ディスコミュニケーション
【ディスコミュニケーション】
コミュニケーションがとれないという意味の和製英語。
対人コミュニケーションの不全状態のこと。
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梅雨の夜はじめじめしていて、それでいて不愉快な程蒸し暑いわけでは無い。半袖のTシャツにジャージを履いて出かけると心地よいような心地よく無いような、そんな夜。
面白く無かった。日々が退屈で、けれどそれを打破するような方法も無く、ただつまんねー、だりぃ、と呟く。けれど呟いたところで何が起こるわけでもない。つまんない人生を日々やり過ごして行くのが人生ってなわけで、だからあたしは日々を適度に不真面目に生きていた。
高校卒業と同時に家を飛び出した。
面白くない毎日から逃げるため、だったのだろう。けれど、直接の理由は母親との喧嘩だった。その理由は忘れた。どうせ下らない理由だったに違いない。けれど色々なことが積み重なって、あたしはたった一人の親を捨てて上京したのだった。
そして、あたしが都会に抱いていた期待はことごとく裏切られて。
あたしは半袖のTシャツにジャージを履いてワンルームマンションの一室から外へと逃げ出して歩いていた。
妙齢の女性がそんなラフな服装で外を歩き回っていて恥ずかしくないのか、とかそう言う疑問を抱いた奴がいたならば、あたしのところに来るがいい。全力で殴ってやる。そんなこと知ったこっちゃねえよ。
別に行きたいところがあったわけでもなく、ただ何と無く外の空気を吸いたくなって飛び出しただけのあたしに目的地などがある筈も無く。特に意図せずに脚の赴くままに歩いていたらいつの間にか駅前の繁華街へと迷い込んでいた。迷い込むって言っても別にこの辺りの地理は普通に分かるわけで、ならばその表現は正しくないな、などとフロイトもびっくりな哲学的考察を展開するあたしの肩を後ろから誰かが叩く。
振り向くと、若い男が「飲み放題安いですよ」とかのたまいながらビラを突き出していた。断ったら「いやでもこれ超安いんですよ、マジで」などと追い縋ってくる。これは何だ、新手のナンパか。
やってらんねえ。あたしはビラ配りの男を振り払って繁華街から逃げ出した。後ろから「ちょっと、姉さん待って! ほんとに安いんだって」とか叫ぶ声が聞こえるけれどあんな奴の姉になったつもりは無いので無視して路地へと入ってゆく。
「外になんて出なきゃよかった」
人がいない真っ暗な公園のベンチに腰掛け、溜め息をついて後ろ向きな台詞を吐く。まるでニートで引き篭もりのオタク男子のような台詞。けれど勘違いしてもらっては困る。あたしはニートでは無くれっきとしたOLであり、引き篭もりのオタク男子などでは無く、ごく普通の二十代前半を謳歌する絶世の美女(笑)なのだ。
きっと今だって妖艶な美女オーラの粒子がキノコの胞子の如く体中から発散されている筈。少しでも吸い込めば私の魅力にメロメロ! なのに何故恋人の一人もいないのかは世界の七不思議の一つに数えても不都合無いだろう。
「……。」
何だか自分で考えていて非常に虚しくなったので滑稽な程に自意識過剰な思考展開を打ち止めることにした。
それにしても、何でもうすぐ日付が変わるような時間なのにあんなに人が多かったんだ。そりゃ駅前だからなんだろうけれど。
心地よさそうな夜の気配に家を飛び出してみればこの人混み、だなんて詐欺だ。消費者センターだったか何だったかに通報してもいいレベルだ。緑色の豆の名前を冠した動物愛護団体が動物保護の名目に於いてテロ行為に及ぶのも納得がいくほどに人間と言うのは鬱陶しい、と宇宙の真理に気付いた。いや一ミリも納得していないけれど。
もう帰ろう。これ以上この辺りを歩いていたって何の得にもなりゃしない。強いて言うならばダイエット? でも、自慢じゃないがあたしは人に羨まれるモデル体型の持ち主なのだ。思い切り嘘だけれど。正確にはただのガリガリ。まあそんな自嘲は置いといて、とにかくこれ以上夜の散歩を続行する必要性も気力も無いので、公園を後にして家に帰ることにした。ザ・「夜の」って着けると何でもエロく見えるの法則。
不快で無い程度に生温い風が頬を撫で、元から乱れ切っていた髪の毛をさら乱していく。今あたしの髪の毛は乱雑さにおいて世界の限界を超えようとしている! と無駄に大袈裟に述べてみても特に面白くは無い。
