螺旋の使者と胃痛の予兆 ~ポンコツ勇者、お使いと斥候は断固拒否したい~
作戦司令室(元掘っ立て小屋)の粗末な木の扉が、まるで世界の終わりの前触れのように勢いよく開け放たれた。息を切らして飛び込んできたのは、普段の飄々とした態度が嘘のように焦燥感を顔に貼り付けたギンジだった。その手には、不気味な螺旋の紋章が押された一本の矢文が、まるで呪いのアイテムのように握りしめられている。
「勇者様!エルミナさん!大変だ!村の近くの森で、見慣れない紋章をつけた偵察兵らしき連中を見かけた!そいつらが、これを…!」
ギンジの報告と、彼が差し出した矢文。そこに記された『――時は来た。歪みの門は、再び開かれる――』という簡潔かつ絶望的に不吉なメッセージは、ささやかな祝勝会と混浴露天風呂ハプニングで一瞬だけ緩みかけた村の空気を、再び鉄のハンマーで殴りつけたかのように凍てつかせた。
俺の胃は、この数分で摂取した焼き芋とスモーク風味ホットミルクが逆流しそうな感覚と共に、キリキリとした痛みを再発させていた。もうだめだ、この世界に来てから胃薬の消費量が尋常じゃない。常備薬どころか主食になりつつある。
「…『歪みの門』、だと?ヴァルザスたちが言っていた『裂け目』と関連があるのか…?」
エルミナが、鋭い眼差しで矢文を凝視する。その横顔は月明かり(掘っ立て小屋の隙間から差し込む)に照らされ、戦乙女のような凛々しさを漂わせているが、眉間には深い皺が刻まれていた。
クルトはといえば、矢文の螺旋紋章と、先ほどまで調べていた黒い金属片の紋様を交互に見比べ、「おお…!この紋様、やはり同一のものだ!ということは、この矢を放った連中は、ヴァルザスたちの『主』と繋がっている可能性が極めて高い!これは…これは実に興味深いサンプルだ!」と、またしても研究者の血を沸騰させていた。この男の危機感センサーは、好奇心の前では常時OFFらしい。頼むから少しは場の空気を読んでくれ。
『S.A.G.E.より警告:マスターの胃痛レベルが危険水域に到達。アドレナリン過多によるストレス性胃炎の兆候。推奨アクション:ルルナ嬢特製ハーブティー(鎮静効果・好感度微増効果付き)の摂取。ただし、現在の彼女の心配そうな上目遣いとマスターのヘタレ属性が化学反応を起こし、別の意味で心拍数が上昇する可能性は否定できない』
「(やかましいわ!お前は俺の執事か何かか!)」
俺は心の中でS.A.G.E.に悪態をつきつつ、チラリとルルナの方を見た。案の定、彼女は子犬のように潤んだ瞳で俺を見つめ、「ユート様…顔色が…大丈夫ですか…?」と、今にも駆け寄ってきそうな勢いだ。ああ、もう、そういう優しさが俺のポンコツ防御壁をいとも容易く貫通してくるんだって…。
リリアナさんは「ユート様!わたくしが!わたくしがあの不届き者どもを!」と息巻いているが、彼女の正義感と実力が比例しているかは、これまでの経験上、若干心許ない。フレアは「えー、なんかヤバそうなの来たー?あたし、もう一回お風呂入ってきてもいーい?」と、若干緊張感に欠ける発言。バルガスは「うおお!敵襲か!任せろ勇者様!このバルガス、いつでも戦えるぞ!」と頼もしいが、脳筋なのが玉に瑕だ。
「落ち着いてください、皆さん」
エルミナが冷静な声で場を制する。
「ギンジ、その者たちの人数、装備、そしてどの方向へ向かったか、分かる範囲で詳細を」
「へい。見たのは三人組。全身黒ずくめで、顔はフードで隠してたんでよく見えなかったが、動きはかなり手練れのようだった。矢を放った後、北西の…例の『龍の寝床山』の方角へ姿を消しやがった」
「龍の寝床山へ…?あの『どら焼き』の近くに、新たな『歪みの門』が開かれるとでも言うのか…?」
俺の呟きに、エルミナが頷く。
「可能性は高いでしょう。ヴァルザスたちが守っていた『歪みの祭壇』も、あの山の頂上にありましたから」
クルトが、興奮冷めやらぬ様子で割って入る。
「ふむ!となれば、この通信装置の解析が急務だな!破損が酷いが、僕の最新型『超次元量子干渉型データサルベージャー(試作品・たまに過去の持ち主の黒歴史を暴露する副作用あり)』を使えば、あるいは…!」
