マイ・イマーゴ
http://5506.mitemin.net/i137583/
挿絵として使われている、伊燈秋良さんのイラストです。
光は12歳になった誕生日、家族に連れ出されたバースディ・パーティ会場からの帰り道に事故に巻き込まれた。父と母と、母のおなかの中にいた顔も名前も知らぬ妹、祖母とその運転手が犠牲になったが、後部座席に座っていた光は身体に甚大な欠損を負ったものの脳だけが無事であったために、彼女の身体は病院に運び込まれ、脳と骨髄以外の身体を義体化して生き永らえた。光は取りあえず、死の運命を回避することが出来たことに安堵することにしたが、入院生活を終え、元の生活を取り戻したのはちょうど一年後、13歳の誕生日になってからの事であった。病院でのリハビリ生活を終えて、ようやくまともに歩けるようになり、指先を自由に動かすことが出来るようになったのである。両親がおらず、身寄りもなく、学校に通うことが出来るようになるにも一苦労であった。全寮制の中学校に通い、地元から離れた女子高へ入学が決まった。16歳の誕生日を目前に控えたころ、制服が夏服に変わる時期になると、光はよく、夢を見るようになった。
義体は脳と脊髄以外の部位に、人工の筋肉と心臓、そして疑似的な神経を張り巡らせた機械の身体である。医療現場に投入されるようになった数十年ほど前からというもの、身体に問題を抱える人間の社会復帰率は極端に増え、義体産業は日本の技術力と世界的なニーズに支えられ、日本は経済的に飛躍的な発展を遂げた。光のように可能な限りほとんどの身体を義体化した例は世界でも数件しか例のない難しいものであり、まず四肢を動かすことが出来るようになるまで一か月、指先を動かすのにさらに一か月、自分で歩くことが出来るようになるまで半年かかった。
義体化した人間は一様に、睡眠時に夢を見ることが出来なくなるという、奇妙な症状を抱える。
光もそうであった。原因は不明であるが、夜に眠気を覚え、次の瞬間、気が付くと太陽が昇っているということが常であった。光は長時間睡眠であった為、20時から気が付くと8時になっていて、空白の半日間を想像する日々が続いたのである。果たして自分は、この時間に何をしていたのか? 眠っていたのか、それとも自分が覚えていないだけで夜な夜な徘徊でもしているのだろうか。寝る前に読書をしていても、どこまでそれを読んでいたのかを覚えていない。この空白の時間が途方もなく恐ろしかったので、だんだんと眠ることを出来るだけ我慢するようになった。しかし、夢を見るようになってから、その恐怖は少しずつ薄れていき、また別な恐怖を感じることになったのである。
夢の内容は、こうだ。自分は海の中にいる。日本の工業地帯にある汚れた海ではなく、南半球の美しい、青緑色の透明な海である。その、水の中にいる。水面は太陽の光を複雑に反射して光り、しかし自分は両腕も、両足も動かすことが出来ず、ただただ沈んでいくのみ。視界は常に、上を向いている。かろうじて右手を水面に伸ばそうとすると、肩から腕が千切れて、水面に向かって浮かび上がって、沈んでいく自分から離れていく。次は左手。そして右脚、左足……自分は四肢を失い、何も出来ぬ身体となって、海の底へ沈んでいく。やがて、太陽の光も遠ざかっていき、無明無音の世界に飲み込まれていく……そして、視界が真っ暗になった瞬間にいつも目が覚める。
目が覚めるたび、まずは自分の腕と足がきちんとそこに在ることを確認するところから、光の一日が始まるようになった。学校でも光は決して「浮いた」存在ではなかったのだが、たびたび手足の感覚をふと、喪失してしまったような感覚に陥ることがあり、その度に背筋を撫でられるような後ろ寒さを感じた。
「光ちゃんって、どこからどこまでが義体なの?」
クラスメイトの灯が、そんなことを尋ねてきたことがある。灯も光と同じように事故によって半身不随になり、左手と左脚とを義体化していた。
「ぜんぶ」
「ぜんぶ?」
「脳と脊髄以外、ぜんぶ」
「だから、いっつも腕とか脚とか、さすってるんだね」
光は目を丸くした。「さすってる?」
