それでも、私はまだここにいる
なんでこうなったんだろう、って思う夜がある。
寝る前、電気を消して、静かになった部屋の中で。
あるいは仕事帰り、暗い道をひとりで車を走らせている時。
似た車を見かけた時や、何気なく開いたSNSの中に、見覚えのある名前を見つけた時。
ふとした瞬間に、過去が勝手に浮かび上がってくる。
——あの頃のこととか、あの人のこととか。
今の私は、貯金もなく、三人の息子を扶養に入れている。
女手ひとつでここまで育ててきたけど、正直、楽になった実感なんて一度もない。
長男は高校を辞めて、バイト程度。
次男は家からほとんど出ない。
三男だけが定時制に通っている。
ちゃんとやれているのか、と聞かれたら、答えに困る。
仕事は、ただ近いからという理由で選んだ職場。
まともな職員なんてほとんどいない環境で、生活のためだけに働いている。
五年前には、乳がんの宣告を受けた。
遺伝性のものだと分かって、左胸を全摘、リンパも取った。
右胸と卵巣も、リスクを減らすために摘出した。
今も薬を飲み続けている。
ここまでくると、さすがに思う。
——私、前世で何したんだろう、って。
笑えない冗談みたいな人生だ。
それでも毎日は続くし、私は今日も働いて、帰って、また明日を迎える。
全部投げ出してしまいたいと思う日もある。
いっそ、このまま終われたらどれだけ楽か、と考えることもある。
でも、終わらせられない理由も、ちゃんとある。
三人の息子。
あの子たちを置いていくわけにはいかない。
だから私は、今日も生きている。
——こんなふうになるなんて、あの頃の私は、きっと何も考えていなかった。
あの頃の私は、本当に何も考えていなかった。
将来のこととか、まともに働くこととか、そういう“普通の人生”の輪郭すら、ぼんやりしていたと思う。
ただ、その場その場で楽しければいい。好きな人と一緒にいられればいい。
それくらいの感覚で生きていた。
きっかけは、よくある話だと思う。
街で声をかけられて、なんとなく連絡を取るようになって、気がつけばその人の周りの人たちとも繋がっていた。
その中のひとりと付き合うようになった。
今思えば、まともな人たちじゃなかった。
でも当時の私には、それが少し大人で、少し危なくて、魅力的に見えた。
「金、稼がない?」
軽い調子で言われたその一言に、深い意味なんて考えなかった。
風俗。
良いイメージじゃないことくらい、分かっていたはずなのに。
その時の私は、“彼のためになるなら”という理由だけで、自分を納得させていた。
母には置き手紙を残した。
ちゃんとした言葉なんて書けなかったと思う。
とにかく、持てるだけの荷物を持って、家を出た。
あれが、最初の大きな間違いだったのかもしれない。
でも、その時はそんなふうに思うことすらなかった。
流されるままに働いて、流されるままに時間が過ぎていった。
昼も夜も曖昧で、何をしているのか、自分でもよく分からない日が続いた。
二十歳で辞めると決めて、本当にきっちり辞めた。
その頃には、スナックでも働いていた。
ある日、ママにガラスの灰皿を投げつけられた。
理由なんて、もう覚えていない。
ただ、その瞬間の音と、空気の張り詰めた感じだけは、やけに鮮明に残っている。
それでも私は、その場所から離れなかった。
いや、離れられなかったのかもしれない。
そんな生活の中で、ひとりの男と出会った。
店で働いていたボーイだった。
それが、その後の人生を大きく変えることになる。
——子どもができた。
最初の妊娠は、流産だった。
何が起きたのか、ちゃんと理解する前に終わってしまった。
二度目の妊娠の時、彼に言われた。
「堕ろしてくれ」
言い方は、もっと軽かった気がする。
でも、意味は同じだった。
その時の私は、拒否することもできなかった。
それが当たり前のように感じてしまっていた。
三度目の妊娠が分かった時、ようやく思った。
——この人とは無理だ。
別れよう、一人で産んで育てようと決めた。
でも、その前に、話が勝手に進んでいた。
彼が、自分の母親に連絡していた。
気づけば、結婚することになっていた。
逃げるタイミングは、もうなかった。
結婚生活は、思っていたものとは違った。
彼は八歳年上で、いわゆる“オレ様”タイプだった。
子育てにも、積極的とは言えなかった。
それでも私は、ちゃんとやろうとした。
三人の息子に恵まれて、家のことも、仕事も、全部こなした。
同じ敷地内に住む義家族とも、うまくやっていたと思う。
“良い嫁”でいようとした。
そうしていれば、いつか本当に良い家族になれるんじゃないかと思っていた。
でも、現実は違った。
ある日、彼が仕事だと言って出ていた日に、パチンコに行っていることを知った。
何かが、音を立てて崩れた気がした。
積み重ねてきたものが、一気にどうでもよくなった。
離婚しよう、と決めた。
話し合いは、うまくいかなかった。
その日は、次男が熱を出して幼稚園を休んでいた。
その目の前で、私は——殺されかけた。
細かいことは、もう思い出したくない。
ただ、あの時の恐怖だけは、体に残っている。
私は、携帯と財布と、子どもたちだけを連れて家を出た。
行き先は、実家しかなかった。
あの時の判断が正しかったのかどうか、今でも分からない。
でも、あのままそこにいたら、今の私はここにいなかったと思う。
ここで一度、人生が切り替わった。
そう思いたかった。
でも、本当の意味で変わるのは、もう少し後の話になる。
地元に戻ってからの生活は、現実そのものだった。
働かないといけない。
でも、子どもが小さいと、それだけで雇ってくれる場所は限られる。
何件も面接を受けて、何度も断られて、
ようやく決まったのが、パチンコ屋だった。
