今日の夕飯を買ったら家の前に婚約者が居座ってた件
2月。
未だ本格的な寒さが続くが、商店街ではそんな事もお構いなしに活気づいていた。学生達でにぎわいを見せるそこは、彼――千 庵にとっても楽しい場所だった。紺の着流しにマフラーを巻いて帽子を被る彼は、少し寒いのか、両袖に互いの手を入れている。今日の夕飯は、湯豆腐の予定。長ネギに出汁用の昆布と鰹節等を買って、後は豆腐を買いに行くだけとなった。小さな鍋には、少しの水が入っている。
「どうもー、お豆腐頂きに来ましたー」
「おお、兄ちゃん!いらっしゃい」
「あらぁ、庵君、いらっしゃい。今日は木綿?絹ごし?」
「絹ごしと木綿を1丁ずつお願いします」
LED電球を使っていないその店舗は、彼がここへ来てからずっと通っている豆腐店だった。此処の豆腐屋の豆腐は美味であるが、彼は余り物のおからをよく貰いに来ていた。今日は湯豆腐を、と店主と話していると、奥さんらしき年相応の女性が、緑茶を持って来てくれた。
「寒かったでしょう?良かったら、お茶でも飲んでいって」
「有り難う御座います、御言葉に甘えて」
御礼を言って、小さな盆から湯呑を受け取る。この女将はいつも、庵が店に寄る度に季節感あふれる湯呑と共に、温かいお茶を出してくれる。この日は、二日後の節分を意識してか、鬼の面と柊が描かれている小さな湯呑だった。いつもの様に荷物を腕にかけ、茶を啜る。寒いこの季節には、有り難い暖かさだった。
美味しいです、と女将に言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。その女将は、庵の顔を見るなり、そう言えば、と呟く。
「庵君、節分の日が誕生日って言ってたわねぇ。ふふ、年を取っちゃうわ~」
「確かに…最近色々と忙しくて、全く気が付きませんでした」
「そうねぇ…じゃあ、お団子でも買って待っていようかしら。天気予報では晴れるって言ってたし、其処に椅子でも出して皆でお茶会でもしましょう」
「いいですね。では二日後に来ましょう」
「楽しみだわぁ」
ふふふ、と微笑む女将。本当に60代ですか、と聞きたくなるほど美しく、若々しい。黒髪は艶めいているし、皺もそんなにみられない。ただし豊齢線は隠せない様で、笑うたびに皺が出来ていた。この女将は、本当にたおやかな御人だ、と和む。
ふと、首筋に当たる冷たい何か。曇天の空から降り注ぐ真白の精霊たちに、庵は頬が緩む。きっとこの天気にこの寒さなら、今日の湯豆腐が美味しくなるだろう。豆腐を受け取って、値段を支払う。鍋に蓋をして、傘は持っていなかったので差さずに、雪を鑑賞しながら商店街を歩く。
「(今日は冷えるのぅ…)」
真白をほろほろと落とす空は暗く、早く帰らなければ身体が冷え切って風呂を沸かさなければならないだろう。帰路を急ぎ、徐々に借り住まいが見えてきたとき、彼は家の前に座る人影を発見した。見慣れない服装だったが、見覚えのある顔で、目を凝らす。
黒い髪は短く切られていて、珍しく可愛い衣装を淡い青のロングコートで隠し、焦げ茶のロングブーツを履いている。小さな背に赤と白のマフラーは、あまりに不恰好に見えて。名前を呼ぶと、その人影は立ち上がって彼を見、掛けだした。手にはミトンの手袋がはめられている。親が勝手に決めた婚約者ではあるが、年相応に見えなくて周囲から「ロリコン」と見間違えられそうで(庵はロリコンではありません、しいて言うなら褌厨です)。
「何じゃ、急に」
そう尋ねても、少女は彼に顔をうずめたまま黙りっきりだ。ふと、両手に持つ鍋を見た。無事だった。
取り敢えず、家に入る様に勧めると、彼女は黙って離れて、庵の着物の袖を持ちながら部屋に入った。手が震えている事が、袖越しでも解る。寒さだろうか、はたまた別の何かで震えているのだろうか。部屋に入っても続く、沈黙。彼女を部屋に上がらせて、炬燵に突っ込んだ。
たすきを巻きつけて、調理を始める。炬燵を見ると、寒かったのだろう、炬燵で横になっている彼女の姿が。風邪をひくぞ、と忠告をしても、少し呻いただけで起きようとしない。子供の様だ。年齢は自分とさほど変わらない筈なのに、言動は無邪気な、穢れを知らぬ子供の様だ。ただし彼女は、汚れた世界の人間なのだ、元々は。
コンロを用意して、その上に鍋を置く。音に気付いて、彼女が顔を上げる。眠いのだろう、少しだけ目がトロン、としている。
「…おゆはん、おなべ…?」
「湯豆腐じゃ」
「たべる!」
「…元気じゃな…?」
湯豆腐、と聞いた瞬間、ぱ、と目覚めたように元気になる。その様子を見て、少し頭を撫でた後、コンロに火をつけた。