原発の安全性と科学的思考
はからずも、原発の安全性で、大飯原発の稼働を認めない裁判判決が出たタイミングになりましたが、単なる偶然です。偶然ですが、その判決が妥当だと、説明する内容になっています。
まだ学生の頃、アパート暮らしをしていた僕の部屋に、科学を否定するなんかの団体さんの一人が突然、訪ねて来ました。科学は悪いもので、だから捨てなくてはいけないとか、そんな感じの事を本気で信じているようで、熱心にその考えの普及を行っているみたいでした。
その頃の僕には、まだ科学に関する知識があまりなかったのですが、それでもその主張に胡散臭さを感じてはいました。今の人間社会の状況で科学を手放したら、どうなるのか本当に分かっているのだろうか?とか、じゃ、科学以外に何を頼りにすればいいの?とか、そもそも科学は道具であって、道具に良いも悪いもないのじゃないの?とか。
もっとも、その時は、何も言わなかったのですが。
でも、当時よりは知識を得た今なら、或いは僕は、その人に、こんな意地悪な質問をするかもしれません。
「“科学”と一口に言っても、帰納主義から始まって、確証主義、論理実証主義、反証主義、道具主義と色々ある訳ですが、あなたの言う“科学”とは、何の事ですか?」
その人が科学史や科学思想に関する知識を、ほとんど持っていないだろう事は、簡単に予想できたからです。つまり、科学を知らないのにその人は科学を否定していた。これは、ちょっとおかしな話です。
ただ、だからこそ、それでその人がちょっと困った表情を浮かべたなら、こう教えてあげるかもしれませんが。
「本当は、科学思想の理想は、“慎重かつ謙虚な態度”なんですよ」
と。
あるテレビの討論番組で、原発推進派の人が、原発の安全性や核廃棄物などの問題点について「何も心配がいらない事は、科学的に証明されている」とか、そんな感じの内容を何度も繰り返していました。
僕はそれを聞いて、前述した科学を否定する団体の人を思い出したのです。彼は科学を否定していて、原発推進派は科学を権威として用いている訳で、まるで正反対のように思えますが、どちらも同じ様に、科学史や科学思想の知識を、ほとんど持っていないとしか思えなかったからですね。
どちらも“科学”をよく知らないままで、その言葉を用いている。
さて。
最近になって、僕は科学思想に関わる事柄の多くを、もっと一般的な教養にするべきなのじゃないかと思うようになりました。自然科学が最も成功した思想・手法・システムの一つである点は明らかな訳で、ならば、そこから学べる点は多いのではないかと考えたからです。原発問題を抜きにしても、です。
断っておきますが、これは単純な科学知識の事を言っているのではありません。むしろ、その科学知識を得られる背景となった思考方法や社会体制、システムについてを言っているのです。
そういった思考方法が欠けているからこそ、「原子力発電所は、科学的に安全性が証明されている」などという恥ずかしい言葉を、公の場で口にしても平気でいられるのでしょう。多分、ある程度の知識を持った人からは、原発推進派のこの発言は馬鹿にされていると思います。
仮に“原発の安全性”という言葉の意味が、“重大な事故が起こらない事”と二アリーイコールだったのなら(そうでないのなら、印象操作的な詐欺ですが)、それは考えるまでもなく、完全な誤りなのです。何しろ、“ない事の証明は極めて困難”という論理学の常識に、それは反しているのです(“悪魔の証明”で検索すれば、簡単に見つけられます)。
話の流れからいくのなら、その詳しい内容をこれからもっと説明するべきなのかもしれませんが、その前に別の話をします。原発と科学思想について述べるのならば、3月11日に発生し、今現在(2014年5月)も継続中の、福島の原発事故は避けては通れないと思いますから。
3月12日の昼。