そう言って彼が取り出したのは、禍々しい紫色の光を明滅させる、タコの足のようなケーブルが何本も生えたヘルメットだった。絶対ロクなことにならなそう。
「クルト、その怪しげな装置は後です。今はまず、敵の意図と規模を探るのが先決よ」
エルミナがクルトを制し、地図(村の子供が描いた落書きレベルだが、ないよりマシ)を広げる。
「現状、敵の戦力は不明。しかし、わざわざ矢文で警告してきたということは、我々を試しているか、あるいは何らかの儀式や準備に時間を要し、それまでの陽動・牽制の可能性も考えられます」
「じゃあ、どうするんだよエルミナさん。まさか、またあの山に登るとか言わないよな?俺、もうどら焼きは見飽きたんですけど…」
「当然、調査は必要です。ですが、ユート。あなたには別の、もっと重要な任務をお願いしたいのです」
「え?俺に?重要な任務?(ど、どうしよう、カッコイイこと言われたら、つい引き受けちゃうかもしれないだろ!)」
エルミナは、俺の期待と不安が入り混じった表情を真正面から見据え、きっぱりと言い放った。
「ユート。あなたには、この村の…いえ、我々の生命線である『胃薬』の追加調達をお願いしたいのです。おそらく、これからの戦いで最も消費される物資でしょうから」
「……………………は?」
一瞬、時が止まった。
俺の脳内では、勇壮なBGMと共に「世界の命運をかけた戦いが今、始まる!」的なナレーションが流れかけていたのだが、エルミナの一言でレコードの針が盛大にズレた。胃薬?俺の重要な任務が、胃薬の買い出し?
『S.A.G.E.より分析:エルミナ嬢による的確かつ合理的な判断。マスターの戦闘能力は不安定かつ予測不能であり、大規模戦闘よりもピンポイントの奇襲、または物資調達のような後方支援の方が現状有効と判断した模様。なお、マスターのポンコツスキルが、買い出し中に「伝説の薬草商人とのエンカウント」や「お使いクエスト中にうっかり魔王の娘を助けてしまう」等のフラグを誘引する可能性は47.2%』
「(その可能性は今すぐ叩き折ってくれ!俺は平穏なパシリライフがしたいんだよ!)」
俺の心の叫びも虚しく、エルミナは続ける。
「この先の森を抜けた街道沿いに、小さな交易都市『ミツバ』があります。そこなら、質の良い薬草や調合済みの胃腸薬も手に入るはずです。ギンジには斥候として、龍の寝床山方面の敵の動向を探ってもらいます。リリアナさんとバルガスさんは村の警備。フレアとルルナはクルトの助手として、通信装置の解析と、もしもの時のためのポーション準備。よろしいですね?」
エルミナの指示は的確で、反論の余地がない…ように見えて、俺の扱いだけ明らかに雑じゃないか?
「ちょ、ちょっと待った!なんで俺だけお使いなんだよ!俺だって勇者だぞ!一応!」
「あなたのその『一応』の力が、いつ、どのような形で、どんな迷惑…いえ、どんな奇跡を起こすか分からない以上、単独での偵察や戦闘は現状リスクが高すぎると判断しました。ですが、あなたの『引き寄せる力』は、あるいは必要な物資や情報を、思わぬ形で我々にもたらすかもしれません。期待していますわ、勇者ユート」
エルミナの言葉は、どこか含みがある。果たして本気で言っているのか、それとも俺を厄介払いしたいだけなのか…。
結局、俺はポヨンちゃん(ニジカ)を護衛兼お目付け役(主に俺の暴走を止める役)として、大量の干し肉とアルパカミルクを持たされ、交易都市ミツバへと胃薬探しの旅に出ることになった。その背中に突き刺さる、ルルナの「ユート様…お気をつけて…!私が調合した特製回復軟膏です、よかったら…!」という声と、彼女が無理やり俺のポケットにねじ込んできた小さな軟膏の壺の温もりが、妙に心にしみた。
こうして、ポンコツ勇者の新たな冒険(という名の胃薬買い出しクエスト)の幕が、やや不本意な形で上がったのだった。
そして、俺が村を出て半日後。
龍の寝床山を偵察していたギンジから、緊急の狼煙が上がる。
それは、大規模な敵の集結を知らせる、最悪の合図だった。
ユートピア村(仮称)の、そして俺の胃の平穏は、やはり蜃気楼のように儚いものらしい。
(ポンコツ勇者、まだ見ぬ強敵よりも、品切れの胃薬が怖いお年頃!)