匂いも、心からの総ても
自己満足です。
いつもより少し遅い時間。アラームの音で目が覚める。心臓がキュッと縮まるような音。
慌ててバイトの用意をしようとし、ふと思い出す。今日は面倒なバイトに行く必要はないのであった。
行ってしまえば人間関係も良く、良い職場なのだが、如何せん行くのが面倒くさい。
いや、今はそんなことはよいのである。
今日は楽しみにしていた日。
一週間ほど前、一年半ほど疎遠になっていた友達から急に連絡がきて、会うことになったのであった。
やめてしまった大学でそこそこ仲が良かった、僕のタイプな女友達であった。
いつもより少し長めに風呂に入り、普段外に遊びに出ないせいで碌にもっていない服を頭に浮かべ、何を着ていこうかと考える。
家を出る前にタバコを吸っていると、外に出たときにはもう、ぎりぎりの時間であった。
僕の悪い癖だ。いつも時間に遅れそうになる。
電車の時刻表を思い出しながら、少し速足で歩く。
ぎりぎり滑り込んだ電車でメッセージを送ると、もう到着しているようであった。
私は方向音痴だとメッセージで笑っていた彼女は、少し早めに着くよう出たらしい。
だが、案の定場所がわからず、あちらへこちらへと動いているようであった。
電車が止まり、降りた僕はホームを移動しながら、『遭難したときは動かずその場で止まって助けを待つべし』、とメッセージを送っておいた。
なんとか合流した久しぶりに会う彼女は、一目見ればすぐに分かった。ただ、記憶の中とは少し違っているように感じた。
顔が変わっていたわけではない。何というべきか、雰囲気が違ったのである。
彼女は、胸元が大きくあいた服を着ていた。僕が在学中は、あまりそういうイメージはなかったように思う。
「ひさしぶり!元気してた?」
「久しぶり。そこそこ元気でやってる。君は?」
「いろいろあったけど、今は元気にしてる」
僕たちは予約していた店に入り、酒を飲みながら色々話した。
彼女は、少し前まで人間関係で追い込まれていたようであった。
僕が知っている、数年付き合っていた彼氏と別れた話をしていた。
その次の彼氏に、二股をかけられて別れた話もしていた。
僕が大学にいた頃の話もした。
「前はクソガキ!って感じだったけど、なんか落ち着いたね」
「そう?そんなに変わった自覚ないけど」
「ううん、変わった!見た目はあんまり変わってないけど、雰囲気がなんか大人って感じ」
今聞けば恥ずかしい事も向こうは覚えていた。僕は全然覚えてなどいない。
いや、意識的に忘れていただけなのかもしれないが。
彼女が日本酒を飲んだことがないというので、飲みやすいものをチョイスして一緒に飲んだりもした。
「おいしいかも!」
と微妙な顔で笑いながら少し飲んで、そこからは桃のお酒を飲んでいた。
気づけば二時間ほどすぎていた、本当に一瞬で時間が経っていた。楽しかった。
「そろそろ出ようか。次どこか行く?何時までに帰りたいとかはある?」
「ううん。明日は全休だから、何時まででも大丈夫だよ!あれ行きたい!カラオケ!」
彼女はそう言って、楽しそうに笑っていた。
彼女のバイトで少し遅めに集まったのもあり、その頃には二十一時になっていた。
終電はぴったり零時。
僕は、終電まで余裕をもってもあと二時間半、いや、四十五分は大丈夫だ、と思いながら了承していた。まだこの楽しい時間を手放したくはない。
お店を出ると灰皿が置かれていて、最近吸い始めたらしい彼女と話しながら吸った。
レギュラーしか吸わない僕は知らない、少し果物の香りがするメンソールであった。
「大学にいた頃、いつも喫煙所にいたでしょ?会うたびにタバコの匂いして、あ、また喫煙所行ってたんだなって思ってた!でも、やっぱり嫌いじゃないな、この匂い」
コンビニでつまみと酒を買い込み、寒そうにしていた彼女に上着を貸して、持ち込みが大丈夫なカラオケを探して少し歩いた。
女の子の荷物は持ってあげるべき、という長らく使っていないが、癖になっている気遣いを発揮していると、彼女が腕を組んできた。
歩いている途中、タバコを吸っていた彼女が吸いかけのものを差し出して吸ってみてほしいというので、一口吸ってみる。
少しおいしく感じて、かわいい女の子の吸いかけだからなのかな、と益体も無いことを考える。
僕はまだ、終電には帰すつもりであった。
カラオケに着くと、二人でたくさん歌った。