3月11日の地震の所為で全ての電車が停まり、帰る事ができず、職場で一晩明かした僕は、一睡もできずヘトヘトに疲れていたにも拘らず、ようやく辿り着いた自宅のベッドの上でも、全く眠る事ができませんでした。テレビを始終点けっぱなしにして、それを不安な思いで見つめていたのです。いえ、見ない訳にはいきませんでした。テレビ画面には、その時進行中の福島原発事故の模様が映し出されていたからです。
原子力発電がメルトダウンでも起こせば、その被害規模は計り知れません。一体、どれだけの数の人が犠牲になるのか。
それは本当に、僕を含めての多くの人の命運を分ける事件でした。
“人生が台無しになるかもしれない”
他人事だと思いたいけれど、他人事ではない。悪夢だと思いたいけれど、悪夢じゃない。その信じられない現実は、そこに確かに起こっていました。
正直に言って、僕はそれまで日本でこれだけの規模の原発事故が起こるとは思っていませんでした。甘い認識でした。いつか原発が大事故を起こすのは、確率的にいってほぼ確実でも、それは技術力不足の発展途上国で起こるだろうと思っていたのです。
技術力に優れた、真面目な日本社会では大丈夫だろうと。
事故の様子を見守りながら、僕は原発反対派が、ずっと前から日本の原発の杜撰な管理体制について警告を発していた事を思い出していました。
正直に告白すると、僕はその話をそれほど信用してはいませんでした。いえ、もちろん、全てを疑っていた訳じゃありません。こういう主張は、誇張される傾向があるから、用心深く、慎重に構えていたつもりだったのです(だから、数は少ないけど、その警告を反映させた小説を書いて、ネット上に投稿してもいます)。
それらの原発反対派の問題点の指摘に対し、原発推進派は何も問題がないと主張していました。「原発は、仮に旅客機が墜落しても耐えられるように造られている」といったような事を述べて、原発反対派の意見を退けようとしていたのです。しかし、実際にそこには、地震と津波だけで、呆気なく制御不能に陥っている原子力発電所が存在していました。
つまり、原発反対派の主張の方が、正しかった事になります。
もちろん、僕は原発推進派の主張もまるで信頼してはいませんでしたが。いかにも嘘っぽい話ですし。しかし、ここまで酷いとは流石に思ってはいませんでした。
さて。
ここで、一つ確かな事実があります。それは、“原発反対派の意見と、原発推進派の意見では、原発反対派の意見の方が正しかったという実績がある”という事。逆に言えば、原発推進派は嘘をついていたって事になりますが。
もちろん、原発推進派や原発反対派と一口に言っても、色々な人がいる訳ですから、「原発推進派は皆嘘つきで、原発反対派の主張は全て正しい」などと捉えるのも問題がある訳ですが、それでもこの実績は、大変に大きいと言わざるを得ません。
原発推進派が主張する“原発の安全性”について、大いに疑うべきでしょう。そして、実を言うのなら、“疑う事”は科学的思想でも非常に重要になってきます。何しろ、“疑われる事”を拒絶するのであれば、それはその時点で、非科学的になってしまっているとすら言えるのですから。
単に“科学”という名を冠するだけで、それが疑われなくなる。つまりは、科学を権威として用い利用している。
こういったものを、世間では時折、見かける事があります。
もちろん、
『原発の安全性は、科学的に証明されている』
という、原発推進派の常套句もその一例ですね。科学権威の政治利用です。これには、実は様々な問題があります。
もちろん、客観性が重要な科学が、一部の思想の影響を受ける政治に利用されている事も問題ですが、そもそも科学が“権威”になってしまう事自体に問題があるという指摘もされているのです。例えば、哲学者“ファイヤアーベント”。彼は、科学を一つのイデオロギーに過ぎないと主張し、その普遍性に疑問を投げかけました。そして、その目的は、権威主義への警鐘だとも言われています。
では、どうして科学が権威になってはいけないのでしょうか?
