三条天皇中宮*妍子
藤原道長には六人の姫がいました。
今日はそのうちの次女、三条天皇の中宮となった妍子のお話です。
妍子は正暦五年(994年)三月に生まれました。
生母は長女の彰子と同じ、鷹司殿倫子です。
彰子が、一条天皇の第三皇子敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産した翌年。
道長は次女の妍子を東宮・居貞親王のもとへ入内させます。
彰子より六つ年下の妍子はこの時、十七歳。
この時、三十五歳だった居貞親王にはすでに、二十年近く連れ添った宣耀殿の女御娍子との間に四人の皇子がいました。
東宮よりも年上だった娍子はこの時、すでに四十近い年齢でしたが、もともと美貌の評判を聞いた東宮が自ら望んで妃に迎えたという女性で、多くの子に恵まれたこともあり夫婦仲は非常に睦まじかったようです。
そんなもう完全に出来上がっている熟年夫婦のもとへ、割り込んでいって男皇子を儲けなければならない。
妍子の人生もなかなかのハードモードですね。
平安のお姫さまも楽ではないです。
彰子に二人も男皇子がいる以上、もうそっちはいいんじゃないか?
下手に男皇子が生まれても逆にややこしくならないか?
と思ってしまいますが手駒は一人でも多い方が良いということでしょうか。
妍子が入内した翌年。
居貞親王が即位し、三条天皇となります。
妍子は女御の宣旨を受け、翌年には中宮に冊立されます。
男皇子が四人もいる古参の妃を押しのけて、即立后とか一見道長がものすごく横暴に思えますが、当時后の位に登れるのは大臣以上の貴族の娘だけとされていました。
大納言のまま没した父を持つ娍子の入内は、先例がすべての時代、あり得なかったのです。
とはいえ、天皇にしてみれば長年連れ添った恋女房があまりに不憫です。
四人の皇子たちの将来を考えても、生母が女御の一人というのと后であるというのでは大きな違いです。
三条天皇は、娍子の亡き父・藤原済時に右大臣の位を贈ることで娍子を皇后として立后します。
娍子への深い愛情とみるべきか、道長への意地とみるべきか……。
父と天皇の微妙な緊張状態のなか、妍子は懐妊します。
この子が皇子だったらまた歴史は別の展開を見せたのかもしれません。
しかし、妍子が出産したのは皇女でした。
禎子内親王です。
『栄花物語』には妍子の出産のときの様子が描かれていますが、お産が終わったようなのにいつまでも、御子の性別がどちらであったのかという知らせが伝わって来ないので、人々は「ああ、姫宮だったのか……」と察したという記述があります。
宮中にも、はっきりとは奏上されなかったので、天皇の側も事情を察して祝いの使者を遣わしたともあり、当時は皇子ではなかった時は、はっきり「姫宮ご誕生でございます!」とは言わなかったんですね。
それだけ皇子の誕生が重要視されていたということなのでしょうが……。
そんななかで姫宮を産んでしまった妍子の心中は察するにあまりあります。
父の道長も、「まあ、次もあるし…」と言いながらも、残念な気持ちを隠そうともしなかったようですから……。
つくづく、妊娠だとか子供の性別だとか、不確定な要素に左右されまくっているこの時代の政治のシステムというのが、不思議だなーと思います。
失意の妍子のもとを三条天皇が訪れます。
生まれたばかりの姫宮を道長が抱いてきて、天皇に渡し、天皇が姫宮をご覧になって
「なんて可愛い子だ。こんな子は今まで見たことがない」
という一見微笑ましい場面が展開されますが、これがねえ…天皇ご自身にとっても初めての御子であったならまだしも、天皇には皇后娍子との間にすでに四人の皇子がいらっしゃいますからねえ……。
天皇もそれが分かっているからこそ、わざわざ
「こんなに可愛い子は初めて見た」
とリップサービスも含めて、仰ってるのでしょうが、道長サイドからしてみると、他にも沢山御子がいるというのを再確認させられるお言葉だったかもしれないですね。
それでも、この「栄花」の産後の妍子と天皇との対面の場面はとても良いです。
天皇が姫宮を抱いてあやしていらっしゃるところに、妍子が出てきます。
白菊襲の衣装にゆたかな髪が艶やかに流れてとても美しい様子です。
妍子は道長の娘のなかでは一番の美人さんだったんじゃないのかな?
