第二話 【空頼み】
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藤川さんと俺は、他の生徒が登校してくるまでメッセージをやりとりしていた。
誰も画面を覗き込む者はいないのに、なぜか他人のフリを装った。
時間は流れ、授業が始まる。連日の晴天にもかかわらず、生徒たちは黙々と黒板の文字をノートに写している。
俺は机に肘をつき、窓の外の森に目を向けた。勉強から意識を逸らし、ただ聞き流すだけ。
青空の下、木々がそよぐ。蝉の甲高い鳴き声が重なり、頭が痛くなる。
太陽の熱はまだ厳しく、夏バテで身体が限界を迎えそうだった。
下校時間までこんな場所にいる気力はほとんど残っていなかった。
周りを見ると、生徒たちは機械のようペンを走らせている。
汗を拭うのも億劫なのか、無心でノートを取る姿は、まるでマネキンのようで奇妙に映った。
三時間目の予鈴と同時に、2年A組の担任・大来が入ってきた。
彼はいつもピチピチのシャツを着ていて、日焼けした黒い肌が袖から覗く。
お腹は破裂しそうなほど膨らみ、短い手足を振って歩く姿はタヌキのようだった。
大来はプリントの束を前列の生徒に渡した。
「自分の将来について記入しろ。この内容をもとに、三者面談で君たちの進路が現実的か判断させてもらう」
その後も熱のこもった話を続けたが、俺は耳を塞ぎたくなった。
プリントを受け取った生徒たちは再びペンを動かし始める。
シャーペンのカチカチという音が教室に響く。
すでに考えていた生徒は迷わず書き進めるが、途中で筆が止まり、唸る者もいた。
それでもすぐに立て直し、書き続ける。
俺は深いため息をついた。 机の上にはシャーペンが置かれたまま名前の欄しか埋まっていない。
目標を持つこと自体が馬鹿らしく感じる。 学生の夢や高い理想を強制されるような圧力がおれは嫌だった。
十代でそんな重い荷物を背負うなんて、気が進まない。
心の中で毒づいて、教室を見回した。 斜め向かいに座る藤川さんが、気になってしまった。
膝に手を置いて俯いている。 暗い表情で何も書いていない。 俺と同じく、何も書けない人間がいることに、ほんの少し安心した。
何も書くことがないので俺は頭を机に置き、目を閉じた。
教室の音が遠のいていく。
しばらくすると、雑談の声が混ざり始めた。 ほとんどの生徒が書き終えたのだろう。
どんなことを書いているのか気になり、会話に耳を傾ける。
「お前、絶対叶えろよ」
「やめろ、まだ考えてんだよ」
友達同士で茶化したり、励ましたりする声が聞こえる。
その時、足音が近づいてきた。 俺の席の横で止まる。
先生の注意か?
「ねえ、早く起きてよ。毎日ここでサボるなら、家にいてくんないかなぁ」
顔を上げると、一林加奈が冷たい目で俺を見下ろしていた。
「何?」と返すと、彼女は語気を強めた。
「んっ!」
手を伸ばし、足を踏み鳴すとマッシュボブの髪が揺れる。
不満な態度を顔に表して何かを待っているようだ。
眠い目をこすり、彼女の意図を理解しようとしたが、頭が働かない。
「・・・・・・俺たちは友達じゃないんだから、要件を言ってもらえる?」
「は。あんた頭やばくない?」
嫌味に嫌味で返された。
「わざわざ口喧嘩しに来たんじゃないよね。何の用?」
「進路希望のプリント、早くちょうだい。ウチが集めなきゃいけないの」
「あ、なるほど」
壁時計を見ると、3時間目が残り10分だった。
「バカ?授業受ける気ないんでしょ。私が来た理由も忘れるのよ。ハッキリ言ってこのクラスであんたが迷惑なのよ」
「はいはい、そうですね」
適当に相づちを打つと、彼女の表情がさらに険しくなった。
「全員分集めるんだから、早くして」
無言でプリントを渡すと、一林は何も言わず受け取った。 前の席の生徒にも同じように無言で対応している。
だが、仲の良い生徒には天真爛漫な笑顔を振りまき、礼を言っていた。
俺は椅子に座り直し、背伸びをする。
「なんだかな」と呟き、教室を見回した。
ふと、藤川さんを目で追ってしまう。
一林が彼女に近づく。
俺にするのと同じ冷たい視線。 騒がしい教室で何を話しているのかは聞こえないが、藤川さんは震える手でプリントを渡していた。
その後、彼女はまるで風景に溶け込むように俯いた。 いつもそうやって、何もせず、誰からも気にされない存在だったんだな。
大きなイジメではない。ただ、俺と彼女はクラスで爪弾きにされているだけだ。
