第一話【GO‼︎】
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思い出が少ないから、幸せを祈願する気にもなれない。交流が乏しいから、つい塞ぎ込んでしまう。
これまでの悪癖が積み重なり、たまたま功を奏した判断もあった。
高杉唯一は、クラスで誰からも見向きもされていない存在だった。
高校二年の夏休みが終わり、数日が過ぎた。
クラスの半数以上は受験戦争に向けて学力向上に励んでいる。
周りの人達の意識が高まる中、唯一だけがその流れに乗れずにいた。
他の生徒と比べ、無気力に時間を費やしていた。
勉強への意欲は皆無なので出席日数を稼ぐために登校している。
唯一の趣味は映画鑑賞だったが、最近はその情熱も薄れていた。
勉強でもすればいいのに、頭では分かっていても、映画以外に時間を潰す方法を知らない。
今夜も20時を過ぎても教科書は開かず、かつて最も好きだったアクション映画でさえ心が動かない。
惰性でブラウン管テレビを眺めているだけだった。
画面には、薄暗いアジトの広場が映し出され、主人公の仲間たちが宙吊りにされているシーン。
胸が締め付けられる場面のはずなのに、緊迫感が薄い。
かつて感じた胸の高鳴りは、遠い記憶の彼方に消えていた。
そんな重い雰囲気の中、微かにピアノの柔らかな音が聞こえてきた。
最初は映画のBGMかと思った。
だが緊迫したシーンに合わない。ゆったりとした音色は緊張感を台無しにしている。
不快感が募り、ついには耳障りになった。
観る気を失った俺は、モニターのの電源を落とす。
テレビ画面が暗くなっても、ピアノの音は止ない。
ふと、先日までお盆だったのを思い出した。
超常的な現象なんて信じられない。きっと近所で誰かがピアノを弾いているのだろうと結論づける。
きっと住宅街に住む近所の奴だろう。
こんな時間にピアノを弾くなんて、常識外れだ。
誰が弾いているのか確かめようと、俺は自室を出た。
玄関の扉を開けるとそよ風が体を優しく撫でた。
満月の光が雲ひとつない夜空に輝き、眩しいほどだった。
外だとピアノの音がより鮮明に響き、街に美しい旋律が広がる。
家の二軒先から10人ほどの人だかりができていた。
驚くことに、演奏が続く中、誰もが目を丸くし、息を呑んで立ち尽くしていた。
自然と俺も集中される視線の先を伝う。 そこは塀のない二階建ての一軒家。小さな花壇と、居間らしき部屋の窓が解放されていた。
奥には白のワンピースを着た女性がグランドピアノを弾いている。
どんな奴が弾いてるのか知りたいが遠目からだと彼女の顔は肩まである髪に隠れてしまっていた。
彼女の手元を照らす簡素なスタンドライトからは、温かみのある橙色の光が照射され、我々の背後に浮かぶ満月が冷たい光を放っている。
人工の光と自然の光、2本の光芒が交錯して彼女を艶やかな甘美の存在へと昇華させた。
この場を、この時間を、即興の独奏会のために用意された舞台になった。
近所にこんな人が住んでいたなんて知らなかった。
突然、彼女の腕が激しく動き始めた。 それまでの静かなメロディーとは一変し、鍵盤を叩く音が増え、テンポも速くなる。
素人目にもその楽曲の難易度の高さを肌で感じた。
「なんの曲なんだろうね」
誰かがツレに質問した。
俺はその曲を知っている。シュピルマンが劇中で演奏した曲だ。
しかも、彼女はそれに独自のアレンジを加えていた。
肩まである黒いストレートの髪がヘッドバンギングのように揺れ、乱れる。
荒々しいのにミスのない指使い。
精巧な演奏で音楽を構築する彼女に、俺は圧倒された。 周囲と同じく、立ち尽くすしかなかった。
興味本位で近づいてみると、心は蜘蛛の巣に絡まる蝶のようだった。
彼女のピアノへの異様なまでの情熱へ誰もが釘付けになる。
人だかりはさらに増えていたが、注意する者は現れなかった。
皆、観客として生演奏に魅了されていた。
もう、それでいい。
俺たちは彼女の美しい演奏に浸っていたくなった。
「すげえと」誰かが目を輝かせて呟く。
俺も同じ気持ちだ。 魅了され、癒され、心が高揚した。
だが、どんなものにも終わりがくる。
「ジャン!」と心地よい音を響かせ、彼女の手が鍵盤から離れた。
深い息をつき、首を垂れる彼女。
次を期待する者もいれば、終わりを察して息を呑む者もいた。
誰もが彼女の次の一挙手一投足に心を奪われ、静かに期待した。
「ありがとう!」と誰かが叫ぶと彼女は肩を震わせた。
指笛が鳴り響いて、拍手が始まった。
最初は一人、それが二人、三人と増え、歓声の嵐となった。
彼女は急いで窓に駆け寄ってカーテンと窓を勢いよく閉められた。
ここで独奏会の幕が下りた。
実は直前、彼女と目が合ってしまった。
俺は彼女を知っている。同じクラスの藤川菜乃花さんだった。
大きな目が特徴的で、誰とも話さない、透明な存在。
今、彼女は大衆の視線に晒され、怯えたように表情を強張らせていた。
結局、誰も注意することなく、皆が帰路についた。
隣近所の人々が「感動した」と感想を言い合う声が聞こえてきた。