彼女はとても歌が上手かった。そういえば、彼女はシンガーソングライターを目指していたのであった。
僕も負けじと歌ったが、どうだったろうか。あまりうまく歌えていなかったような気がする。
だんだんと、お互いの距離が縮まっていく。
人一人分、こぶし一つ分、もう手を伸ばさずとも簡単に触れられる距離になってしまった。
彼女の匂いで、感触で、心が埋め尽くされていく。
なんて心が安らぐ、それでいて落ち着かなく、ドキドキさせられる匂いなのであろう。
今までに触れた別の女性とは、何かが違うような。
唇、首筋、耳、気の赴くまま彼女に触れるたびに、満たされる。
タバコよりも、麻薬よりも、依存性が高いこの匂い。
もう、何も考えられない。
「また飲みに行こう。今度はこっちからも誘う」
「うん、またね」
帰り道はいつも、音楽を聴きながら帰る。
この感情をどうにか邪魔しなければ。
少し曲数の増えた、いつものプレイリストを流そうとして手が止まる。
そういえば、彼女の好きな曲を入れたのであった。
抵抗を失った想いがあふれて、心が占領される。
この想いを消し去れるだけの理由を見つけようとする。
悩み事は人に相談するだけで楽になる、とはよく聞くが、僕の場合、同情してほしい、慰められたいなどという浅ましい心しか出ないのであろう。相談する相手もいないのだが。
僕は何をしたいのであろうか。
自分のことはよく分からないし、よく分かっている。
僕は、最低な人間なのである。
この醜い時間のせいで僕は生きていてしまう。
この思考も、わが身可愛さの自己保身なのであろう。
そんなことを考え、また自己嫌悪に陥る。
生きていることを実感できる。僕はなぜ生きているのか?
後悔のループに入る。なぜ?なぜ?
いつもの時間。アラームの音で目が覚める。心臓がキュッと縮まるような音。
いつもの癖でバイトの用意をして、家を出る。また、日常が始まっていく。
心ここにあらず、といった状態で、仕事をこなす。いや、それは消し去りたくても確かに此処にあってしまうのである。
時間が経つごとに、彼女の中から僕は消えていくのであろう。それが耐えられず、ついメッセージを送ってしまう。
どうせ僕も、時間が経てば忘れてしまうのだろうに。
僕はやはり、最低な人間なのである。
心に溶け込んできた彼女に文句を言ってやって、困らせてやろうか、なんて考えてしまう。
そんな自分のことが心底嫌いだ。なんと醜く、汚いイキモノなのであろう。
しばらくすると、メッセージが返ってきた。
よかった。まだ消えてはいなかったようだ。
バイトが終わり、時間を確認すると、始発までは一時間と少しほど時間があった。
何をして時間をつぶそうかと考え、タバコを取り出すと最後の一本である。
コンビニに向かいながらタバコをくわえると、ふと袖口から彼女の匂いがする。
そういえば昨日、彼女に上着を貸したのであった。
見ないようにしていた昨日の出来事が思い出される。どうやら、匂いは記憶と結びつきやすいらしい。
結局昨日はキスまでしておいて、最後までは手を出せなかった。
あのまま最後まで手を出してしまうと、取り返しのつかないところまでいってしまうような気がした。もう手遅れなのかもしれないが。
彼女には特別な感情などないのであろうから。
醜い心に蓋をする。
僕は全くもって、臆病者なのである。
中途半端に手を出すのはよくない、とむくれていた彼女をよく覚えている。
そんなところまでかわいいのだから、困ったものであった。
そういえば、彼女が吸っていたタバコ。少し果物の香りがするメンソール。
普段はレギュラーしか吸わないが、おいしく感じたのであった。
なんだったろうか。
コンビニに入り、タバコが置かれている場所に目を見やる。
あっさりと見つかったそのタバコを購入し、店を出た。
タバコをくわえて火をつけると、彼女の匂いと果物の香りが混じり合う。
これからは、これが彼女の匂いになっていくのであろう。
あの時はおいしかったように思えたタバコは、記憶に反し、まずかった。やはり彼女のものだけが特別なのであろうか。
しかし、買ってしまったからには消費しなければ、と二本目に手を伸ばす。
またタバコの本数が増えてしまうな、と思いながら、内にとどめるように深く吸った彼女の匂いを吐き出す。
あぁ、この想いも、匂いも、醜い心も感情も。
総て煙に乗って消えて無くなりますようにと、願いながら。
願いなんて、心から出る最たるものなのにね