「授業中とか。式典の間とか。よくやってるじゃん」
「そうなんだ」
「私も、やっちゃうんだよね、たまに」
灯はゆったりと席に座った。灯は義体の重みが左半身に集中しているので、いつも背もたれに横向きに寄り掛かって座る癖があった。光は全身がくまなく義体なので、そんな風に身体が傾くことはなかった。ナマの右手で左手をさすりながら、
「たまに、ね、左手がない! って、そんな風に思うことがあってさ」
「うん」
「私、左利きだったんだけど。事故に遭って、左手を義体化してから動かせるようになるまでにすごく時間がかかって、右手で無理やり鉛筆を握ってたんだ、それが今でも抜けなくて」
灯は確かに、右手で鉛筆を持ち、右手でノートに文字を書く。携帯電話も右手で操作しているし、箸だって右手で持っている。
「でも、今はすっかり義体にも慣れてきて、本物の左手みたいに使えるようになってきたんだ。するとさ、ふっと、『本物の左手』って、どこ? って」
「私には、よく分からないな、それ」
「本物みたいに使えるようになってきたはずなのに、『本物』との違いを面と向かって突き付けられているみたいで。変な気持ちだよね。光ちゃんは、そんな気分になること、ない?」
笑いながら灯が首をかしげる。光は自分の顔を知らない。鏡を見たことはあるし、小さいころの写真だって残っている。しかし、今の自分の顔は成長予測に基づいて再現されたものに過ぎない。
「分からないな」
「分からない?」
「私の身体に『本物』は、ほとんどないから。ずっと、からっぽのまま」
義体化は、よほどの重傷でないと適用されない。それほど普及しているわけではないから、光にとって灯は数少ない悩みを共有できる友人だった。
「今日、うちに泊まりに来ない?」
ふと思い立って、光は言ってみた。
灯は腕をゆったりと組んで、余裕の表情で言った。「突然だね」
「ちょっと、気になることがあって。ご飯くらい、作れるからさ」
「いいよ」
光は高校に上がってからは一人暮らしをしている。病院や施設の援助と、奨学金を貰って何とか生きていける程度の生活水準で、二人分以上の生活費などはなから工面されていないのである。しかし、貯金を切り崩して友人のために豪華な食事を作った。
「美味しかったよ」
灯は右手でお腹をさすりながら、「料理、上手なんだね」
「私はそんなに食べられないから。作りすぎちゃったかな」
「ぜんぜんいいよ」
21時の時計を回った。光の部屋には必要最低限の物しかない。テレビもないのである。部屋にあるものと言えば、勉強机と本棚、ベッド、そこに入ったわずかばかりの本ばかり。狭い部屋の真ん中に円い卓袱台と座布団を広げて、二人はそこに座っていた。食事を終え、食器を自動洗浄機に突っ込んでから、光は寝巻きに着替えた。普段なら、もう眠る時間である。灯もそれにつられるようにして着替えを終え、眠る準備に入る光をじっと見ていた。部屋の中を見回し、ふと、本棚に目を止めると興味深そうに立ち上がって、本棚に並んだ背表紙のうち一冊を手に取った。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。
「フィリップ・ディックって。今どきマニアックじゃない? しかも紙媒体」
「高校に入学するときに買ってもらったの。病院の先生に。なんでも一冊買ってくれるっていうから、それにしたんだ」
「また、どうして」
「タイトルがね。好きで」
義体の調整から開発まで、ずっとつきっきりで世話をしてもらった先生はひどいSF好きであった。よく読ませてもらった。紙の本を手に持ち、文字を目で追い、指先でページをめくるのは、五本の指から眼球、視神経まで義体化されている光にとってはすばらしいリハビリだったのである。それから本を読むのが、いつの間にか癖のようになっていった。
「義体化すると、夢を見なくなるっていうでしょ?」
「夢喪失症候群でしょ、私もそうだよ、すっかりご無沙汰」
「最近、良く夢を見るんだ」
「全身くまなく義体化してるのに?」
「不思議でしょ、でも本当に見るの。それで今日、灯に来て貰ったんだ」
「どんな夢なの?」