再び突入した繁華街は、相変わらず薄っぺらな言葉の洪水で酷い有様だった。思わず眩暈がする程に。道行く人々は皆、ワライタケでも喰らったに違いないと思う程にバカの様な笑顔を浮かべているか、今にも練炭焚いて硫化水素を発生させそのまま首を吊って屋上から飛び降りそうな顔をしているかのどちらかだ。
狂ってる。
これが日常だなんて、狂ってる。楽しくも無いのに酒を飲んで無理やりハイになったり、逆に猛烈な嘔吐に襲われて道端で蹲ったり。今にも転びそうなふらふらとした足取りと、何処を見ているかも分からないような虚ろな目で家路を急いだり。こんなの人間じゃない。
けれど人間でなければ何なのだろうか。機械はこんなに非効率的な日常を送る筈が無いし、獣や昆虫、爬虫類に両生類に魚類に以下略たちはもっと必死に日々を過ごしている。つまりこれが人間の本質って奴なのか。嫌な種族だな。
繁華街から脱出して路地へと突入する。そうすればあたしの家はすぐそこだ。ほら、もう見えてきた。あの小さなワンルームマンションがあたしの避難所。
まとわりつく都会の喧騒を引き剥がして、オートロックのドアを解錠する。喧騒が一緒に入ってこないように、中に入ったらすぐにドアを閉じるのがあたしの下らないこだわりの一つ。どうでもいいな。
老朽化が進んで、がたがたと言う騒音が五月蠅いエレベーターで三階まで昇る。そして老朽化した廊下を歩いて自分の部屋の扉を開けた。あ、出る時鍵閉めてなかった。泥棒とか入ってたらどうしよう。どうせならあの壊れた冷蔵庫持ってってくれないかな、家の中に二つも冷蔵庫があると割と邪魔だ、とか期待しながら部屋に入る。けれど冷蔵庫はきちんと二つともその存在を主張していた。いやまあいいんだけど。本当に無くなってたらそれはそれで怖いし。
電気も点けずに冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ベッドに倒れ込む。疲れの溜まった身体から、何か液状のものが漏れ出してゆくような感覚。右腕を天井に向かって伸ばした。指の隙間から見える暗い天井が今にも落ちて来そうだった。
缶を開けて、中の黄金色の液体を喉に流し込む。苦く乾いた感触が食道を通過していくのを感じた。ビールは大好きで一日五本は飲むけれど、アルコールにそれ程強いわけではないのですぐに身体が熱くなってくる。なら大量に飲むなよ、と言う話だけれど、こんな人生飲まずにやってられるか。
「ん?」
何やら視界の端に目障りな光が点滅していた。
視線を移すと、ケータイがメール着信を示している。面倒臭いなぁと溜め息をつきながら身体を起こして、足の指で挟んでケータイを回収した。足の指が器用なのがあたしの自慢なんだぜ。
「……ひさ子か」
職場の同僚からのメール。内容は特別なことでも何でもなく、今日は疲れたねーとかそんな感じのメールだった。そんなことで一々メール送ってくるなよ、と打って、でもそんなものを送ると言うわけにもいかないのでクリアボタンを長押し、全削除。「あのハゲの部長うざいよねー」などと下らない文章を指先で生産する。本当に下らない、と自嘲しながら送信ボタンを押した。すぐに画面が切り替わって、「送信しました」と言う文字が表示される。
再び深い溜め息をついて、缶の中に残っていた液体を全て胃に流し込んだ。熱くて暑くて汗が噴き出してくる。けれど、沈んだ気分がまだ浮上する気配は無かった。冷蔵庫の中から缶ビールを、今度は三本一気に取り出して床に置く。あと今度はコップに注いで飲みたいから、食器棚からガラスのコップを。
ついでに薬類をまとめて入れている箱からピンクの星が描かれたシートを一枚取り出して、錠剤を二つ押しだした。睡眠薬。アルコールと一緒に摂取すればすぐにトリップできる。あたしは目を瞑って、錠剤を口に含んだ。舌下でクスリ溶かせば即効で飛べるから。
「……あれ?」
突然、涙が溢れ出してくる。おかしいな、別に悲しいことなんて何も無いのに。酷く唐突で脈絡の欠片も無い。ああ、そうか、きっと薬の所為だ。いくら舌下錠とは言え流石に飲んでから数秒で効くわけも無いのだけれど。
次から次へとこぼれ出してくる塩辛い液体を止めようとして両手で顔を覆う。握っていたコップは当然のように重力に掴まって落下し、簡単に砕けた。中に入っていた水が飛び散ってあたしの足を濡らす。心地よい冷たさ。脚から力が抜けた。どさ、と音を立てて床に突っ伏す。ついさっき砕けたガラスの破片が右半身の痛覚を刺激した。痛いなぁ、痛いなぁ。
