死のはざまにて
闇の底、無意識の奥にウルは墜ちていた。
ここの所、何度も自分の中にいる色欲と憤怒との接触を計っていた為か、自分がその中にいることをウルは自覚していた。しかし、今回は自分の意思で潜ったのではない。ただ、死にかけて此所に転んだだけだ。
だから、身体が動かない。
声も発することが出来ない。
身体から、熱がどんどんこぼれ落ちているのだけは分かる。
このままだと死ぬ。という漠然とした事実が心を凍らせる。それでも、動かない。
『うる』
声がした。酷く幼い声が。闇の中で身じろぎ出来ずにいるウルの頭を撫でた。
『しにかけ?』
肯定しようとするが、身体はやはり動かない。返事をすることすら出来ない。何もかも億劫で、何をすることも出来ずにいた。そのウルの頭を、小さな手はもう一度、揺さぶるようにして触れる。
『ねる?』
いいや
声にはならなかったが、身体も動かすことは出来なかったが、それだけは無い。何もかもハッキリとしない無意識のただ中であっても、このまどろみの内側で沈み込む事だけはしない。
自分の内側にある衝動、燃えさかる炎、苛烈なる我。それを見てみぬ振りをして、ねむりこけるわけにはいかなかった。
『そう』
そんなウルの意思を、幼い声の主は読み取ったのかはわからなかった。しかし、納得したように頷くと、ウルの左腕、失われて、熱を零し続ける左腕があった部分に、ゆっくりと触れる。
『―――――――』
美しい鳥の声が聞こえた気がした
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「―――っは!!!?」
ウルは、奈落の底の、瓦礫の山の中で目を覚ました。そして早速混乱した。自分が居る場所が分からなかった。しかし、体中に走った激痛が、自分は未だに戦場のただ中にいることを伝えてくれた。
徐々に、記憶が蘇ってくる。先の激闘の末に、何が起こったのか。あの凶悪極まる四極の竜を相手にして、どのようなダメージを負って、この奈落、下の階層まで落ちてしまったのかを。
あの高さから落ちてしまえばタダでは済むまい。そのまま死んでもおかしくなかった。だが、見ると、周囲に輝く光の剣が幾つも刺さっている。ウルの寝転がっている周囲にもだ。恐らくユーリが、地面に叩きつけられる直前、その衝撃を緩めるべく、天剣を展開してくれたようだった。
そして、自分が左腕を吹っ飛ばされたことを思い出して、ぞっと寒気がした。
「う、で……!?」
反射的に右腕で左腕を触れる。そう、触れることが出来た。確かに自分の左腕がある。回復したのか?とも思った。自分がここの所、異様に傷の治りが早いことはウルも気がついている。
だが、いくらなんでも、あの竜の翼で、腕まるごと吹っ飛んだのに、その傷が回復して、挙げ句に新しい腕が生えるとも考えづらかった。
見ると、今のウルの左腕は異様にその皮膚が黒かった。獣の様に真っ黒だ。爪は異様に伸びて、奇妙な鱗もうっすらと生えている。ちょうど、ウルの異形となった白い右腕にどこか似通っていた。それ故に、それが何の要因によるものなのか、ウルにはすぐ理解できた。
「ラースか……」
大罪竜ラースの呪い、あるいは祝福が、ウルの命をつなぎ止めた。
右腕に次いで左腕まで異形化してしまったことは、嘆くべきことだったのかもしれないが、意外なほど、ウルはその事実をあっさりと受け入れていた。
「後、だ、それよりも……!」
そう、ソレよりも今は、気にしなければならないものがある。ウルの腕が消し飛んだのがなんの夢でもまぼろしでもないとするならば、ウルと共に落下した―――
「ユーリ……!!」
自分のすぐ傍で、血の海に沈んでいるユーリを発見して、悲鳴を上げた。すぐさま彼女の下にかけよると、足下がぬれた。彼女の血だった。その血の量にさらなる最悪を想像し、ウルは彼女の傍へと急いだ。
「ユーリ!!」
「―――――」
声をかけても、彼女はピクリとも動かない。顔色は死人で、しかも右腕がなかった。そこから血がこぼれ続けている。
死