権威になると、権力者に都合良く利用され易くなるなど、社会的な要因もありますが、純粋に学問的な点を指摘するのであれば、「疑われなくなり、検証されなくなれば、間違っている主張がまかり通ってしまう危険性が出てきてしまう」という問題点があります。
その典型的かつ顕著な例として、旧ソ連のルイセンコ説があります。旧ソ連の農学者であるトロフィム・ルイセンコは、共産主義の思想とも結びつけられた獲得形質の遺伝を主張しました。そして、その説を受け入れた旧ソ連は、その説に基づく農法の普及を行ったのですが、その結果、旧ソ連の農業生産は大きなダメージを受ける事になってしまったのです。
もちろん、その過程でルイセンコ説に対して多数の疑問の声が上がった訳ですが、それらの主張は、妥当性を確かめられる前に拒絶されてしまったのです。ルイセンコ説が政治的に保護され、既にある種の権威となってしまっていたからですね。
科学の登場以前は、学説と権威が結びつき、その誤った説が社会の中で定説になって固定されてしまうという事は、普通に見られました。アリストテレスの自然哲学とキリスト教が結びついた中世スコラ哲学(天動説などは、その中で唱えられている学説です)や、ガレノスの医学は、権威となる事で反論を退けた結果、何百年、何千年という長きに渡って、人間社会の中で“正しい”とされ続けました。ルイセンコ説は、科学が普及した近代でも、学説の権威化による固定が実際に起こってしまった事例として注目に値するでしょう。当然、誤った事実を正しいと信じ続ければ、それは人間社会に対し、大きな損害を与える結果となるケースもあります。
実は、この“科学は疑われなくてはならない”という考えは、科学思想の“反証主義”の主張でもあります。
“反証主義”とは、平たく言ってしまえば「反論できる構造を持った理論を科学と呼ぼう」という主義の事です。反論できなければ、正しいか正しくないかが分かりませんから、いつまでも生き残ってしまうのです。そんなものを、科学として妥当とする訳にはいかないと、そう反証主義では主張されているのですね(もっとも、反証主義にも欠点があるのですが)。
もちろん、“反論できる”条件を満たす為には、情報を集められなくはなりません。ところが、事実上、これが不可能な事例も存在するのです。例えば、
『幽霊が存在する』
これに反論する為には、世界のありとあらゆる場所を、未知の観測方法を含めての全ての観測方法で観測して、“幽霊がいなかった”事を証明しなくてはなりません。これは事実上、不可能です。
因みに、これが先に述べた“ない事の証明は極めて困難”の理由です。だから、「原子力発電所は、科学的に安全性が証明されている」などという主張は完全に誤りなのです。どれだけ原発事故に繋がる可能性を想定し、それら全てを踏まえた上で安全に原発を設計しても、未知の何かが原因となって原発事故が起こる可能性は、無限に存在するのです。
もう一度繰り返しますが、科学は“疑われるからこそ科学”なのです。逆説的ですが、どれだけ疑われても、正しいと認めるしかないからこそ、科学は正しい。
この考えは、もちろん、原発の科学性にも当て嵌められるべきでしょう。
もっとも、この安全性については、他の車や火力発電所やコンビナートなども同様です。“ない事の証明は極めて困難”なのだから、科学的に安全性を“完全に”証明する事は他の物でもできないはずです。しかし、完全には証明できなくても、ある程度の安全性を保証する事ならばできます。もちろん、それでも事故が起こるリスクは考慮に入れなくてはなりません(想定される事故が重大過ぎる損害になる原発は、この点で極めて大きな問題があると言えます)。その上で、実際に社会で活用するかどうかを決めるのです。
一応断っておくと、これは純粋に学問追及としての“科学”ではありません。科学技術を活かす段階の“科学”です。そして、学問上では不明な点は不明として扱わなくてはならない事でも、実際の技術活用では、便宜的にしろ、何かしらの決定を行わなくてはなりません。そしてその上で、先ほども述べましたが、リスクを考慮に入れて活用するのです。
ただし、その為にはやはり、検証を行わなくてはなりません。そして、原発はこの点でも大きな問題があるのです。
僕は仕事で、プログラムを作成しています。そのプログラムは、商品としてリリースするものですから、当然、仕様通りに機能するか検証(つまり、テスト)を行います。
もしかしたら、プログラミングに関わった事のない人は、テストなど簡単にできるという印象を持っているかもしれません。プログラミングの方が、それよりも何倍も難しいと。ところが、テストを行うというのは、実は非常に厄介なのです。
