自分の机にかかってあるカバンを肩にかける。
「待てって」
和山は俺の方へ来て、右手で腕をつかむ。
「・・・・・・待てよ」
優しく二度も和山は言った。
「何も聞かない。きっとそうした方がいいだろ?」
俺の腕を話して、前の人の椅子に座る。そしてまた笑う。
「何がおかしいんだよ」
俺は怒りの感情を露わにした。大来への八つ当たりが少しだけ含む言い方。
「いや別に。なんかさ、こうして面と向かって高杉と話すのって初めてだなーって思ってさ」
「これで会話なのかよ」
返してはいけないと思いながらも突っ込んでしまった。
「うん」
人当たりがよく、何でも受け止めてくれるようなオーラに俺は沈んでしまいそうだった。
「昨日の菜乃花ちゃんのいじめ止めたのって高杉なんでしょ?凄いなって思って。あの子からすれば高杉は英雄だね」
「どーでしょーねー。部活に友達にも恵まれてるんだから和山さんをヒーロー扱いされますよ。俺の行いはすぐにあなたの善行で上書きです」
俺は、どうせ普段から関わりが無いし、これからもないだろうからとタブーだと思うことを言った。
「皆んな別に俺を色眼鏡で過大評価なんてしないよ。君に話しかけるのにも勇気とかさ粗相がないかって不安になるんだ」
あっさりと否定される。
「嘘だ。だって彼女がいて、そのうえで女友達も多くていつも楽しそうじゃないか」
「何?彼女?ああ、西のことか。ううん、付き合ってないよ。中学からの腐れ縁だよ」
そして
「あ、女友達ってなのはな菜乃花ちゃんの事。まああの子は狙ってたりする」
「そうなんだ」
驚きを隠しながらも平然を装った。顔に出たかもしれない。
「もしかして唯一も菜乃花ちゃんのこと好きなの?祭りでも一緒だったしさ。けっこう学校でもあの子に話しかけるのを見たことあるし、そこんとこズバリどうなの?」
「菜乃花と俺も、単なる友達だよ」
「呼び捨てかーいっ」
クスって二人でわらった。
和山と話すのは不快じゃない。いつのまにか一時間くらい話し合った。菜乃花の事、テレビや音楽、学校の先生について。
和山の人との距離の取り方は厄介なほど上手く、懐柔されたように距離を詰められても許せていた。
物怖じしなくていい空気が和山にある。なぜか従来の友達のように会話をした。
これがリア充なのか。
自分の惨めな学校生活も和山との会話で幾分か、清算された。そんな気がした。
「じゃあな唯一」
和山は俺に大きく手を振った。俺と和山は学校の校門で別れた。俺は駐輪場、和山は部活のためにグランドに。
駐輪場ではまばらに自転車がある。部活や学校祭でまだ残っている人たちのだ。
俺はそこで目を疑った。自分の自転車のタイヤには大きな切れ込みが入っていた。
あぁもう学校をしばらく休もう。そう思い、自転車を捨てるため、川へ押して行った。