喫煙所の佐伯さん
北海道のあるスキーリゾートホテル。
「あれ?」
稟議書を届けるため総務部へ向かうと、届け先だった社員の机が妙に片付いていた。
書類の山も、小物もない。
印象的だった、少し前に流行ったアニメの机マットも外されている。
代わりに、紙袋が一つ置かれていた。
「あっ、それはこちらで処理します」
稟議書を机に置こうとすると、隣の机の社員が手を伸ばした。
どうしたのだろう、とは思った。
だが俺の所属は、リフトを管理する索道部だ。
働く場所も、ホテルに隣接した施設である。
総務部に来ること自体が滅多になく、親しい人もいない。
そのまま仕事へ戻った。
******
あれは、元旦の早朝だったからよく覚えている。
従業員用の喫煙所はホテルの裏手にあり、ゲレンデを整備するスノーキャットのエンジン音が遠くから聞こえていた。
暗いうちから始まった駐車場の除雪作業を終え、俺はいつものように煙草へ火をつけた。
「お疲れさまです。元旦から大変ですね」
声をかけてきたのは総務部の佐伯さんだった。
「そっちこそですよ」
そんなやり取りをしながら、二人で煙を吐く。
年齢は五十代くらいだろうか。
きっかけは、俺の吸っている煙草だった。
少しマイナーな銘柄で、有名アニメのガンマンが吸っている。
佐伯さんもその作品を見ていた。
それ以来、喫煙所で顔を合わせれば、他愛もない話をするようになった。
「やっぱり、北海道は雪がすごいですよね」
佐伯さんが四国出身だと知ったのは、その時だった。
雪なんて年に一度見るかどうかだと、笑いながら話していた。
俺には分からなかった。
雪のおかげで地元は潤っている。
札幌や苫小牧に出たこともあるが、結局は地元に戻ってきた。
スキー場があるから仕事に困ることもなかった。
だが俺にとって、雪は厄介者でしかない。
冬になれば、除雪、除雪、また除雪だ。
家でも会社でも、雪は常について回る。
どう考えても、雪が降らない四国のほうがいい。
穏やかな瀬戸内海の景色を眺めながら暮らしたい。
少し不思議だった。
いつか聞いてみようと思いながら、結局その機会はなかった。
話題はいつも別の方向へ流れた。
今シーズンの宿泊予約。
人手不足。
物価高。
マンガやアニメ。
そんな他愛もない話ばかりだった。
******
半月後。
帰宅前に草刈りの汚れを落とそうと、ホテルの風呂に入っていたら、脱衣所から声が聞こえた。
「ああ、佐伯さんね」
思わず耳が向く。
「おせーよ。何人辞めたと思ってるんだ」
若い社員が吐き捨てるように言った。
俺は頭を洗う手を止めた。
話を聞くつもりはなかったが、自然と耳に入ってくる。
「今年の新人も、あの人が原因だったろ」
「異動したやつも含めたら、何人になるんだか」
笑い声はなかった。
「何度も問題になってたのにさ」
「まあ、長期療養ってなってるけど、事実上のクビだろ」
そこで初めて知った。
佐伯さんが、多くの人間を辞めさせた側の人だったことを。
正直、驚いた。
あの人が。
喫煙所で話していたあの人が。
俺の知る佐伯さんは穏やかな人だった。
地元の話を聞きたがったり、知らないマンガやアニメを勧めてきたり。
缶コーヒーをくれたこともある。
甘ったるいコーヒーばかりで、困ったが。
少なくとも、人を追い詰めるような人には見えなかった。
もちろん、俺が知らなかっただけなのだろう。
喫煙所で交わす数分程度の会話で、人間のすべてが分かるはずもない。
けれど、妙な気持ちだった。
知っているつもりだった人が、実はまるで知らない人だったような。
そんな感覚だ。
******
ホテルの裏手にある喫煙所から、緑のゲレンデが見えた。
マウンテンバイクがぽつりぽつりと駆け下りてくる。
煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。
佐伯さんは、なぜ北海道へ来たのだろう。
なぜ四国から離れ、このホテルで働いていたのだろう。
結婚はしていたのか。
子どもはいたのか。
ここへ来たとき、どんな気持ちだったのか。
結局、何一つ知らない。
知る機会は、もうない。
ホテルでは今日も客が来る。
ゴンドラは山頂へ向かい、レストランでは夕食の準備が進む。
誰かが辞めても、仕事は続いていく。
夏の風が吹く。
草刈り後の草の匂いがした。
俺は煙草を消した。
そして、草刈りの続きを始めた。