授業終了のチャイムが鳴り、生徒たちは友達の元へ駆け寄り、雑談を始めた。
次の授業までの5分間、教室はさらに騒がしくなる。
大来は教材を抱えて教室を出ようとしたが、入り口で足を止めた。
「高杉と藤川、居残りな」
全員に聞こえる声で言い放ち、去った。 生徒たちはクスクス笑いから一斉に爆笑。
「やめてくれよ」と叫びたい衝動を抑えた。
反応すれば嘲笑が続く。無関心でいる方が早く収まってくれる。
クラスメイトとは平等そうで不平等だ。
四時間目、俺はまた寝ることにした。
学力に自信はないが、退学になっても働く場所には困らない気がして、昔から真面目に勉強する気になれない。
放課後、グラウンドでは野球部が「1! 2! 3! 4!」と叫ぶ。
音楽室では吹奏楽部が演奏している。
青春の活気が学校を満たしていた。
大来は忘れ物をしたと言い、職員室へ向かった。
戻ってくる気配はなく、20分が経った。俺はぼんやり天井のシミを眺めて、時間を潰した。
ふとどうして彼女は俺と同じ扱いを受けているのか気になった。
昔から俺はただ単に授業態度が悪すぎた。どの先生も最初は居眠りを注意してくるが無視し続けると諦めて、何も言わなくなる。
友達は小学校の頃から付き合いのある綾瀬だけ。小中高は地元にあるエスカレーター式の学校。
一度、友達の輪が作られたら固定されてしまうので新しく参入は難しい。
人に気を遣って立ち回るなんてめんどくさい。だから居眠りをすることにした。
そのせいでクラスの厄介者になり、高校二年になっても孤立している。
藤川さんは授業態度が悪いわけではないのに、なぜか阻害されている。
理由は簡単だ。彼女は誰とも話さない。 かつて授業で教師に当てられた時、口をモゴモゴ動かすだけで答えられなかった。
教室は静まり返り、注目を浴びた彼女は立ち尽くすだけ。
教師は痺れを切らし、別の生徒に振った。
それ以来、その先生から彼女を指名することはなくなった。
藤川さんはノートと教科書を開き、今日の授業を復習していた。
シャーペンのカリカリという音が響く。
大勢の中で放置されるのには慣れているのに、二人きりの空間はなぜか気まずい。
無言に耐えきれず、話しかけた。
「藤川さん、夢とかある?」
あまりに唐突な質問だった。でも旬な話だから大丈夫だよな。
彼女は鉛筆を置き、手を机の下に隠した。 口を真一文字に閉じ、反応しない。
無言の圧が重く、恥ずかしさで背中が熱くなった。
ああ、普段からコミュニケーションを取っていなかったせいだ。
他人に無関心でいれば傷つかないと思っていたのに。
話すのを諦め、俺も俯いた。
藤川さんはそれを感じ取ったのか、シャーペンを握り直し、作業を再開した。
「ごめん・・・・・・なさい」
彼女の声は一瞬で宙に消えた。喋ることのない人だと思っていたから、対話が成立したことに驚いた。
「待たせて悪かったな」
大来が戻ってきた。
進路希望表を渡され、俺ら就職希望に丸をつけ、「スーパーの店員」と記入した。
そそくさと荷物をまとめ、プリントを渡すと教室を出た。
先生が何か言いかけたが、振り返らなかった。
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翌朝、いつも通り6時に起きた。
リビングで朝食を済ませ、洗面台へ。
天然パーマの髪が絡まるのが嫌で、毎朝洗髪し、整える。
寝間着を脱ぎ、黒いズボン、薄暗いパーカー、白のワイシャツを着る。
青と赤のネクタイを巻き、壁の時計を確認。7時20分。 家を出た。
両親はまだ寝ていて、俺は自分の朝食を自分で作る。
三人暮らしだが、朝はいつも一人だ。
登校中の日課は、幼馴染の綾瀬幸太と自転車で学校へ行くこと。
住宅街は色とりどりの屋根が並び、車が少ないので安全だ。
近道を二人で並んで走る。
「おはよう、綾瀬」
「おは、唯一」
少し外に出ただけで汗が滲む。 綾瀬は小学五年か六年の頃、青八木町から引っ越してきた。
通学路が同じで、話していて居心地がいい。 今も仲良く一緒にいる。
綾瀬は少しおでこが広く、前髪を長くして隠している。
容姿は整っていて、ちょっと羨ましい。同じ学年だが、クラスは違った。
「なぁ、今日どうする?」
「おはよう」の次はこれ。放課後の予定を尋ねる暗号だ。
「遠慮しとくよ」
「ふーん」
綾瀬はクラスで「アニメオタク」と呼ばれているそうだ。