まず、単純に量が多いです(どんなプログラムを仕上げたかにも因りますが)し、どのようなデータを想定すれば良いのか、どんな使用方法がされるのかといった事も判断しなければならない。更に、その他、ユーザの使用頻度の算出や、データ量の問題もあり、それら全てを把握した上で、テストを行う必要があります。
だからもし仮に、想定できるテストケースを完全に全て行うとなったら、天文学的な数字になってしまい、実質、実施は不可能になるのです。例えば、検索条件が10個ある一覧検索画面があったとしましょう。仮に検索条件を二つだけ指定するとしても、その組み合わせは90通りにもなります。更に、それに検索対象となるデータによってのケース分けが必要な場合もある。もちろん、実際には二つ以上、検索条件を設定できもしますので、それらを全て網羅するとなると、もう絶対にテストができる量にはなりません。これは、データを受け入れ、そのデータを処理するようなテストケース、ユーザがどんな操作をするかを想定したテストケースも同様で、想定し始めたら切りがありません。
ですから、実際のテストは、要点を絞って効率良くバグを潰せるテストケースを考え、それで良しとします。ところが、テストケースが妥当かの判断は、理論的根拠がある場合ももちろんありますが、実経験に基づく印象だったり、過去のデータ実績を全て当て嵌めるものだったり(つまり、過去の実績以外のデータが発生したら、テストケースからは漏れてしまう)で、実は完全に問題がないと言える保証はないものなのです。
テスト用のプログラムを作成し、それでデータ作成から自動的にテストを行ってしまう、という場合もありますが(僕が経験した現場では、工数がかかるので、滅多にやった事はありません)、それで膨大な量をこなす事が可能になっても、今度は“テスト用のプログラムの検証”を行わなくてはならない、という課題が出てきてしまい、これを追及し始めると、やはり切りがありません。つまりは、結局、ある程度で妥協するしかないのです。
だから、世の中にはバグのあるプログラミングで溢れています。ブラウザの脆弱性が問題になったり、使っているサイトが変な動きをしたり、銀行のシステムが動かなくなったり、といった事例は数多くあるので、これは一般の方でも納得できるでしょう。
このように、プログラミングに対し妥当なテストを行う事は極めて難しいのですが、他の物でもこれは同様で、検証の類は非常に難しいのが普通です。だから科学者でも、実験が得意な職人のような位置付けの人がいるのです(こういう点を追及していくと、科学の客観性の問題点へとも繋がっていくので、非常に面白い題材なのですが、今は割愛をします)。
さて。
原子力発電所に限らず、多くの建設物等にはその建設や稼働を認める為の、“社会的な”安全基準が存在します。当然、その安全基準が妥当かどうか、検証しなければいけないはずですが、ここで先に挙げた“検証の難しさ”の問題点が浮上して来るのです。
実は発電所のような複雑な施設ではなく、橋のような比較的単純に思える建設物でも、基準が妥当ではなかった事例が存在するのです。しかも、建設技術が高度に発達した近年においての先進国でも。
イギリス、ロンドンに存在するミレニアム橋。この橋は、総工費一八〇〇万ポンドにもなる巨大な吊り橋で、当時、大きな注目をもって一般公開されました。ところが、数百名という人間が橋を渡り始めてから、わずか数分でこの橋は揺れ始めたのです。そしてその揺れは瞬く間に大きくなっていき、遂には立っていられない程の大きさにまでなり、しばらくの間、閉鎖される事態にまでなってしまいました。
これに、技術者達は大いに驚きました。何しろ、安全性評価でも風洞実験でも想定外の現象だったからです。
この揺れの原因は、橋を渡る人達が足並みを同期させた事にありました。ボートに乗っている時に立ち上がる事を思い浮かべてもらえば分かり易いのですが、倒れないように足を踏ん張ると、それがボートの揺れを増大させ、揺れが増大した事で更に足を踏ん張ると、また揺れが激しくなるという正のフィードバック現象が起こります。それと同じ事を、橋を渡る人達は、無自覚に、一斉に同時にやってしまったのですね(どうして、こんな事が起こってしまったのかは、どうやら同期現象の仕組みと関わっていそうだと推測できるのですが、長くなり過ぎるので説明は割愛します)。
一応、プログラマの一人、つまりは技術者の立場から言わせてもらうのなら、こんな事が起こる想定を、事故前に出す事はまず不可能だと思います。仮に誰かが気付いて皆に訴えたとしても、「馬鹿な事を言うな」と笑われて終わりでしょう。普通、“何百人という人々が、その足並みを無自覚に同期させて橋を大きく揺らす現象が起こる”と考える事ができる人は、ほとんどいません。