光は事細かく、夢の詳細を灯に伝えた。
「ふうん」
特に興味を持つでもなく、灯はそう呟いてベッドに腰かけた。「フロイトに、カール・ユングに、そういう本ばっかり読んでても解決しなかったんだ?」
「この人たちの時代には、義体なんてなかったから」
「それもそうだね」
義体の身体は欠伸が出ない。あらゆる身体機能を義体が賄ってくれるからである。必要最低限の生命維持機能は保証されているが、欠伸はカットされているらしい。思えば、欠伸というものがどういう感覚であったか、光は既に思い出すことも出来ない。
「SF読んでも、分からなかったから。もう、灯くらいしか、頼れる人がいなくてさ」
「寝ようよ」
スイッチを押して、電気を消した。
光はベッドに横になり、その隣に灯が横たわる。初めは二人で並んで、横になって、天井を見上げていた。小さな窓から入る月明かりに、二人の顔が照らされていた。義体化された視神経は、暗闇でもたいていの物は把握できる。街灯に照らされた眩しい都会の夜でも、星の一つ一つがはっきりと分かるのである。十年単位で、星座早見表は書き換えられている。星は燃え尽きてからも、はるか遠くから燃え尽きる寸前のエネルギーが明かりとなって輝いているだけである。なので、その情報がつきると星は消える。それをリアルタイムで見続けることになるのかと思うと、光は憂鬱だった。
隣で眠っている灯が、身をよじって左半身を下に向けた。光も身体をもぞもぞと動かして、灯と向かい合う。
「眠れない?」
灯が言った。「そんなことないよ」
「子守歌でも歌おうか。それとも、ホットミルクでも作る?」
「ミルクは……」
義体に必要なのは脳と神経の維持に必要な、最低限の栄養素のみ。空腹感もないため、点滴さえあれば生きていける。そのほかの飲食物は基本的に経口摂取こそできるが、そのまま排出されるのが落ちだ。
「いいよ」
「不便だね、全身義体」
「そんなことないよ。これが無かったら、私の人生とっくに終わってるし」
――と、思っている。
「中途半端に義体化するよりも、いっそ、ぜんぶ作り物の身体になった方が気持ちが吹っ切れるのかもね」
灯は皮肉っぽくつぶやいた。視線は光の方を向いているが、光に向けられた言葉でないことは分かっていた。
「生身って、つらい」灯の右手が伸びて、光の頬を撫でた。「機械の身体と違って、怪我をしたら痛いし、血も出る。アザが残って、交換が利かない。ちょっとぶつけただけで」
「私は全身義体だから、痛い、なんて、もう覚えてないや」
「子宮もないの?」
「ない」
「かわいそう」
悪意が無いことは分かっている。そういうものなのだ。この身体は。光の視界はわずかばかり、揺らいだ。涙が流れるわけではない。脳が重たくなってくるような、不思議な感覚に陥った。
「あたたかいね、光ちゃんの身体」
「そうなの?」
「分からないかもしれないけど、ちゃんと、あたたかいよ」
不意に、意識が途切れた。激しい着水音と同時に背中を叩きつけるような衝撃。しかし、それは現実の感触ではなく、想像の中のそれでしかない。鈍い音と、かすかな違和感。白い水泡に包まれながら、緩やかに海底へ引き摺られていく落下感と、浮かび上がろうとする浮遊感。どれも実際には感じていないはずなのに、なにからなにまで事細かく知覚できる。奇妙だった。人間の脳に刻み付けられた。体験したことのないはずの領域。沈みゆく中で、光は両腕で膝を抱えて、胎児のように丸くなる。この時点でまだ五体満足であることを確かめたのである。
これは夢だ。
隣に寝ていた灯の姿はない。光は、ばたばたともがいたり、水面に向かって水を掻いたりするようなことはしない。四肢の感覚が、少しずつ薄れていく。指先に力を入れて、また抜いて、入れてみる、そんな単純なことの繰り返しでも、出来なくなっていく。やがて、左肩に罅の入るような感覚。ぼろっと、あまりに簡単に光の左腕は千切れて、水面に向かって浮上していく。ただ、それを見上げるしかできない。特に感慨もないのである。義体はいくらでも代替がある。