「栄花物語」には妍子の美貌、とりわけ当時の美人の条件とされた髪の見事さをたたえる記述が繰り返し出てきます。
天皇は、姫宮の御髪が生まれて間もないのにすでに黒々と美しいのを見て、
「この髪の見事さは母さま譲りだね」
と言って、産後もいっこうに衰えない妍子の美しさを賛美しています。
天皇は、姫宮を抱いたまま親子三人で御帳台に入ると、
「一日も早く宮中に帰っておいで。姫宮の乳母などはいらないよ。この私が乳母のかわりとなってずっとお側にいるから」
などと仰り、それを聞いた妍子も
「まあ、どうかしていらっしゃいますわ」
と言いながら、クスクスと笑うのでした。
皇子を産めなかったことで、面目を失い落ち込んでいる妍子は天皇のお優しさがどれほど嬉しかったことでしょう。
とても和やかで微笑ましい場面です。
天皇にしてみたら、愛する娍子の産んだ皇子たちの立場を脅かしかねない男皇子が誕生しなくて良かったと思っていて、妍子の産んだ子が姫宮だったからこそ、機嫌良く、こうして労わってくれているという見方も出来るのかもしれません。
けれど、「栄花」のこの場面からは、そういった打算は抜きにして、年若い后をいたわる帝のお優しさが伝わってくるような気がします。
姫宮の誕生から三年後、三条天皇は譲位します。
東宮敦成親王(彰子の子)の一日も早くと切望する道長との水面下での争いに屈した形での譲位でした。
その翌年、三条天皇はひっそりと世を去ります。
皇太后となった妍子は、亡き天皇から拝領した枇杷殿の邸に一人娘の禎子内親王とともに移り、そこで暮らしました。
ついに皇子に恵まれることのなかった彼女は、その後政治の表舞台に出ることはありませんでしたが、姉妹のなかでは最も華やかさを好む性格だったようで、兄の頼通が、「皇太后宮の女房がたの装束はあまりに華美過ぎる」と苦言を呈したという逸話も残されています。
世間の流れが、彰子と彼女の産んだ一条天皇系の皇子たちの方が主流になっていくなかで、道長と不仲であった三条天皇のもとへ嫁ぎ、皇子にも恵まれなかった妍子方の女房には、口には出せない鬱屈があって、衣装に凝るくらいしか発散の方法がなかったのかもしれませんね。
万寿4(1027年)3月。
禎子内親王が、東宮敦良親王(後朱雀天皇)のもとに入内します。
それを見届けるようにして、その半年後、妍子は三十四歳で世を去ります。
姉の彰子が八十七歳という長寿だったことを思うと、あまりに早すぎる死でした。
道長夫妻は、妍子が亡くなると、
「老いた私たちを置いてどこへ行かれるのか。どうかお供をさせておくれ」
と言って嘆き悲しんだと言われています。
妍子の娘、禎子内親王は後朱雀天皇との間に、一男二女を儲けました。
この男皇子……尊仁親王はのちに後三条天皇となり、藤原摂関家の全盛時代を終わらせるのに大きな役割を果たす存在となっていくのです。
妍子さんの生涯というのも、とても興味深いです。
父道長と三条天皇との対立の間で何を思い生きていたのか。
苦悩していたのか。それとも「源氏物語」の女三の宮のようにおっとりと、高貴な無関心のなかで生きていたのか。
彼女のお話もいつか書いてみたいですね。