ヤジ将軍死す
八月半ば、夜七時になろうかという時分だが、新宿の街は日中の記録的酷暑に伴ってか全く涼しくならない有様で、熱帯夜と化していた。
そんな折、「ミスター・ブレーブス」こと、旧ブレーブス、現イディオッツ球団の私設応援団長、井野修の通夜が、某葬儀場にて執り行われていた。
故人が定年退職後一〇年を経ている事もあって、仕事関係の知己はそれほど多くなく、弔問客の大半は野球帽やユニフォームを着た、旧ブレーブス、そして現イディオッツ球団のファンたちによって占められていたのであった。
彼らを、ブレーブスがリーグ優勝記念で作ったペナントと、若かりし頃の井野がユニフォーム姿でにこやかに笑みを浮かべている姿――遺影が出迎えた。
そして、ある意味で井野が生きた証とも言える貴重な収集物、元ブレーブスのスーパースター、斎田のサイン入り野球用具一式を始め、ブレーブスゆかりの貴重な品々が、棺の周りに飾られていたのであった。――おそらく、故人があの世に持っていけるよう、最後には納棺されるのであろう。
弔問客たちはそれらを眺めながら、めいめい、ブレーブスが強豪だった古き良き時代に思いを馳せ、選手たちに厳しくも温かい声援を送り続けていた(球団名がイディオッツとなってからはブーイングばかりだったが)名物男だった故人を偲んだのであった。
小一時間ほど経過したろうか、弔問客たちがある程度捌けたタイミングで、意外な人物がやってきた。
故人と近しい連中からは、最も望まれざる来訪者――井岡とは長く仇敵の間柄だった、現イディオッツ球団監督の、不二村である。
故人とブレーブス繋がりの弔問客たちは、不二村の姿を認めるや、
「何しに来たんだ? 冷やかしならけえれ!」
「くだらねえいい人アピールはよそでやれよそで!」
「今日もみっともない負け方しやがって、おどのツラ下げて来やがったんだ!」
この有様である。
言ってる方こそ葬儀場を球場と勘違いするんじゃねえという話だが、それこそ球場以上のブーイングの集中砲火が、ここぞとばかりに不二村に浴びせられたのであった。
と、険悪になったところで、更なるダメ押し。不二村の後を尾行してきたマスゴミ連中が、怒りを爆発させるファンたちに向かって、バシャバシャとフラッシュ連打を浴びせたものである。
「おいコラ、誰が撮っていいつったんだ!」
「不二村! 責任持ってこいつら連れて帰れ!」
無遠慮なマスゴミの所業にファンたちが怒り狂い、乱闘でも起きたのかという程の騒ぎになってしまった。
しかし、当事者である不二村は、いつものこういった場面とは別人のように、不気味な程に冷静であった。ファンとマスゴミの小競り合いを表情を変えずに眺めていたかと思うと、おもむろに、
「おい!」
と、マスゴミを一喝し、
「お前ら、井岡のおやじに失礼だろ。せめてこういう時ぐらい、大人しくしようや」
ドスの効いた声で諭すと、葬儀場は水を打ったように静まり返った。井岡の生前は新宿スタジアムで毎試合のように怒鳴り合い、また、メディアで公然と井岡をディスリまくっていた不二村とも思えぬ台詞に、ファン、マスゴミ双方とも、驚きを隠せなかった。
不二村は、ファンたちに静かに語りかけた。
「ま、そういうワケだ。別に暴れたりして葬儀をブチ壊すだとか、そんな事ぁ考えてねえよ。ただ一本、線香を上げて最後の挨拶をする。それだけだ」
焼香が終わり、葬儀場を出たところで、不二村はマスゴミのインタビューに応えた。
「まあ折り合い悪いっつーのか、正直大嫌いだったけどよ」
第一声で、マスゴミが欲しいコメントを出してやり、場の空気を和ませる。口調こそぶっきら棒だが、不二村の表情は、どこか穏やかであった。
「俺も現役時代、そうだな、特にチームがイディオッツになってからは、散々野次られたもんだ。殺そうと思った事は一度や二度じゃねえが、ある時気付いた事があってな。あのおやじ、相手投手が何投げるかで、無意識にヤジが変わるんだよ。直球だったら『死ね』で、スライダーだったら『辞めろ』とかな(笑)」
マスゴミ連中から、どっと笑いが漏れた。
「それで、ある時礼を言ってやったんだが、『ファンをスパイに使うんじゃねえ!』とえらく怒鳴られてなあ。こっちも別に頼んじゃいねえって言い返したけど(笑)。本当に、井岡のおやじとは、揉めた記憶しかねえな」
そう言うと、不二村は目を瞬かせた。
「もうあのヤジを球場で聴かないで済むとなるとせいせいするが、かと言って空から四六時中監視されてると思うと、ゾッとしねえな。だったらまだ、後ろからヤジってくれてた方がマシだったかな…」
不二村の憎まれ口の九割は本心だったが、残りの一割は、裏返しの複雑な感情でもあった。
(俺らしくもねえ、監督更迭の噂で気が滅入っちまってるんだろうなあ)
そう思う事で、井岡の件で予想外に戸惑う自分を納得させる不二村であった。