やがて、見上げていた水面――ちょうど左腕が浮かんでいったあたりだろうか、何か重たいものが落ちたような音がした。白い水泡に包まれながた落ちてきた黒い塊。それはよく見れば人のような形をしていた。
「灯?」
この時光は、自分はこの海の中で声を出すことが出来ることを知った。今までは声を上げる事も無く、なすがままに自分の身体の崩壊を観測していた。しかし、今回はこの海の中で、ひとりではない。
黒い人影はこちらに気付いたらしい、両手両脚を人魚のようにして、こちらに向かってくる。「光ちゃん、ここは?」
「夢だよ」
「夢? 私が?」
とても手の届く距離でなくても、二人はきちんと会話が出来る。灯の左腕と左脚は、灯の肌の色とはほんの少し違う、暗い海の中でもはっきり見えるほど、ほんの少しだけ輝きを放っていた。灯は右手で、左手をさすった。
「左手は、ちゃんと、ある。光ちゃん、あなたの左腕は?」
「なくなっちゃった。いっつもそうなの」
右の肩に、鈍く、亀裂が走る。
「右腕が……」
「うん。いつもそうなんだ」
ぼろっと、右腕が肩から崩れた。ほんの僅か残っていた右腕の感覚が、消失する。右腕は浮力に従って、水面に向かって、光の真上にいる灯の元へ浮かんでいく。ただ、それを眺めていた。灯は浮かんでいく光の右腕を、ナマの右腕で掴んで抱きかかえた。
「つめたい」
「義体だからね」
「でも、光ちゃんの身体はあたたかいよ」
「私の義体じゃなくて、義体という、モノだからだよ」
灯は、自分の左腕を見た。そして、自分の左脚を見た。両手に抱きかかえた右腕は、少しずつ崩壊していく。やがて完全に消失して、水泡に紛れて水面に浮かんでいく。初めて、灯の真顔を見た。いつも笑顔をたたえている灯の顔は、信じられないものを見るように、しかしどこか現実感のない――まるで、全く理解の出来ない前衛芸術を目の当たりにしたような。
「私も、こんな風になるのかなあ」
「怖いよね」
「怖くないよ。むしろ、ちょっと嬉しいかな」
顔に、笑顔はない。
「たまには腕も脚も、とっぱらいたい時があるの。光ちゃんは出来ないかもしれないけど、私はたまにそうしたい。大変なんだよ、左側ばっかり重たくて、背骨が歪んできてるんだ、真っ直ぐに立ってるだけでも精いっぱい。成長に合わせて義体を取り換えるたびに重さも変わるから、その度ちょっとずつ、ズレてきて、結局ぴったりの大きさになったためしがないんだもの。こんな腕も、脚も、本当はいらない、電動車椅子でもいいから、私は生身の侭で生きていきたかったよ」
光の両の脚が崩れて、水面に浮かび上がっていく。
「私には、そんな選択肢も無かったよ」
「光ちゃんはそうかもね」
「脳と背骨と、背骨の中の脊髄しか残ってなかったから。喋れもしないし、書けもしない、もちろん歩いたり、聞いたりすることもできないから。気が付いたらこの身体になってた。拒否権も無かったんだよ、死にたいですとも、死にたくないですとも、言えなかった」
「そうだね」
「灯ちゃんのことが、うらやましいよ、うらやましいけど、灯ちゃんみたいになりたいとは、思わないかな」
「私もだよ、光ちゃん」
視界がぼろぼろ崩れていく。黒に浸食されていく。深海の群青は、黒く闇を醸した錆青に変わっていく。その変色層を見上げながら、崩れていく視界の中で灯の左腕と左脚だけが、星のように明るかった。
閃光があふれた。気が付くとアラームの音が部屋の中に鳴り響いていた。時計を見ると朝の六時だ。やたらと早く目が覚めてしまったので、光は身体を起こしてから、また、横になった。ふと思い立って、自分の腕をさする。両腕とも、ちゃんと動く。両脚をさする。きちんとついている。今日の夢も、やっぱり夢でしかなかった。義体はぼろぼろと崩れたりしない。光の横には灯が眠っていた。灯は相変わらず身体の左側を下に向けて、目をぴったりと閉じ、口をわずかに開いて、浅い呼吸を繰り返している。
光は、右手で灯の頬を撫でた。
