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喫煙所の佐伯さん

掲載日:2026/07/20




 北海道のあるスキーリゾートホテル。



「あれ?」



 稟議書を届けるため総務部へ向かうと、届け先だった社員の机が妙に片付いていた。


 書類の山も、小物もない。

 印象的だった、少し前に流行ったアニメの机マットも外されている。


 代わりに、紙袋が一つ置かれていた。



「あっ、それはこちらで処理します」



 稟議書を机に置こうとすると、隣の机の社員が手を伸ばした。

 どうしたのだろう、とは思った。


 だが俺の所属は、リフトを管理する索道部だ。

 働く場所も、ホテルに隣接した施設である。


 総務部に来ること自体が滅多になく、親しい人もいない。

 そのまま仕事へ戻った。




 ******




 あれは、元旦の早朝だったからよく覚えている。

 従業員用の喫煙所はホテルの裏手にあり、ゲレンデを整備するスノーキャットのエンジン音が遠くから聞こえていた。


 暗いうちから始まった駐車場の除雪作業を終え、俺はいつものように煙草へ火をつけた。



「お疲れさまです。元旦から大変ですね」



 声をかけてきたのは総務部の佐伯さんだった。

 


「そっちこそですよ」



 そんなやり取りをしながら、二人で煙を吐く。


 年齢は五十代くらいだろうか。

 きっかけは、俺の吸っている煙草だった。


 少しマイナーな銘柄で、有名アニメのガンマンが吸っている。

 佐伯さんもその作品を見ていた。


 それ以来、喫煙所で顔を合わせれば、他愛もない話をするようになった。



「やっぱり、北海道は雪がすごいですよね」



 佐伯さんが四国出身だと知ったのは、その時だった。

 雪なんて年に一度見るかどうかだと、笑いながら話していた。


 俺には分からなかった。


 雪のおかげで地元は潤っている。

 札幌や苫小牧に出たこともあるが、結局は地元に戻ってきた。

 スキー場があるから仕事に困ることもなかった。


 だが俺にとって、雪は厄介者でしかない。


 冬になれば、除雪、除雪、また除雪だ。

 家でも会社でも、雪は常について回る。


 どう考えても、雪が降らない四国のほうがいい。

 穏やかな瀬戸内海の景色を眺めながら暮らしたい。


 少し不思議だった。


 いつか聞いてみようと思いながら、結局その機会はなかった。

 話題はいつも別の方向へ流れた。


 今シーズンの宿泊予約。

 人手不足。

 物価高。

 マンガやアニメ。


 そんな他愛もない話ばかりだった。




 ******




 半月後。


 帰宅前に草刈りの汚れを落とそうと、ホテルの風呂に入っていたら、脱衣所から声が聞こえた。



「ああ、佐伯さんね」



 思わず耳が向く。



「おせーよ。何人辞めたと思ってるんだ」



 若い社員が吐き捨てるように言った。


 俺は頭を洗う手を止めた。

 話を聞くつもりはなかったが、自然と耳に入ってくる。



「今年の新人も、あの人が原因だったろ」

「異動したやつも含めたら、何人になるんだか」



 笑い声はなかった。



「何度も問題になってたのにさ」

「まあ、長期療養ってなってるけど、事実上のクビだろ」



 そこで初めて知った。

 佐伯さんが、多くの人間を辞めさせた側の人だったことを。


 正直、驚いた。


 あの人が。

 喫煙所で話していたあの人が。


 俺の知る佐伯さんは穏やかな人だった。

 地元の話を聞きたがったり、知らないマンガやアニメを勧めてきたり。


 缶コーヒーをくれたこともある。

 甘ったるいコーヒーばかりで、困ったが。


 少なくとも、人を追い詰めるような人には見えなかった。


 もちろん、俺が知らなかっただけなのだろう。

 喫煙所で交わす数分程度の会話で、人間のすべてが分かるはずもない。


 けれど、妙な気持ちだった。

 知っているつもりだった人が、実はまるで知らない人だったような。


 そんな感覚だ。




 ******




 ホテルの裏手にある喫煙所から、緑のゲレンデが見えた。

 マウンテンバイクがぽつりぽつりと駆け下りてくる。


 煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。


 佐伯さんは、なぜ北海道へ来たのだろう。

 なぜ四国から離れ、このホテルで働いていたのだろう。


 結婚はしていたのか。

 子どもはいたのか。

 ここへ来たとき、どんな気持ちだったのか。


 結局、何一つ知らない。

 知る機会は、もうない。


 ホテルでは今日も客が来る。

 ゴンドラは山頂へ向かい、レストランでは夕食の準備が進む。


 誰かが辞めても、仕事は続いていく。


 夏の風が吹く。

 草刈り後の草の匂いがした。


 俺は煙草を消した。

 そして、草刈りの続きを始めた。




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