7.飛び散る火花(天恵9年4月中旬)
あっという間に、火曜日はやってきた。
あの六連昴の走りを生で見られる。颯太は、自身の中に沸き上がる興奮を押さえつけて、集合の場に立っていた。
あの、やる気のない長距離パート員たちを、認めるつもりはない。二年あまり発破をかけてきたけれど、一向に変わる気配のない彼らを。
だが、今まで傍観の構えを見せてきた六連が、ここで口を出してきたということは、六連には、彼らを変える気がある、ということなのだろうか。彼らのやる気を引き出すことが出来るのか、それとも現状維持のままなのか――。六連のお手並み拝見、というところか。
「おや、逃げずに来ましたか」
「どうして逃げなきゃいけねえんだよ!」
一昨日に引き続き、しっかりと恭輔を挑発して笑む、六連。恭輔は憤っているけれど、今のあいつが六連の相手になるとは思えない。それほどまでに、その実力は圧倒的だろう。
けれども――六連が、蒼桜高校で教師をやっているのには、何か理由があるのではないのか? かつて、テレビで見た彼は、心の底から競技を楽しんでいるふうだった。競技から離れたいと考えていたとは思えないほどに。だが、事実彼は、ここにいる――。
「それでは、いきましょうか」
どこか緊張の走るグラウンドに、静かでのんびりとした六連の声が、揺れた。
*
「それでは、いきましょうか」
六連のその、まるでふらりとコンビニにでも行くかように、気軽な響きを持っていた。それは、自分との勝負を何でもない事のように思っている――恭輔には、そう聞こえた。そのことが、また恭輔の苛立ちを募らせる。
ギリギリと歯噛みして睨みつける恭輔の視線を、どこ吹く風と受け流す六連。負けたくない、と、恭輔は思った。
「じゃあ、位置について――スタート!!」
雄大の合図で、恭輔と六連の勝負は始まった。
――――千五百メートル……得意種目だ。負けるわけが、ねぇ!!
燃え盛る恭輔の内心とは裏腹に、とても静かな立ち上がりだった。拍子抜けするほどに穏やかな入り。
「……え、」
けれども恭輔は、すぐに驚きに目を見開いた。――前に出られない。激しい争いを繰り広げたわけでもないのに、気が付けば最初の争いを制したのは六連だった。
恭輔は、六連のすぐ後ろについて、前に出るタイミングを窺った。だが――全くもって、隙がない。ペースは、ついていけないほど速いわけではないのだが、――どうしてこの青年を抜き去ることができないのかすら、恭輔にはわからなかった。
「っ、くそ……。――?!」
六連が、ちらりと恭輔を流し見た。その瞳の色に、恭輔は目を見開いた。六連の透き通る灰緑色の瞳には、冷静な静けさの中、微かに揺れる焦熱の色が揺れていたから。それは、いつも飄々としている筈のこの教師には、何故かとても似合っているように感じた。
その色に引きずられるように、いつのまにか恭輔は、必死に彼の背中を追っていた。ぴりりと身体に走る興奮は、本当に久々に感じるものだ。ただ、走る――それだけが、今自分がやるべきことだと、強く感じた。
*
「すごい……っ!」
「うわーーっ、先生、先輩も!! すっげーーー!!!」
トラックをひた走る二人の姿を見て、流風はただただ唖然とした。二人の走りが、具体的にどれほどすごいのかは、初心者の流風にはよく判らないけれど。隣できゃいきゃいとはしゃぐ慎悟をみるに、経験者の目から見ても、相当のものであるらしい。
――――これが、ランナーの走り……。
その走りは、素人目にもすさまじいものに映った。特に、六連――その走りは、酷く美しく、どこか風格さえ漂う力強さだった。その姿は、流風にはとても遠く見える。
「よく見ておきなよ、流風」
「凛太郎先輩……!」
「まだ全く本気じゃないだろうけど。……あと何度見られるか分からない、"最高峰"だよ」
突然声をかけられて、流風は驚いてその名を呼んだ。いつもいつも、眠たそうに瞼を下げている財前が、ぱっちりと目を開いて目の前の勝負を見据えていた。
財前の言葉の意味は、流風にはよくわからない。けれども、その瞳に揺れる微かな憂いに、流風は一抹の不安を覚えたのだった。
*
――――やっぱり、いけ好かねぇ……!
恭輔は、心の中でそう吐き捨てた。
勝負は、あっという間にあと四百メートルを残すところとなった。六連は、ずっと恭輔の前を走っている。それは、勝負というよりもむしろ、恭輔を引っ張るような――恭輔の力を引き出すような雰囲気さえ醸し出している。勝負と銘打っておきながら、その実、恭輔と競り合う気なんて毛頭ないのではないか。それほどに、余裕を残しているのが伝わってくるのだ。
「……こんな、っ、程度ですか……?」
「な、わけ……ねぇっ!!」
視線を寄越した六連が、にやりと挑発を投げてきた。売り言葉に買い言葉。恭輔は六連の挑発に乗っかった。ぐっ、と、一気にスピードを上げる。これで、一気に突き放す――はず、だった。
「な、……んで!?」
「そう簡単に、っ、離れません……!」
自信をもってかけたはずのスパート。けれど、六連のスピードは、恭輔のそれを上回っていた。必死に腕を振るも、その背中はどんどんと遠くなっていく。この差が、自分の二年間の怠慢のせいだとするならば、恭輔は――。
力強く、美しいそのフォームを遠く見つめながら。結局恭輔は、一度も六連の前に出ることすらできないまま、千五百メートルで敗北を喫した。
「……っ、僕の、勝ちですね」
「……くそ……」
「……ゲホッ、っ、約束は、守ってもらいますよ……っ、」
苦しげに咳込んだ六連は、踵を返して監督室の扉の向こうへと消えていった。恭輔は、ただただ立ち尽くしてその背を見送った。
募らせていた苛立ちや怒り、走ることへの興奮、懐かしい、勝負に血が沸き立つ感覚。――色々なものが綯い交ぜになって、恭輔は、いったい自分がどうしたいのか、解らなくなった。
*
――――すご、かった……!
蓋を開けてみれば、六連の圧勝で幕を閉じた、このレース。けれど、江間とて、目を瞠るほどの好走を見せていた。何より、江間の瞳に揺れていた輝きが、流風には全ての答えのように思えてならなかった。
六連の見たかったものは、これなのではないか、と――。
「……っ、僕の、勝ちですね」
「……くそ……」
「……ゲホッ、っ、約束は、守ってもらいますよ……っ、」
いつかと同じように苦しげに咳込んだ六連は、江間に不敵な笑みを見せると、ふらりと監督室へと歩いていった。立ち尽くす江間は、一体何を思っているのだろうか。
「……練習、始めててくれ。いつも通りでいい!」
部員たちの方へと指示を飛ばし、風祭は六連の後を追って監督室へと走っていった。あとに残された部員たちは、顔を見合わせると、目の当たりにした光景の興奮冷めやらぬまま、練習を開始した。