やったこともない仕事だったけど、選んでいる余裕なんてなかった。
その場所で、彼と出会った。
ひとつ年下の男。
最初は、ただの同僚だった。
でも、話すうちに気づいた。
この人は、今まで出会ってきた人たちと、何かが違う。
物の見方も、考え方も、言葉の選び方も。
知らない世界を見せてくる人だった。
気づけば、惹かれていた。
知れば知るほど、自分にないものを持っているように見えた。
だから余計に、離れられなくなった。
でも、その関係は最初から歪んでいた。
私には、三人の子どもがいる。
彼には、妻と、子どもがいる。
それでも、止められなかった。
何度も終わらせようとした。
そのたびに、うまくいかなかった。
一緒にいる時間は、嘘みたいに満たされていた。
たくさん話して、たくさん出かけて、
笑って、触れて、確かめ合って。
“本当の家族みたいだね”
そんな言葉を、どちらからともなく口にしていた。
都合のいい関係だって分かっていたのに、
その時間だけは、本物だと思いたかった。
最初の数年は、幸せだったと思う。
でも、その“最初の数年”が、全部だった。
現実に引き戻されたのは、少しずつだった。
私は、子どもを育てるために、資格を取ろうと決めた。
看護学校に入って、必死で勉強した。
あの頃の私は、ちゃんと前を向こうとしていたと思う。
やっとの思いで資格を取って、働き始めた、その時だった。
乳がん。
現実が、また一気に重くなった。
彼に伝えた時、正直、終わると思った。
これ以上、巻き込めないと思ったから。
でも彼は言った。
「支えるよ」
その言葉を、信じた。
信じたかった。
でも、何かが変わり始めていた。
彼は、SNSの配信にのめり込んでいった。
最初は、ただの趣味みたいなものだったはずなのに、
気づけば生活の中心になっていた。
会う時間は減っていった。
話す内容も、どこか上の空だった。
私が体調を崩していても、
画面の向こうの“誰か”の方が優先されていた。
違和感はあった。
でも、それでも私は、まだ信じようとしていた。
決定的だったのは、体の異変だった。
病院で告げられた言葉は、聞き慣れないものだったけど、意味はすぐに分かった。
性病。
頭が真っ白になった。
問い詰めた時、彼は認めた。
浮気していた。
「やり直したい」
そう言われた時、すぐには切れなかった。
ここまでの時間を、全部無駄にするのが怖かった。
まだどこかで、信じていた。
でも、現実は何も変わらなかった。
むしろ、悪くなっていった。
彼は相変わらず、配信を優先していた。
私の知らない誰かに向けて、言葉を投げて、笑っていた。
その裏で、私はまた別の性病を告げられた。
もう、問い詰める気力もなかった。
その頃には、彼はもう、いなかった。
音信不通。
終わりは、驚くほどあっけなかった。
残ったのは、感情だけだった。
怒り。
悔しさ。
情けなさ。
それでも消えない、未練。
頭では分かっている。
終わってよかった関係だって。
むしろ、もっと早く終わるべきだったって。
それでも、ふとした瞬間に思い出す。
あの時間が、嘘だったとは思えなくて。
だから余計に、苦しい。
彼は今も、どこかで配信をしている。
画面の向こうで、誰かに優しくして、
誰かに必要とされている。
それを知ってしまうたびに、胸の奥がざわつく。
なんで、あの人が。
なんで、何もなかったみたいに。
そんな感情が、消えない。
それでも、私はここにいる。
三人の息子を養って、
仕事に行って、
ちゃんと生活している。
ボロボロでも、続いている。
全部、自分のせいだと思おうとした。
そう思った方が、楽だったから。
でも本当は、たぶん違う。
間違えたこともある。
見る目がなかったのも事実だと思う。
それでも、それだけじゃない。
ただ、誰かをちゃんと好きになっただけだった。
信じたかっただけだった。
それだけだったのに。
それでも、終わりじゃない。
終わりにしない。
ここで全部終わらせたら、
今までの自分が、全部無駄になる気がするから。
私の人生は、たぶん、うまくいってない。
それでも。
それでもまだ、続いている。
ここまで読んでくれた人へ。
この話は、特別な誰かの話じゃない。
どこにでもあるような、でも当事者にとってはどうしようもなく重たい現実の話です。
人を好きになることは、悪いことじゃない。
信じることも、間違いじゃない。
ただ、その気持ちが強すぎた時、
気づかないうちに、自分を削ってしまうことがある。
気づいた時にはもう抜け出せなくなっていたり、
頭では分かっているのに、心がついてこなかったりする。
いわゆる“沼”って、そういうものなんだと思う。
この物語の中で起きたことは、全部本当にあったこと。
でも、これはただの過去の記録じゃない。
今もどこかで、同じように苦しんでいる人がいると思う。
もしこの中に、少しでも自分と重なる部分があったなら。
「おかしいかも」と思えたなら。
それは、抜け出すきっかけになるかもしれない。
無理に強くならなくていい。
すぐに忘れなくてもいい。
でも、自分を後回しにし続ける必要はない。
誰かの言葉や態度よりも、
自分が感じている違和感を、大事にしてほしい。
それはたぶん、間違っていないから。
そして、これは自分自身にも向けて書いている。
まだ引きずっている。
まだ思い出して苦しくなる。
それでもいいと思っている。
なかったことにしなくていい。
全部含めて、自分の人生だから。
それでも、ここまで来た。
ボロボロでも、ちゃんと生きている。
だからもう少しだけ、続けてみようと思う。
いつか、心からそう思える日が来るかどうかは分からない。
でも、少なくとも今は——
私はまだ、ここにいる。