この事例は、工学上の欠点が、思いも寄らない死角に潜んでいる可能性が充分に有り得る事を証明しています。欠点を全て完全に想定する事は、事実上不可能なのです。
橋は、当然、世界に膨大な数があります。巨大な橋だけに絞ってもかなりの数になるでしょう。更に、人間社会で長きに渡って利用され続けてもいます。それら全ては実績と表現でき、そのまま橋の実証実験と言えます。その充分に実証実験がされている橋ですら、まだ未知の事故が起こってしまうのです。
この実証実験の話に、原子力発電所を当て嵌めてみましょうか。
原子力発電所は、橋に比べれば圧倒的にその数が少ないのです。更に歴史だって短い。これは実証実験結果が少ない事を意味します。その上に非常に複雑です。これはもちろん、未知の事故要因が、数多に存在する可能性が大きい事を意味します。
原子力の稼働に関する新たな安全基準を国は作成しましたが、それで本当に妥当と言えるかどうかは、まったく検証されていない状態です。何故なら、まだ一回も大地震などの災害は発生していないからです。新たな安全基準が妥当という結論を得る為には、大地震が統計的に有意と言える回数発生し、その全てに耐え切る事が条件になります。もちろん、これは実施不可能です。つまり、検証が不可能なのです。
だから、地震などの災害に対し、原発が安全だという保証は、まったくないという事になります。そもそも、検証ができないのですから、これは当然です。
事故が起これば、その度に今までの安全基準が見直され、より妥当なものに変わっていきますから、それが何度も繰り返されれば信頼性も出て来ますが、原子力発電所の場合、一回の事故による損害規模が大き過ぎる為、それを容認できません。
国は現在、南海トラフ地震を想定し、その対策として公共事業を行っています。しかし、それと同時に原子力発電所が大地震に耐えられるという検証結果がない状態で、原発も推進しようとしています。
これはダブルスタンダードだと言わざるを得ません。
少なくとも、大地震が起こる想定でいるのなら、絶対に原子力発電所は認めてはいけないはずなのです。
最後に、科学の限界というか、問題点について述べておきます。
科学というと、純粋に理論的なものだと一般の人は想像しているかもしれません。ところが、科学理論の評価は、実際には印象に大きく左右されているのです。
新たな発見があったとしても、その発見を認められる社会体制が整っていなければ、それは評価されません。仮に明確な実験データや調査結果があった場合でも、です。こういう事が、歴史上、何度も起こっています。
これは逆を言えば、誤った結論が、『科学的に正しい』と誤認されてしまう可能性だってあるという事です。
もっとも、検証可能なものならば、当然、疑問の声が上がるのでしょうが、原発の安全基準のように、実質、検証が不可能なものは、この限りではありません。そして単なる印象で判断されてしまう可能性もあるのです。実際、多くの問題点が指摘されているにも拘らず、原子力発電所を多くの科学者が支持していました。
しかもその中には、事象が多くなれば、一度でもそれが起こる確率は、飛躍的に上昇する(ですから、原発大事故が起こった事は、確率上、不思議でもなんでもないのです)という“誕生日のパラドックス”を充分に理解している人までいました。正直、それを読んだ時、僕には都合の悪い点を無視しているようにしか思えませんでしたが。
実は「科学者が、科学を知らない」という事も、時折、話題になる事があります。各専門分野の知識は、当然、持っていますが、その更に土台となる科学哲学などは学んでいないのではないかと思える人がたくさんいるのですね。
科学の理想は、最初に述べましたが、“慎重かつ謙虚な態度”です。これは、作中で述べて来た事が、そのまま理由となります。科学は“疑われるべきもの”なのです。
傲慢になり、権威主義を振りかざし、安易な結論を下していないか、基本的な科学的思考を身に付け、一般の人でもチェックできるようになるべきだと、少なくとも、僕はそう考えます。
実は科学的合理性の基準は、未だに設定されていません。“科学”とは、何であるのかを人間社会は決めかねているのです。しかし、それでも、何かを採用する際の判断に、本当に検証されているかどうかを確認する事は、とても重要だと思います。
参考文献は、
「SYNC 著者:スティーヴン・ストロガッツ 早川書房」
「現代科学論 著者:井山弘幸/金森修 新曜社」
「科学哲学のすすめ 著者:高橋昌一郎 丸善株式会社」