そのままの体勢で何も考えずにぼー、としていると、目の前に転がっていたケータイが再びメールの着信を主張し始めたので、乱暴に掴んで確認。相手は予想通りにひさ子だった。ハゲの部長の悪口がひたすら羅列された文章。下らねえ。いや始めたのはあたしだから文句は言えないような気がしないことも無いのだけれど。
返信するのが面倒で、そのまま二つ折りの状態に戻して放り投げた。壁に衝突するとそのまま翼を失って床へと落下していく。可哀想なイカロス。しかも本人の意思じゃ無く持ち主の意思で勝手に飛行させられたなんて、泣けるじゃないか。そうだ、あたしのこの涙はケータイへの同情の所為だったんだ、なんて。笑えねえ。
手の甲で瞼に溜まった涙を拭う。けれど視界はぼやけたままで、全てのモノの輪郭は二重にブレて見えた。それが何故か途轍もなく幸せだった。家具たちが全て意思を持ってあたしのことを見守ってくれているような気すらした。全てが途轍もなく幸せだった。
「さえか」
突然、後ろからあたしの名前を呼ぶ声が聞こえて、振り返る。そこには壊れた冷蔵庫があった。
「元気してる?」
その冷蔵庫はどこからどう見てもただの冷蔵庫だったけれど、不思議なことにその声はどう聞いても母親の声だった。あたしが生まれたときから、ずっと一人であたしを育ててくれたお母さん。喧嘩して家を飛び出した時からずっと一人きりで過ごしているお母さん。
大好きだった。鬱陶しかった。大好きだった。一々五月蠅かった。大好きだった。何処かに行ってしまえばいいと思ってた。大好きだった。もう会いたくもないと思った。大好きだった。大好きだった。
あたしが生まれる前に何処かへ行ってしまった父親の分まで必死にあたしを愛してくれたお母さんが、ずっと大好きだった。
気がつくとあたしは冷蔵庫に縋りつく様にして泣いていた。さっき涙を拭いたばかりなのに、また頬はびしょ濡れ。節水ブームに対する反骨精神とか別に無いけど。
「会いたいよ」
震える声で呟いた。寂しいよ、こっちは酷く狂ったところで、あたしにはちょっとだけ辛いよ。
ちかちか。
さっき放って捨てたケータイがまたメールの着信を知らせるべくライトを点滅させていたので、ふらふらと歩いて取りに行く。途中で思い切り小指をベッドの角にぶつけたけれど痛みは無かった。
メールの送信元はまたもやひさ子。どうしたの、返信遅いけど。寝ちゃったの? その文章を読んだ瞬間、あたしは抑えきれない衝動に突き動かされてケータイを叩きつけるように投げた。今度は容赦無く、思い切り。開いたまま投げられたケータイは床に激突して、二つに分かれた。
何も、伝わらない。あたしがどんなことで苦しんでいるのか、あたしがどんな思いで日々を過ごしているのか、いくら親しい同僚にも、ほんの少しだって伝わらない。ひさ子にとってあたしの母親との確執よりもよっぽど部長の頭皮の方が関心のある話題なんだ。
風が吹けば切れてしまう紙テープのような希薄な関係。
こんなに繋がっていたのに、本当は何も繋がっていなかったんだ。
ケータイはぶっ壊れて電波の繋がりは切れてしまったけれど、何故か今までより酷く気持ちが楽だった。ただ一つだけ後悔することがあるとすれば、ケータイもったいねー、ってことだろうか。結構高い奴だったんだけどぶっ壊れてしまった。でも構わないよ、構わないさ。
私は涙を拭いて顔を上げた。壊れた冷蔵庫はいつの間にかただの壊れた冷蔵庫に戻っていた。
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「あ、はい、そう言うことで。今までお世話になりました。」
公衆電話の受話器を戻して、釣銭を回収する。五枚入れた十円玉は二枚に減っていて、何とも腹立たしかった。
電話の先は、今まで勤めていた職場。突然ですが一身上の都合で仕事を辞めさせて頂きたいと思っています。今日からもう行けないと思います。なんて、社会人が言うことじゃないよなぁ。最低だ、あたし。
けれど、もうこれ以上この都会のど真ん中でコミュニケーション不全な生活を続けて行くのは嫌だった。一刻も早くこの狂った街から逃げ出して、お母さんのもとへ帰りたかった。マンションの部屋を引き払う手続きはもう済んだ。あとは帰るだけ。これで本当によかったのだろうか、なんて少し頭の中に浮かんだ迷いを息と一緒に吐きだして十円玉を再び公衆電話に滑り込ませた。
電話しておこう。近いうちに帰るから、って。ぽちぽちとボタンを押して、実家の電話番号を打ち込む。少し間を空けて響きだす呼び出し音。五回程繰り返すと音は途切れて、受話器の向こうから「はい、山上です」と答える声が聞こえた。
あたしは一回深呼吸をして、声帯を震わせた。