ウルは反射的に直感した。考えたくなくとも、思考に強制的にその単語が脳裏を過った。それほどまでに濃厚な血の匂いだった。ウルが幼い頃から経験してきた、終わりを迎える者達と同じ気配だった。
小さく、呼吸はしている。だけど、それももう止まる。そうすれば死ぬ。
「神薬!」
常備していたそれを、急ぎ彼女に飲ませる。無理矢理顎をあげて、流し込む。だが飲ませようとした先から神薬は彼女の口からこぼれた。ちゃんと飲んでいるかもあやしかった。
そもそも臓器が正常に機能しているかも怪しい。
「失礼……!」
鎧を剥ぎ取り、彼女の肢体を晒す。先に身体、吹っ飛んだ腕を治すのが先だった。その間に、口に含ませた【神薬】が彼女を死の淵に留まらせてくれる事を祈った。
だが、晒された彼女の身体を見て、ウルは更に絶句した。
「……!飲めるわけねえよな、クソ!」
悲惨が過ぎた、無事な場所が全く見当たらないほど、光の魔眼による火傷と、裂傷だらけだ。腕の切断が一番ダメージは大きいが、それ以外の場所も、放置していて良い有様ではない。
焼けた喉、身体、ふっとんだ右腕に神薬を塗布し、癒えたタイミングを見計らい改めて経口で神薬を染み渡らせる。流石、というべきか、神薬は瞬く間に彼女の傷をいやした。王の時とは違い、悪意に満ちた呪いが傷に上乗せされていなかったのは幸いだった。
「飲んでくれ……!」
最後の一本の神薬を含ませる、零れたのを指でひらい、押し込んで、直接嚥下させる。最高の神薬は彼女の身体の内側に溶け込んで、僅かに輝き、その癒やしの力で彼女の身体を内側から回復させた。
呼吸が安定し始める。その事に安堵し、やっとため息を吐き出したウルは、自分の今いる場所にようやく意識を向けることが出来た。
「……地下か」
先ほど、復活した天賢王の大暴れで空いた大穴。迷宮のさらなる地下階層。
迷宮は、確か物理的に次の階層とつながっているわけでは無いはずだった。と言うことはここは五十五階層のままなのだろう。上に登れば、また仲間達の所に再会できるかもしれないが、四極の竜もいる可能性がある。
戦っているなら助けなければならないが、一方で助けも必要だった。ユーリはまだ目を覚まさない。一命を取り留めただけで、命がつきかけたのだ。それが瞬く間に回復してしまうほど、神薬は万能ではない。
「エシェルに回収、も、無理か……どうする……」
通信魔具もろくに届かない。あるいは通信の向こう側も無事ではない可能性もある。
やはり、どちらにせよ、速く戦場に戻らなければならなかった。幸い、竜牙槍も竜殺しも近くにあった。後は、なんとか彼女を―――
「―――…………ああ」
「っと!?」
ひとまずはユーリを動かして、移動しようとした時だった。強い力で腕を握られた。意識を取り戻したのか、とも思ったが、彼女の表情はおかしかった。
「ユーリ、おい!」
「わから、ないの」
彼女は泣いていた。ボロボロと涙を流して、ウルの手にすがりついて、子供のように泣いていた。痛みで?とも思ったがそうでもない。視線が彷徨っている。ウルを認識しているのかも怪しかった。朦朧としている。
「わから、ない。どうすれば、いいの」
「何が、だ」
「剣を、どう握ったら良いのか、わからないの」
握る、と、言われ、ウルは反射的に彼女の右腕を見た。既に、そこに腕は無い。
【神薬】であっても、ウルの左腕のように、彼女の身体に新しい腕をはやすような、物理的法則を無視した現象を起こすことは出来ない。体中の傷は癒えても、腕は悲惨なままだ。
「……大丈夫だ。心配するな。ウチの天才技師なら、イカした義手作れるから。生身の腕よりも、自由に動かせるさ」
あまりにも情けの無い慰めの言葉しか出てこない自分に腹をたてながら、ウルはそっと抱きしめ、背負い、立ち上がる。せめて、彼女をもう少しマシな、安全な場所に移動させなければならない。そしてできるだけ早く、再び戦場に戻らなければならなかった。
「どうやって、剣を、振るえば、いいの」
「大丈夫だ。大丈夫」
そう繰り返しながら、ウルはひたすら迷宮の先へと進んでいった。