誰もがまるでコンサートを堪能した気分だった。
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翌朝、高校へ向かう道で、友達の綾瀬と合流した。
綾瀬幸太は細長くて切れ長の目が特徴的なやつ。
小学五年生の頃に近所に引っ越してきて以来、自然と仲良くなった。
いつも自転車のハンドルに両腕を乗せて俺を待っていてくれる。
「おはよ。行くか?」
「おう」
二人で自転車を漕いで並走する。
「なぁ、昨日の夜のこと知ってる?」
俺が言うと綾瀬は縦に首を振った。
「誰かが近くでピアノ弾いてたんだろ。母さんが言ってたよ」
「行ったんだ、俺。すごかったぞ」
「へえ、なら俺も行けばよかったな。イヤフォンして勉強してたから気付かなかった」
「そうか」
「で、誰が弾いてたんだ?」
「俺のクラスの藤川さんだったよ」
「そう、だったんだ・・・・・・」
彼女の名前を出した途端、会話が途切れる。雰囲気が薄れたので綾瀬を見ると青ざめた顔で唇を噛んでいた。
「どうした?」
「いや、なんでもない。そっか、近くに住んでたなんて驚きだな」
彼は口ごもった。
「生活スタイルが違うから、狭い住宅街でも会わなかったんだろうな」
「きっとそうだ」と綾瀬が言い、会話は終わる。
残暑が厳しい季節の変わり目。 何も話さなくても、居心地は悪くならない。
学校に着くと、綾瀬とはクラスが違うので廊下で別れた。
まだ誰もいない教室。 木目のタイルから木質の匂いが漂う。
やがて人の匂いでかき消されてしまうからこの、朝だけの清涼な空気感が俺は好きなんだ。
いつも30分は誰も来ない。 窓を開けると、グラウンドから朝練の掛け声が聞こえる。
風に乗って山の夏草の香りが運んでくる。
携帯は触らない。俗世を持ち込むとこの雰囲気が壊れそうで嫌だったからだ。
透明人間になった気分で、静かに時間が流れるのを感じていた。
だが、今日は昨夜のことが頭から離れない。 脳内で、藤川さんの演奏が何度も再生される。
彼女と目が合ってから、心臓の鼓動が止まらない。昨日だって寝付けなかった。
「あぁ、楽しかったな」と口角が上がる。
その時、ガラッと扉が勢いよく開いた。 朝練を終えた生徒が入ってきたのだろう。
一人でいられる時間が終わったと思うと、気分が沈んだ。
クラスの人が苦手な俺は机に頭を伏せた。
しばらくの、無音。 靴音だけが響き、俺の近くで止まった。
ぞわぞわとした感覚が走り、血の巡りが鈍くなるような恐怖を感じた。
早く去ってくれと念じる。机の空いたスペースに何かを置く音がした。
小走りで遠ざかる足音。
顔を上げると、若緑色の便箋が置かれていた。 カエルのイラストが描かれ、差出人は藤川菜乃花だった。
誰もいない教室に彼女は自分の机に座っていた。
目が合うとすぐに逸らされたが、俺は手紙を開いた。
手書きの文字は華奢で、罫線をはみ出さないよう丁寧に書かれていた。
鉛筆の上からボールペンでなぞられた跡があり、紙は少し萎れていた。
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拝啓 高杉様
初めまして。急なお手紙で失礼します。
昨晩のピアノ演奏をご覧いただき、ありがとうございます。
夜遅くの非常識な行動でご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
手紙を書いたのには理由があります。
私を助けていただけませんか。
昔から人と話すのが苦手です。
でも、本当は変わりたい。皆のようになれるなら、そうなりたい。
私と友達になってください。
他の人ではなく、高杉さんだからお願いしたいのです。
やらなければならないことがあります。
その手助けをお願いできませんか。
突然のお願いで恐縮ですが、直接話すのは緊張するので、
0717…から始まるrainの登録をお願いします。
ご返事、お待ちしています。
敬具
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読み終えると、携帯を取り出し、緑色の連絡アプリで番号を検索した。
すぐにウサギのアイコンと「はな」のアカウントが表示された。
俺は藤川さんの席に駆け寄った。 彼女は俺を見上げる。
携帯画面を彼女に見せ、指で示す。 彼女は大きく頷いた。
「手紙、ありがとう。その、よろしく」
つい無愛想な言い方になってしまった。
初めて友達になりたいと言われ、気恥ずかしかった。
何を話せばいいか分からず、沈黙が生まれた。 緊張で顔が熱くなる。
ベタベタするのは好きじゃないので、俺はすぐ自分の席に戻った。
ポケットから着信音が鳴る。
携帯を取り出すと、「よろしくお願いします」とメッセージが届いていた。
誰もいない教室は、俺の世界だった。
その響きにかっこよさを感じ、酔っていた。
今は二人だけの時間。
他愛もない会話を、メッセージで誰かが来るまで送り合った。
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