なぜそう呼ばれるのか、彼は教えてくれない。
明光町の人は、他人と違うことを嫌う。
アニメを観るのは皆同じなのに、綾瀬はそれだけでクラスから毛嫌いされている。
自転車のハンドルに肘を置き、背を丸めてペダルを漕ぐ。 夏が終わってもまだ暑く、身体が重い。
10~15分の道のり。同じ人と、同じ道を、毎日。
飽きるけど、落ち着く、変えたくない時間だ。
「あ〜学校めんどくさー!」
綾瀬が叫んだ。
「海とか行きてー!」
俺も悪ノリで叫ぶ。
「山しかない田舎じゃ無理だ」
綾瀬は真面目な顔で突っ込んで、変顔した。
「キャンプとかしたくね?」
他愛無い会話をしてたら学校に着いた。教室はすでに騒がしい。
藤川さんの周りは、まるでバリアがあるかのように誰も近づかない。
俺も同じく人が寄ってこない。 静かに眠れるのはいいが、はた迷惑だ。
藤川さんは周囲を無視し、教科書とノートを開いて勉強していた。
「よくやるな」
それが俺の感想だった。
ホームルームまで俺は机で軽く寝ようとした。
肘を枕に目を閉じても耳がそばだつせいで教室の賑やかさがより鋭さが増した。
ふと藤川さんを見ると、彼女は一限目の理科の予習をしていた。
あと5分で大来が来て、ホームルームが始まる。
放課後、ジリジリと体力を奪う太陽の下、いつも通り寝て過ごそうとしたが、眠れなかった。
なぜか藤川さんを目で追っていた。 昨日まで特別な意識はなかった。これを「恋」と呼ぶには大げさすぎる。
綾瀬と別れ、青山駄菓子店へ向かった。錆びた看板とは裏腹に、店内は灰色のタイルが綺麗に磨かれている。
和菓子と駄菓子の棚から、どら焼きの香ばしい匂いが漂う。
「いらっしゃいませー」
カウンターで店番をする佐藤愛維がゆっくり言った。
長いポニーテールと、眉下で揃えられた前髪が特徴の大学生。
夏休みが長いからと、ここでアルバイトをしている。
「久しぶり、高杉くん」
「はい愛維さん。まだ暑いのが続くと思うと倒れそうになりますね」
店の奥から暖簾をくぐり、店主の青山俊雄が顔を出す。
26歳、タバコ臭い男。
いつもだらしない青いワイシャツを着ている昔からの知り合い。
顎髭がジョリジョリで、黄色い歯を見せてニヤリと笑う。
「お、唯一か! 久しぶりだな。何か面白いことでもあったか?」
「実は、女の子からrainのアドレスもらって…登録しようか迷ってるんだ」
俊雄が「ブフッ」と吹き出し、愛維も「ククク」と笑いを堪えた。
客がいない店内に笑い声が響く。
「マジか! おめでとう! どんな娘だよ?」
腹を抱えて笑う俊雄さんは昔から他人のことにやたらと関心を待つ人だ。
「どんなって…」
意識している分、恥ずかしさが募る。
「まあ、いいや。とりあえず『中』に入れよ」
暖簾をくぐると、タバコの臭いが充満する6畳の部屋。 でもここはたい焼きやどら焼きを作る鉄板はいつもピカピカな手入れがされていた。
畳に座り、俊雄さんが言う。
「で、どんな子なんだ?」
「静かな子だよ。いつも俯いてるけど、瞳が大きくて不思議な魅力がある」
思いつくまま答えた。
「可愛い?」
「分かんないよ」
俊雄さんはまだニヤニヤしている。
「なんで俺なんかと話したいんだろうな。ほんと分からない」
「学校じゃ目立つ子?」
「いや、俺と同じで目立たない。誰とも話さないから、いつも爪弾きにされてる」
「俺と同じって・・・・・・お前、アホだろ」
「面白そうだから、繋がってみろよ。夏も終わりそうだ。一夏の男女の関係も悪くないぜ」
他人事だからあっさり言う。
俊雄さんとは俺が小学三年からの知り合いだ。
兄貴のような存在で、いつも訳の分からないことを言うが、心から優しい人で、相談には必ず親身になってくれる。
「もらったものは大切にしろよ。必ず役に立つ。特に人間関係はな。
気になってるなら繋がっとけ。人は後で後悔する。今の後悔か、後の後悔かで人生が決まる。単純に生きろ」
ヤニ臭い手で私の頭をポンポンと叩き、笑った。
「意味を求めても始まらない。人生は欲望だ。意味なんてどうでもいい。分かるか?」
豪快に笑う俊雄さん。
「知ってるよ。ライムライトだろ」
チャップリンの名作映画だ。
「お前、本当に映画が好きだな」
オレンジ色の夕陽が沈み、秋の気配が漂う。
濃い緑の葉が、紅やオレンジに染まり始めていた。
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