ぬくもりを感じる。それは、本来、人間の神経を通して伝わるものではなく、触れたものの温度を伝えるだけの、最低限の機能でしかない。それでもナマの血潮が、この頬の下に流れているのかと思うと不思議な気分になった。自分にはないものだからだ。試しに自分の頬に触れてみても、なにも感じない。あたたかいよ、と、灯は言ったけれど、光はどうしてもそれを信じることが出来なかった。ただの作り物に、どうしてあたたかみを感じられようか。窓から差し込む朝日が、機械仕掛けの視神経に作用して、ナマの脳を叩き起こす。まぶしくてとても眠れる気分じゃなかった。
「今日はずる休みしちゃおう」
「光ちゃんがそんなこと言うなんて、珍しいね」
制服に着替えて、朝食をコンビニエンスストアで買ってから、光はそう言った。灯はまた、笑いながら、それでも頷いてくれた。
「昨日、夢を見たの」灯は菓子パンを頬張りながら、「その夢には光ちゃんもいてね。海に沈んでるの。ふたりして。私よりもずっと深くて暗い所に光ちゃんがいて、光ちゃんの腕と脚がぼろぼろ崩れていくの。私のところに、千切れた光ちゃんの右腕が浮かび上がってきたときは本当にびっくりしちゃって。それで、光ちゃんは腕も脚もなくなってから、もっと身体がぼろぼろ崩れていって、終いには影も形もなくなっちゃうんだ」
「そうなんだ」
光は、自分が最後には影も形もなくなってしまったということを知った。
「それから?」
「その後、私の左手と左脚も、光ちゃんと同じように崩れていってね、……すっかりなくなっちゃって。それからずっとずっとずっとずっと、深くて、暗くて、重くて、冷たい、海の底に沈んでいった。それで、だんだんと光が失われて行って、終いには何も見えなくて何も聞こえないような深みについたの」
「それから?」
「寒かった。とても。でもふっと、星みたいなきらきらしたものを見つけた。そこに向かって泳いでいこうと思ったんだけど、右手と右脚だけだから全然、思うようにいかなくて。そのうちに、その、きらきらしたものは少しずつ消えて行っちゃった。そしたら目が覚めたの」
「そうなんだ」
街を歩いて抜け、海の見える高台の公園まで来た。海風と言うのは、義体にとっては不快なものでしかない。身体が動かしにくくて仕方がない。ふと公園に据え付けられた時計を見ると、10時を回っていた。とっくに一限の授業が終わっている時間だった。
「本当にずる休みだね」
「そうだね」
「どうして、私の夢の続きを、灯ちゃんが見るんだろうね」
「不思議だよね。あの夢はやっぱり、光ちゃんの夢なんだ」
公園から伸びる、長い階段を下りて、海に向かって歩き続ける。たびたび、灯は立ち止まって肩のあたりを右腕でさすったり、左脚を気にしてみたり、してみた。
「どうしたの?」
「海風が、ね」
ちょっとつらそうに、眉をしかめながら灯は言った。「義体と生身の接合部分が、ちょっと痛む。雨の日とかもそうなんだけど。光ちゃんは、大丈夫?」
「ちょっと、身体が動かしにくいのは、あるかも」
「義体もまだまだ不便だね」
身体と義体との拒絶反応によって、何らかの幻痛が生じるのは仕組みの解明こそされていないが有名なことである。義体の潮風に対する耐性のなさも、それの一環だとされている。
「海に行きたかったんだ」
「どうして?」
「夢の続き、私も見たいからだよ」
「え」
「灯ばっかり、私の夢の続きを見られて、どうして私が見られないんだろう。それを確かめたいから」
海岸沿いの道路は車も通ることなく、通行人がいるわけでもない、その道をたったふたりで足を引きずりながら歩くのは、とても奇妙な気分だった。
「誰もいないね」
光が呟くと、灯は急に笑い出した。周囲には潮騒のほかに、音が無いので、その声はよくこだました。遠くに見える山に笑い声は反響して、まるで周囲を取り囲まれながら笑われているような気分になって、とたんに落ち着かなくなる。波の音は心地よく、感じられる、人間が本能のうちに「快」を感じる、そんな音だ。生身の脳を持っているからこそ、これを感じることもできる。脳がないと、これを感じることもできない。光は、自分が人間として変わり果てた姿となっても、いまだに人間として生きているということを実感した。それとは違って、灯の笑い声は透明で、無邪気で、それでもひたすらに不快感を感じた。
波の打ち寄せる岸壁に、ふたりは歩いてやってきた。太陽は自らの直上にのぼりきろうかと言う時間であった。雲一つない快晴だった。光が岸壁に腰かけると、灯も同じようにして、腰かけた。潮風は強く吹き付け、波はコンクリートの壁にぶつかり、しぶきを上げた。
「つめたいね」
灯は笑うが、光にとってはただただ塩害をもたらすだけの、奇妙な水分でしかない。体中の痛みが、脳に響いた。身体の痛みではなく、義体の痛みを脳が錯覚しているだけだ。
「光ちゃんは」肩をぶつけるほど近くに寄りながら、灯は笑った。「義体になる前に、海で泳いだことってある?」
「ないよ。汚いもの」
「私はあるよ。ここじゃない、遠い、南国の海で」
南国の海、とは、光は見たことも行った事も無いけれど、毎日のように感じている場所だ。
「日本と違って、工業エリアは無いし、とってもきれいな海だった。親戚のおじさんがね、クルーザーを持ってて、スキューバダイビングをしたの。そう、ちょうど、今日みたいな太陽が高くのぼった、とっても気持ちのいい日だった。太陽のひかりが水面に揺らめいて、万華鏡みたいに複雑に、きらきら、輝いてた。とっくに絶滅したと思ってたサンゴを見たり、綺麗な魚を見たりしたの」
それきり、灯は黙ってしまった。その横顔は、笑顔ではあったけれど、どこか悲しそうに見えた。灯は光が全身義体だと知ったとき、自分がどうして左の手足を義体化したのかを教えてくれた時のことを思い出した。彼女が手足を失ったのは、クルーザーのスクリューに巻き込まれたせいなのだ。
「痛いね、義体」
「そうだね」
「私、海はきれいだけど、嫌い」
光は不意に、頭にかっと、血が上るような思いになった。次の瞬間には、灯を岸壁に引き倒して、義体の両手で生身の首を締め上げていた。倒れた灯の身体の上にまたがって、苦しそうに顔をゆがめる灯をじっと、見ていた。首筋の動脈が脈打つ感触が、義体越しにもはっきりとわかった。灯の顔の色は、見る見るうちに赤くなったり、青くなったり、黒くなったりして、――最後には真っ白くなって、灯の身体は動かなくなった。光は、自分の身体がかっと熱くなって、くらくらと視界の揺れるような思いを味わった。義体だけじゃない、灯のナマの身体も、ぴくりとも動かなくなった。
ずっとまたがっていた灯の身体から降りて、光はその身体を大の字にするように両手と両足をぴんと伸ばし、岸壁の上に広げた。それから徐に立ち上がると、脚を振り上げて、踵で突き刺すように灯の左の肩を踏みつぶした。がしゃん、という、あまりに軽い音と共に、つくりものの左腕が弾けて外れてしまった。同じように踵で左脚を付け根から踏みつぶして、義体を分離させた。灯の身体は、すっかり、生身と遜色なくなった。義体に血は通っていない。流血する事も無く、あまりに静かに、眠るように灯は死んでいた。
光は義体の腕と脚を何度も何度も踏みつぶして、粉々の金属片になるまで細かくした。やがて、腕と脚の形を失ったのを確認すると、灯の薄い唇にそっと、口づけをして、岸壁から海へとそっと飛び降りた。重たい音と、白い水泡に包まれて見上げた水面には、太陽の光がきらきらと輝いていた。夢で見たのとは違う、黒いゴミと不法投棄された空き缶や空き瓶、巻き上げられた砂、泥、そして誰のものなのだろうか、義体の左腕だけが浮かんでいた。ちっともきれいな海なんかじゃなかった。あと数分もしないうちに、義体から脳への酸素の供給が失われて、光の生物としての活動が停止する。たった、その数分の内に、光は灯の無邪気な笑顔を思い返していた。初めて会った時から、最期に見た横顔まで、あらゆる顔を覚えている。不意に、水面に何か、重たいものを叩きつけるような音がしたような気がしてはっと意識を向けると、そこには左手と左脚の無い、夢の中で見たような灯の姿、そしてその顔に浮かぶまばゆい笑顔があった。
ああ、最期まで夢を見るだなんて。なんて思い通りにいかない人生だったのだろうか。
そうして、光はいきものではなくなった。無機物の身体はいつまでたっても朽ちることなく、深く、暗く、重く、静かで、冷たい海底にいつまでも沈んでいくだけだった。
〆切に遅れること二日。主催のさやのさん、秋良さんには多大なご迷惑をおかけいたしました。